【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑩〜明治−昭和時代・満州国編〜

日本政府は、豊富な鉱山資源のある満州に目をつけ、植民地政策を推し進めていきました。そのような日本の満州進出についてみていきたいと思います。 

日露戦争後

1904年から1905年にかけて起きた日露戦争後、ポーツマス条約が締結されます。ポーツマス条約により、日本は長春から旅順間などの鉄道およびその付属の利権を獲得します。そして1906年に南満州鉄道株式会社を設立します。南満州鉄道株式会社は、満州進出の足がけとなっていきます。 

張作霖爆殺事件

1928年、中国の国民革命軍の北伐が北京に迫り、中国奉天軍閥の張作霖[i]は奉天に引き上げようとします。そこに関東軍高級参謀河本大作が指揮をし、張作霖が乗った列車ごと爆破し殺害し、それを国民革命軍の仕業かのように見立てました。 

満州事変

1931年関東軍は、柳条湖において鉄道爆破事件を起こし、これを口実にして張学良[ii]の本営に攻撃します。さらに満鉄沿線主要都市を占領する軍事行動を開始しました。1932年までには北満州の主要都市を占領し、満州全体を支配下に置きました。更に、同年清朝最後の皇帝溥儀[iii]を執政にむかえ傀儡国家である満州国」を建国します。 

リットン調査団

日本の武力進出に対し、中国は国際連盟[iv]に訴えます。中国の訴えをうけ、国際連盟はリットン調査団満州に派遣します。リットンの報告により国際連盟は日本の「満州国」承認の撤回や満州からの撤退を勧告します。日本はこの勧告を拒否し、国際連盟から脱退します。 

【注】

[i] [1875~1928]中国の軍人・政治家。奉天派の総帥。海城(遼寧りょうねい省)の人。字あざなは雨亭。馬賊の出身。東三省を支配下に収め、北京政界に進出。1926年東三省保安総司令に就任、翌年大元帥を称し、北京政府を掌握。1928年、国民党の北伐軍に大敗。日本の関東軍による列車爆破で死亡。チャン=ツオリン。(小学館「大辞泉」) 

[ii] [1898~2001]中国の軍人・政治家。海城県(遼寧省)の人。字は漢卿。張作霖の長男。父の爆死後、日本の反対に抗して、国民政府のもとで全東北の実権を握ったが、満州事変によって下野。外遊後、内戦の停止、抗日救国を要求して蒋介石を監禁する西安事件を起こしたため、禁錮刑に処された。チャン=シュエリアン。(小学館「大辞泉」) 

[iii] 1906〜67 清朝最後の皇帝,宣統帝(在位1908〜12)光緒帝の弟である醇親王載澧 (じゆんしんおうさいほう) の子。姓は愛新覚羅。辛亥革命によって退位したが,1924年馮玉祥 (ふうぎよくしよう) のクーデタを機に日本の保護を受け,32年日本軍に迎えられて満州国執政となり,34年同国皇帝となった。第二次世界大戦終了後,戦犯としてソ連・中国に抑留され,のち釈放。最後は一庶民として人生を終えた。自伝に『わが半生』がある。(旺文社「世界史事典」) 

[iv] 第一次世界大戦後の1920年1月,世界平和のために発足した国際機関。アメリカ大統領ウィルソンの十四か条にもとづき,パリ講和会議で採択された。本部をジュネーヴに置き,総会・理事会・事務局を中枢とし,補助機関として国際司法裁判所・国際労働機関(ILO)をもつ。国際平和の確立と人類文化の向上という二大目的をめざして,安全保障,軍縮,国際紛争の調停,委任統治などの分野で活躍したが,提案国たるアメリカが参加せず,ソ連も初め加入を許されなかったため(1934年加入,39年除名),制裁機関としての力に欠け,日本(1933年脱退),ドイツ(1933年脱退),イタリア(1937年脱退)の全体主義諸国の行動に強い態度で臨むことができなかった。(旺文社「世界史事典」) 

おすすめ記事

参考

中学受験生のお母さん向け無料メールマガジン

    本サイトの監修者である、開成番長こと繁田和貴が執筆する無料メルマガは、その内容の濃さから6000人以上の読者に愛読されています!

    登録も解除も簡単にできますので、まずはお気軽にご登録ください。

                                

「開成番長・繁田の両親が語る繁田の中学受験PDF」プレゼント!

無料メルマガ登録