【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう⑥〜江戸時代・鎖国と朝鮮、中国編〜

1543年にポルトガル人が種子島に襲来(鉄砲伝来[i])して以降、西洋諸国が日本を訪れるようになり、南蛮貿易[ii]が始まりました。織田信長[iii]は南蛮貿易を推奨し、跡を継いだ豊臣秀吉[iv]もはじめは推奨していましたが、次第にキリスト教の布教を危険視するようになります。そして、キリスト教の布教を禁じ、禁教へと転じていきます。そして江戸時代に入り、江戸幕府は鎖国政策をとっていきます。 

鎖国対策へと舵をとっていくなか、朝鮮出兵以降の朝鮮と中国の関係性について説明していきます。 

鎖国対策

鎖国への流れについて復習しましょう⇨【中学受験】社会〜江戸幕府の対外貿易、禁教対策・鎖国までの歩みをおさえよう

1604 

糸割符制度を設ける 

1609 

オランダ人に通商許可   

1612 

幕府直轄領に禁教令 

1613 

イギリス人に通商許可。全国に禁教令 

1614 

高山右近ら300人余りを海外に追放 

1616 

中国船を除く外国船の来航を平戸・長崎に制限   

1622 

元和の大殉教   

1623 

イギリス、オランダとの競争に敗れ平戸商館を閉鎖して退去   

1624 

スペイン船の来航を禁止 

1631 

奉書船制度始まる 

1633 

奉書船以外の海外渡航禁止 

1634 

海外との往来や通商を制限 

1635 

日本人の海外渡航および帰国を前面禁止 

1637(〜38) 

島原の乱 

1639 

ポルトガル船の来航を禁止 

1641 

オランダ商館を出島に移す 

唯一残されたオランダとのみ貿易を行うことにした幕府は、オランダ人と日本人の自由な交易も禁止にし、長崎奉行の監視のもと交易を行うことになりました。 

長崎には中国船も来ており、中国船との貿易は禁じていませんでした。 

朝鮮出兵後の朝鮮、中国

江戸幕府は明との国交は回復できず、私貿易を行なっていました。明から清[v]に変わり、清船が自国の絹織物のほか、ヨーロッパからの綿織物毛織物砂糖香木などを日本にもたらします。江戸幕府は1685年に糸割符制度を再興します。 

糸割符制度とは… 

ポルトガルなどの独占をさけるため、堺・京都・長崎の特定の商人に糸割符仲間を作らせます。糸割符仲間に輸入生糸を一括で購入させ、その後個々の商人に配分させるようにしました。結果ポルトガルらには大打撃を与えることになります。 

【注】

[i] 戦国時代,種子島に漂着したポルトガル人により,日本に初めて鉄砲が伝えられたことをいう。南浦文之 (なんぽぶんし) 著『鉄炮記』によると,1543(天文12)年種子島に漂着したポルトガル人の所持する鉄砲2挺を,島主種子島時堯 (ときたか) が買い求めた。以来各地の戦国大名は,この新兵器の入手につとめ,製法・使用法を学ばせ鉄砲隊を組織した。これを実戦に使って成功したのは織田信長で,長篠の戦い(1575)の銃撃戦は名高い。鉄砲の普及は従来の戦法・築城法に大きな変化をもたらした。(旺文社『日本史事典』) 

[ii] 16世紀中期から鎖国までの約100年間行われた南蛮人(ポルトガル人・スペイン人)との貿易。ポルトガルが中心で,1543年から来航,マカオを根拠地として日本と中国・南方との中継貿易を行う。スペインは ’84年から来航,マニラを根拠地とした。貿易とキリスト教布教の一体化が特色で,九州の諸大名は富強を目的として南蛮船を歓迎,貿易港として平戸・長崎・豊後府内(大分)が栄えた。輸入品は中国産の生糸・絹織物が主で,ほかに鉄砲・火薬・鹿皮・鉄・鉛など。輸出品は銀・刀剣・漆器・海産物など。(旺文社『日本史事典』) 

