今回の記事では日本で起きた戦乱に着目し,その概要を解説していくシリーズの第1本目として,安土桃山時代までの歴史の流れに着目していきます。戦いというのは歴史の転換点で発生するものなので,中学受験社会を攻略するにあたって極めて重要な要素だと言えます。よろしければ別シリーズの制度・法律史の解説とセットで活用してみてください。
戦乱史とは…?
さて,そもそも戦乱史とは何を指すのでしょうか。まず戦乱とは戦いが起こって世の中が乱れることを指します。この語義からも分かる通り,1つの戦いには多くの要素が関連していて,その戦いの結果によってたくさんの事柄が変化してくるのです。それゆえ歴史の理解を深めていくにあたって,戦乱の発生に注目しておくことはとても重要です。特に注目しておきたいのが,戦乱の年代・登場人物・背景・結果という要素です。そのためここから先は時代の流れに沿って,以上の4つのポイントに注目しながら,日本で発生した戦乱を追っていきましょう。
旧石器・縄文・弥生・古墳時代
まず旧石器・縄文・弥生・古墳の4つの時代に関してですが,これらの時代で覚えておきたい戦乱はありません。というのも,これらの時代に戦いが起きたとしても,それが残された記録がなかなか見つからないからです。そのため具体的な戦乱を頭に入れることはないのですが,弥生時代に「くに」ができ,その中の奴国や邪馬台国などが中国まで貢ぎ物を届けに行ってその存在にお墨付きをもらおうとして,やがて大王をトップに据えた大和政権と呼ばれるグループが日本の九州から東北地方の南部までを支配するようになる,という流れは,以降の時代の戦乱を追っていくにあたって理解しておくといいでしょう。
飛鳥時代
ではここから飛鳥時代の解説に移り,戦乱を本格的に見ていきましょう。まず飛鳥時代の初め頃,蘇我氏というグループが朝廷と近づき勢力を強めていきます。この蘇我氏が,聖徳太子が亡くなった後の政治を握ろうとしたのですが,これに対し中大兄皇子・中臣鎌足らが天皇中心の政治を取り戻すために実行した改革が大化の改新です。厳密に言えばこの大化の改新とは改革そのものを指すため,戦乱とは言えません。しかしその一部である乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれるクーデターで蘇我氏の有力者である蘇我入鹿の首がはねられたことは登場してもおかしくありません。そのため戦乱の文脈で頭に入れておくといいでしょう。
そして中大兄皇子による政治が始まるわけですが,彼は朝鮮にあった国の1つである百済からの救援要請を受け,百済を攻めていた唐及び新羅という国と戦うことを決意します。これが白村江の戦いと呼ばれる戦乱です。結果としてこの戦乱で日本は負けてしまい,朝鮮半島から手を引くことを決意します。しかしそれだけでは唐や新羅に攻め入れられる危険があったため,中大兄皇子は強い国家を作るべく,改革が一段と進められていきました。
3つめに覚えておきたい戦乱は672年に起きた壬申の乱です。この戦乱は即位した中大兄皇子である天智天皇が亡くなった後,彼の子供である大友皇子と弟である大海人皇子のどちらが継ぐかを争ったものになります。結果として大海人皇子が勝ち,天武天皇として即位することになります。天武天皇は律令政治の基礎を作り上げた人物ですので,そのことと関連させて戦乱の中身を頭に入れていくといいでしょう。
奈良時代
続いて奈良時代ですが,この奈良時代は平城京への遷都が完了した710年から平安京への遷都が完了した794年までのほんの84年間しかないので,受験に登場するくらい大きな戦乱はありません。ただ平安時代以降の歴史を追っていくために,この奈良時代はルールに基づいて国家を統制するという律令国家であったことや,重たい税によって農民が苦しんでいたこと,また党との交流の中で仏教が日本にもたらされたことなどは意識しておくといいでしょう。
平安時代
ここからは平安時代の歴史を辿っていくこととします。先の章でも触れましたが,平安時代は桓武天皇が都を平安京へと移した794年を基準にスタートします。その400年間の歴史の中では多くのことが変わったのですが,戦乱に関してまず覚えておきたいことは坂上田村麻呂の遠征です。彼は桓武天皇によって征夷大将軍という役職に任命され,東北地方に住んでいた蝦夷という人々を支配しようとしました。この坂上田村麻呂に関しては多くの伝説が残されていますので,具体的な戦いの名前こそ覚える必要はないものの,その名前はしっかり暗記しておきましょう。
