【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑤〜室町時代・勘合貿易編〜

元の襲来以降の日本と東アジアの貿易について今回は見ていきましょう。 

私貿易

鎌倉時代、元と日本間で国同士の正式な交易は行われていませんでした。しかし、平安時代から依然として私貿易は盛んに行われていました。 

鎌倉幕府は、1325年に建長寺再建の費用を得るために派遣された建長寺船の派遣を承諾、保護のために九州の御家人をつけています。 

続く室町時代、幕府は天竜寺の造営を目的に天竜寺船を1342年から数回派遣しています。天竜寺は後醍醐天皇[i]の冥福を祈るために造営されることとなった寺です。 

倭寇と勘合貿易

鎌倉時代末期から室町時代にかけて、倭寇[ii]と呼ばれる海賊集団が猛威をふるっていました。日本人を中心とする倭寇は、主に対馬壱岐肥前松浦地方を拠点に朝鮮半島中国大陸沿岸を荒らし、略奪行為を行なっていました。 

高麗は日本に使者を送り倭寇の取り締まりを日本に求めますが、戦乱の最中であった九州の御家人及び幕府は十分な対応が出来ませんでした。 

高麗は衰退し、李成桂[iii]が高麗を倒し、朝鮮を1392年に建国します。高麗が衰退する要因の一つは倭寇であったといわれています。 

中国では、1368年に朱元璋[iv]が明を建国しました。以前の元は遊牧民であるモンゴル民族中心の国家でしたが、明は漢民族中心の国となりました。明は歴代の王朝のように朝貢を求め、日本に使者を送りました。 

時の将軍は足利三代将軍の足利義満[v]でした。義満は直ちに使者を遣わし、「日本国王臣源」と名乗り、遣唐使廃止して以来の正式な国交が成立しました。朝貢とは、中国の王朝を中心として周辺のアジア諸国を属国として従える秩序体制を構築するため、中国の王朝に貢物を捧げ、返礼の品を賜るというものです。輸入品は唐物と呼ばれて重宝されました。 

倭寇との見分けをつけるため、幕府が遣わした遣明船は、勘合という証票をもち、正式な貿易船と分かるようにしました。このような貿易体制を勘合貿易ともいいます。 

幕府の直営船のほか、有力守護や寺社の船も参加していました。さらに商人と結びつく守護も出てきました。管領の細川氏[vi]堺商人と結びつき、守護の大内氏博多商人と結びつきました。両者は貿易をめぐって激しく対立し、1523年に寧波(中国、浙江省東部、杭州湾口南部の都市)で衝突します。これを寧波の乱といいます。 

主な輸出品 

銅、硫黄、金、刀剣、扇、漆器 

主な輸入品 

生糸、絹織物、錦糸、砂糖、陶磁器、書籍、絵画 

【注】

[i] 1288〜1339 鎌倉末期・南北朝初期の天皇(在位1318〜39)。鎌倉幕府を倒し建武の新政を実現した。後宇多天皇の第2皇子。1318年両統迭立 (てつりつ) 時代に大覚寺統から出て即位。古代的な天皇親政を復活しようとして討幕を計画し,’24年正中の変,’31年元弘の変をおこしたが失敗。隠岐に配流されたが,新田義貞・足利尊氏らの協力を得て,’33年鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を実現。しかし新政は公武の不和のため失敗し,尊氏の反乱により崩壊した。のち吉野に移り,南朝を開き尊氏の立てた北朝と対立,南北朝の内乱となり,南朝不振の中で病没した。(旺文社『日本史事典』) 

[ii] 鎌倉末期〜室町時代にかけて朝鮮半島・中国大陸沿岸地域を荒らした海賊的集団に,朝鮮・中国側が名づけた呼称。南北朝争乱期に北九州や瀬戸内海の沿岸漁民や土豪の活動が活発になり,朝鮮半島・山東半島沿岸に進出したが,その行動は暴力的であり,高麗の滅亡を早めることとなった。明も李氏朝鮮もその対策に悩み,室町幕府に鎮圧を要請した。幕府の勘合貿易が行われるようになると,一時衰えたが,戦国時代再び激化し,明の乱民も加わり,南シナ海沿岸や南方地域までその活動範囲を広げた。1572年の明の海禁政策の修正と豊臣秀吉の禁圧により以後しだいに衰微した。(旺文社『日本史事典』) 

[iii] 1335〜1408 李氏朝鮮の始祖(在位1392〜98)廟号は太祖。高麗末の武将で倭寇・女真を討って功あり,革新官人群の指導者として活動。ついで自立し,明の承認を得て朝鮮と称し,高麗朝を廃した。(旺文社『日本史事典』) 

[iv] [1328~1398]中国、明朝初代の皇帝。在位1368~1398。廟号は太祖。在位年号により洪武帝ともいう。紅巾こうきん軍の一兵卒から身を起こし、華中を支配。続いて元軍を追って全国を統一。明朝300年の基をつくった。(小学館『大辞泉』) 

[v] 1358〜1408 室町幕府3代将軍(在職1368〜94)。義詮 (よしあきら) の子。尊氏の孫。11歳で将軍となり,管領細川頼之 (よりゆき) の補佐をうけ,1378年幕府を京都室町のいわゆる「花の御所」に移した。’91年明徳の乱で山名氏清,’99年応永の乱で大内義弘ら強力な守護大名を滅ぼして将軍の権威を確立。’92年南北両朝を合体させ,’94年将軍職を義持に譲り,太政大臣に任じられ,’95年入道して道義と称した。また1401年明に僧祖阿 (そあ) ・博多商人肥富 (こいつみ) を遣わして明と国交を回復し,勘合貿易をおこした。この際「日本国王臣源道義」と称し,朝貢の形式をとったことは当時および後世の物議をかもした。文化面では,1397年京都北山に金閣を造営。五山の制をととのえ,能楽を保護し,北山文化の形成に寄与した。(旺文社『日本史事典』) 

[vi] 南北朝〜室町時代の有力な守護大名。室町幕府の三管領家の一つ。足利氏の一支族。足利義季 (よしすえ) が三河国八名郡細川郷に住み姓とした。足利尊氏の挙兵に従って功をたて,讃岐・阿波を中心に河内・和泉など畿内周辺の地を領国として活躍,頼之が将軍足利義満を補佐して管領となって以来勢力を固めた。勝元は応仁の乱(1467〜77)に東軍の主将として活躍したが,乱後細川氏は衰えた。のち一族の藤孝(幽斎)・忠興父子は,関ケ原の戦い(1600)後徳川家康に仕え,忠興の子忠利が肥後国熊本に封ぜられた。以来有力な外様大名として14代続き,明治維新に至る。(旺文社『日本史事典』) 

おすすめ記事

参考

 

中学受験生のお母さん向け無料メールマガジン

    本サイトの監修者である、開成番長こと繁田和貴が執筆する無料メルマガは、その内容の濃さから6000人以上の読者に愛読されています!

    登録も解除も簡単にできますので、まずはお気軽にご登録ください。

                                

「開成番長・繁田の両親が語る繁田の中学受験PDF」プレゼント!

無料メルマガ登録