[iii] 1534〜82 戦国・安土桃山時代の武将。尾張(愛知県)の生まれ。性質は剛腹で人の意表をつく行動が多く,傅 (もりやくの平手政秀の諫死 (かんし) によって改まったといわれる。父信秀の死後織田一族を統一し,清洲城に移った。1560年ごろ尾張を平定。駿河の今川義元の侵入を桶狭間 (おけはざま) で反撃,’67年美濃の斎藤氏を破り岐阜稲葉城に移った。’68年足利義昭 (よしあき) を奉じて入京し,大和などを平定。’71年浅井・朝倉氏を討ち(姉川の戦い),翌年比叡山延暦寺の焼打ちを敢行して,美濃と京都との連絡を確保した。’73年には義昭を追放して室町幕府を名実ともに滅ぼし,ついで武田氏を討ち,38カ国を支配下にいれた。征服と並行して検地を行い,道路をととのえ,撰銭令・楽市楽座などの政策を実施し,安土城を築いた。’82年中国の毛利氏を攻めるため,京都本能寺に宿泊したところを,家臣明智光秀の謀反により自刃(本能寺の変)。天下統一の事業は挫折したが,封建的統一の基盤をつくった意義は大きい。(旺文社『日本史事典』) 

[iv] 1537〜98 戦国・安土桃山時代の武将。織田氏の足軽木下弥右衛門の子。尾張(愛知県)中村に生まれた。織田信長の足軽となり,機才により戦功を重ね累進,1573年近江(滋賀県)長浜城主となり,羽柴氏を称した。’77年以来中国毛利攻めの先鋒として備中(岡山県)高松城を攻略。本能寺の変(’82)を聞き毛利氏と和睦し,山崎の戦いに明智光秀を倒し,ついで柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破った。小牧・長久手の戦いでは徳川家康との小ぜりあいに敗れたのち和睦。’85年関白,’86年太政大臣となり,豊臣姓を賜り,’87年島津(九州征討),’90年後北条氏(小田原征討)を平定し全国を統一した。さらに朝鮮・明国への侵略を企てて文禄・慶長の役をおこしたが失敗,失意のうちに病死した。この間,太閤検地・刀狩令・京枡の制定などを行って土地・人民を掌握し,近世封建社会の基礎を確立する一方,大坂城・聚楽第の造営など,華麗な桃山文化を現出させた。(旺文社『日本史事典』) 

[v] 1616〜1912 女真族が建てた中国最後の王朝。建州女真のヌルハチ(太祖)が女真族を統一,興京 (こうけいに都し,後金 (こうきん) を建国(1616)。明と戦い,瀋陽 (しんよう) に遷都(1625)。子の太宗ホンタイジは朝鮮・内モンゴルを従え,国号を清と改めた(1636)。3代世祖順治帝のとき,李自成 (りじせい) の乱に乗じて中国に進出,北京を都とし(1644),明に代わって中国の王朝となった。4代聖祖康熙 (こうき帝までに明の残存勢力による三藩の乱,台湾の鄭 (てい) 氏を平定して中国支配を確立し,5代世宗雍正 (ようせい) 帝,6代高宗乾隆 (けんりゆう) 帝までのいわゆる康熙・乾隆時代(1661〜1795)の130年間は全盛期であった。領土は台湾・外モンゴル・チベット・新疆 (しんきようから中央アジアに及び,広大な地域をほぼ完全に支配した。財政が豊かで,人口が急増し,商工業が発展して銀が広く流通し,地丁銀 (ちていぎんの税制が成立した。文化面では大編纂 (へんさん) 事業がおこり,考証学が盛んになった。征服王朝として,多数の漢人を支配するために,官制に満漢併用制をとると同時に,辮髪令・禁書・文字 (もんじ) の獄などの統制も行った。7代仁宗嘉慶 (かけい帝以後しだいに衰え,白蓮 (びやくれん) 教徒の乱(1796〜1804),太平天国の乱(1851〜64)などの内乱,1840年のアヘン戦争,42年の南京条約,1856〜60年のアロー戦争,1858〜60年のロシアの黒竜江地方奪取などの外圧によって動揺し,洋務運動の建て直しも実効があがらなかった。11代徳宗光緒 (こうしよ帝の代にはイリ事件・清仏戦争・日清戦争に敗れ,列強による中国分割が進み,康有為 (こうゆういの変法 (へんぽう運動も失敗(戊戌 (ぼじゆつの政変),1900年の義和団事件で外国軍が北京を占領し,立憲政治の準備も間にあわなかった。12代の幼帝宣統 (せんとう帝溥儀 (ふぎ) のときの1911年に辛亥 (しんがい) 革命が起こり,12年皇帝が退位して清は滅亡した。(旺文社『世界史事典』) 

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