その後政治は天皇中心だったものから摂関政治へと移り,公地・公民の原則が変わって荘園という私有地が認められるようになると,土地の取り合いが起こるようになります。この争いで負けないように一族を武装させる有力な農民や豪族が,武士としてグループを形成するようになります。この武士団のうち有力なものが源氏と平氏だったわけですが,この頃にはたくさんの戦乱が発生します。まず大きな戦乱として覚えておきたいものが,935年から940年までの期間に関東地方で発生した平将門の乱,そして939年から941年までの期間に瀬戸内地方で発生した藤原純友の乱です。これら2つの戦いは承平という元号と天慶という元号の期間に起こったものなので,合わせて承平天慶の乱とも呼ばれます。この2つの戦いの経緯にはいくつかの説があるのですが,朝廷は自分達の力だけで戦いを沈めることができず,武士の力を借りてようやく戦乱は収まりました。その結果,武士の力が朝廷に認められるようになりました。
その後発生した大きな戦乱が11世紀の後半,1051年から1062年にかけての前9年の役・1083年から1087年にかけての後3年の役です。この戦乱は現在の東北地方で起こったもので,前9年の役は当時岩手県のあたりに大きな勢力を築いていた安倍氏と,それを畏れた朝廷によって派遣された藤原登任と源頼義による争いを,後3年の役は前9年の役の後に東北地方を支配するようになった清原氏の間で起こった土地をめぐる争いを指します。なぜこれらの戦乱が起こったのかは重視する必要はないですが,その規模感から年代と名前をセットで覚えておくと良いでしょう。
最後に触れるのが1156年に起きた保元の乱,1159年に起きた平治の乱です。平安時代の末期には,摂関政治をおこなっていた藤原氏の勢力を抑えるために,白河天皇が天皇の地位を譲って引退した上皇になったあとも政治を行う院政が進められました。この院政における政治の実権を争って上皇と天皇の間に発生した戦乱が保元の乱になります。保元の乱ではそれぞれの側に武士団が味方したのですが,戦乱の結果天皇側が勝ち,その味方だった平清盛・源義朝が勢力を伸ばしていきました。こうして平氏と源氏ではだんだん強くなっていくものの,やがて対立するようになります。その結果起こったのが平治の乱です。この結果平清盛が源義朝を倒し,その後平清盛が太政大臣という役職をもらうと,平氏は政治を手中に収めるようになります。しかし,この政治は武士の不満を買ってしまうのでした。
鎌倉時代
それでは続いて鎌倉時代の歴史を見ていきましょう。平安時代の終わりに平氏が政治を動かすようになり,それに対する反感が高まると,源頼朝や源義仲などの源氏が兵を上げるようになります。源氏は平氏を徐々に追い詰めていき,頼朝の弟である源義経が1184年の一ノ谷の戦い,1185年の屋島の戦いで勝つと,最後は1185年に起こった現在の山口県での壇ノ浦の戦いにて源氏が平氏を滅ぼし,征夷大将軍として頼朝は朝廷に認められるようになりました。
その後は鎌倉幕府の将軍による政治が行われ,頼朝が亡くなると執権である北条氏による政治が始まるのですが,このような幕府中心の支配に対して朝廷は不満を抱くようになります。そして1221年後鳥羽上皇により,執権を討って本格的に政治を奪還しようとする動きが起こります。これが承久の乱です。しかしこの計画は,武士の多くが幕府側についたことによって失敗してしまいます。この戦いの中で頼朝の妻である北条政子が武士を戦いに駆り立てたというエピソードもあるのですが,幕府が勝った結果,京都に六波羅探題が設置されて朝廷は厳しく監視されるようになりました。
そして鎌倉時代の締めとして解説するのが元寇です。鎌倉時代の終わり頃,現在の中国を支配していた元という国が日本に服属を求めます。当然幕府の執権であった北条時宗はこれを阻止するのですが,その結果元は2度にわたって日本に攻め入りました。この2度の戦いのうち1274年に起きたものを文永の役,1281年に起きたものを弘安の役と呼びます。この戦いにおいてフビライ=ハン率いる元はてつはうなどの火器を使ってきたため日本は大変苦戦するのですが,石塁という土手による強固な防衛と相次ぐ悪天候によって現行は退き,幕府は日本を守ることに成功しました。しかしこの戦いは防戦だったので,新たに土地を得ることはできませんでした。そうなると,奉公してくれた武士に対して支払う土地という報償が支払えません。その結果たくさんの御家人の生活が苦しくなり,社会が混乱してしまうのでした。
室町時代
ここからは室町時代の戦乱史に移ります。先ほど説明した元寇より御家人の生活が苦しくなると,鎌倉幕府に対する不満が高まっていきます。室町時代では,まず初めにそれをチャンスと捉えた後醍醐天皇が,1324年に倒幕を図って戦いを起こします。これが正中の変です。この戦乱の名前が受験に出ることはないでしょうが,天皇の名前は覚えておくと良いでしょう。この正中の変は結局失敗に終わってしまうのですが,その後有力な武士である足利尊氏・新田義貞・楠木正成などが天皇に味方し,1333年に元弘の乱を起こすと,今度は無事成功し,約150年続いた鎌倉幕府を滅ぼすことになりました。
こうして鎌倉幕府が滅び,新たに天皇を中心とする建武の新政が始まります。しかしこの政治は天皇中心のもので,武士に対する恩賞が少なく,倒幕に協力した武士たちから反感を買ってしまいます。最終的にこの建武の新政は,1336年に足利尊氏が挙兵して京都に攻め入って後醍醐天皇を退けたことにより,2年ほどで終わってしまいました。その後尊氏は1338年征夷大将軍に任命され,室町幕府を築き上げます。この過程で尊氏は追いやった後醍醐天皇の代わりに光明天皇という新しい天皇を立て,朝廷と手をとっていこうとしました。しかし後醍醐天皇の側がこれに対して不満を抱き,彼は吉野という土地に別の朝廷を立てて足利尊氏・光明天皇らに対立しようとします。この対立による争いが以降60年間近く続くのですが,2つの朝廷のうち尊氏が立てたものを北朝,後醍醐天皇が立てたものを南朝と呼ぶことから,この戦いの時代は南北朝時代と呼ばれます。最終的にこの南北朝時代は3代目将軍足利義満によって1392年に収められ,朝廷は再び1つに統合されました。
この他に室町時代で覚えておきたい争いとしては,1467年から1477年まで続いた応仁の乱が挙げられます。3代将軍義満のときに全盛期を迎えた室町幕府ですが,8代将軍足利義政のとき,義政の後を誰が継ぐのかに関する揉め事が起こります。義政の時代には,細川氏と山名氏という有力な守護大名がいたのですが,このうち細川氏が義政の弟を,山名氏が義政の子供を支援したため,どちらに将軍の座を譲るか決断できない義政の態度も相まって対立は拡大し,全国の大名が京都に集結する応仁の乱が始まってしまったのでした。この戦乱は11年間続き,最終的に義政の子供が将軍の座を継ぐことになるのですが,京都は焼け野原になり幕府の力も衰えてしまったため,有力な守護大名が政治の実権を握るようになりました。なおこの出来事の中心人物だった義政は,戦乱を避けて京都の東山という土地に別荘を立てて隠居してしまいます。これが現在の銀閣寺です。戦乱にまつわるエピソードの1つとして覚えておくと良いでしょう。
安土桃山時代
最後に安土桃山時代について確認していきます。室町時代の終わりになると大名が政治の中心に立つようになり,やがて身分の低いものが身分の高いものを倒す下克上の風潮が強まっていきました。そんな安土桃山時代には全国各地で戦国大名の間に多数の戦乱が起こります。今回はその中でも重要なものをピックアップして確認していきましょう。
まず覚えておきたいのが織田信長周りの戦乱です。尾張に生まれた織田信長は自らの勢力を統一し徐々に領地を広げていくのですが,1560年に起こった桶狭間の戦いで今川義元を破ると一気に全国への影響力が高まります。その後1575年に起こった長篠の戦いで武田信玄の騎馬隊を当時最先端の鉄砲を使って打ち破ると,より一層天下人として台頭していくことになりました。信長はこのような大名間の戦乱にとどまらず,比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったり,一向一揆などを収めたりと仏教勢力を屈服させていったりもしていたのですが,1582年に本能寺の変によって明智光秀に攻められ,その生涯を終えてしまいます。
続いて見ていくのは豊臣秀吉です。秀吉は信長に仕えていた家来でしたが,本能寺の変が起こると,その主犯である明智光秀を1582年の山崎の戦いで討ちます。この戦いは本能寺の変からわずか11日後に起きたものであることから,明智光秀は三日天下だったと言われることもあります。そしてその後秀吉は1590年に小田原合戦にて北条氏を滅ぼすと,全工区統一を達成することとなりました。この秀吉の全国統一において成された事業は別シリーズの記事で解説していますので,そちらを参考にして見てください。そして秀吉は日本国外まで領土を広げるために,1592年から1598年までの間で朝鮮侵略を行います。この侵略は文禄・慶長の役と呼ばれることもあります。しかし侵略を試みたは良いものの,李舜臣という朝鮮の将軍の活躍などによりうまくいかず,最後は秀吉の病死によって朝鮮から退いてしまうのでした。
終わりに
今回の記事では安土桃山時代までの歴史に着目し,起きた戦乱を順番に解説していきました。戦乱に関しては,上でご紹介したように覚えることがたくさんありますが,自分が覚えやすいところ・関心の高いところから順に頭に入れていくといいでしょう。よろしければ下記のおすすめ記事や参考書籍を使いながら,更なる学力向上に向けて励んでいただけますと幸いです。
(ライター:大舘)