【社会・歴史】年表・人物史から歴史をおさえよう!〜伊藤博文の人物史〜

伊藤博文は、長州藩に生まれ、初めて内閣総理大臣になった人物です。今回は年表ごとに伊藤博文についてみていきましょう。 

幕末

天保12年(1841年)

長州(現:山口県)で生まれた伊藤博文。生まれは農民でしたが、父である林十蔵が下級藩士の養子となったことで藩士となり、林の姓から伊藤の姓を名乗るようになりました。 

安政4年(1857年)松下村塾で学ぶ

16歳の時に伊藤博文は吉田松陰松下村塾で、高杉晋作[i]らと学びます。 

【補足】松下村塾とは?

江戸時代、諸藩が藩士の子弟の教育のために藩校を設けました。藩校の教育内容は主に儒学でした。藩校は武士の子弟以外入門できなかったため、武士以外に開かれた教育の場として私塾も多く作られました。松下村塾はその私塾の一つです。  

吉田松陰は長州藩に生まれ、藩校明倫館で指導していました。その後、脱藩し、遊学したのち、来航したペリー[ii]の船に乗り密航しようとしました。しかし密航は成功せず、松陰は長州に戻され、獄に繋がれます。獄の中でも教鞭をふるっていたという松陰は長州で松下村塾を開き、多くの門下生を輩出します。その門下生の中には、久坂玄瑞[iii]、高杉晋作、伊藤博文などがいます。 

尊王攘夷運動へ

伊藤博文は、桂小五郎[iv](のちに木戸孝允と名乗る)の従者として江戸に向かい、尊王攘夷運動に挺身していきます。 

【補足】尊皇攘夷運動とは? 

尊王論…天皇を尊ぶ思想。儒教の影響で江戸時代に盛んになり、幕末には天皇を幕府より上位とし、絶対視する考えが強まりました。 

攘夷論…攘夷とは、外国勢力(夷)を攘けるという意味です。武力で開国を迫る欧米諸国に対し、武力でしりぞけようとする思想です。 

尊皇攘夷運動は、欧米諸外国による脅威と幕藩体制の動揺に際して尊王論と攘夷論が結びつき、倒幕運動に発展していった運動です。尊皇攘夷運動の高まりは明治維新へと繋がっていきます。 

文久2年(1862年)イギリス公使館焼打ち事件

江戸の御殿山に建設中のイギリス大使館に長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤博文らが侵入し、火薬を仕掛けて全焼させた事件です。その後、生麦事件[v]、東禅寺事件[vi]イギリスに対する攘夷派の事件が続きます。 

文久3年(1863年)イギリス留学

長州藩の令により、伊藤博文は井上聞多[vii](馨)らとイギリスへ留学します。 

明治

明治4年(1871年)岩倉遣外使節団

明治4年(1871年)から2年間にわたって明治政府が欧米諸国に派遣した使節団。岩倉具視[viii]を大使として、木戸孝允、大久保利通[ix]、伊藤博文など明治維新の中心人物が派遣されました。ほかに留学生として津田梅子[x]ら女学生も同行しました。 

明治18年(1885年)初代内閣総理大臣就任、憲法草案のため渡欧

征韓論争など明治政府中心人物らによる政争を経て、大久保利通の信頼を得た伊藤博文は初代内閣総理大臣となります。

また、内閣制度を創設するため渡欧します。ヨーロッパ各国の憲法を学んだ伊藤博文は、ドイツの憲法をもとに憲法の草案にかかります。そして明治22年(1889年)2月11日大日本帝国憲法が発布されます。伊藤博文はその後4度に渡り総理大臣に任命されました。 

明治42年(1909年)暗殺

明治38年(1905年)、日露戦争後に、韓国の初代総監となった伊藤博文は韓国併合を進め、明治42年(1909年)には総監を辞職し、枢密院議長となりました。そして、同年極東の問題についてロシアと会談するため、ハルビンに訪れた際、日韓併合に反対する安重根によって暗殺されました。 

まとめ

天保12年(1841年) 

伊藤博文生まれる 

安政4年(1857年) 

松下村塾で学ぶ 

文久2年(1862年) 

イギリス公使館焼打ち事件 

文久3年(1863年) 

イギリス留学 

明治4年(1871年) 

岩倉遣外使節団 

明治18年(1885年) 

初代内閣総理大臣就任 

明治42年(1909年) 

暗殺 

【注】

[i]高杉晋作…1839〜67 幕末の志士。長州藩士。松下村塾で吉田松陰に学ぶ。1862年上海に渡り海外状況を見聞し,帰国後尊王攘夷運動に活動。’63年長州藩の外国船砲撃直後の軍備強化で奇兵隊を組織した。翌年幕府の長州征討に降伏謝罪した藩当局に反して挙兵,保守派を倒し,藩論を「尊王討幕」にまとめる指導的役割をなした。第2次長州征討でも奇兵隊を率いて九州小倉の幕府軍を撃退(’66)するなどの活躍をしたが,翌年大政奉還の半年前に病死した。(旺文社『日本史事典』) 

[ii]ペリー…1794〜1858 アメリカの海軍軍人。東インド艦隊司令官として,1853(嘉永6)年4隻の軍艦を率いて浦賀に入港し,幕府に大統領フィルモアからの国書を提出して開国を要求。翌’54年,7隻で再度来日し,武力を背景に日米和親条約を締結。日本の開国を実現させた。(旺文社『日本史事典』) 

[iii]久坂玄瑞…1840〜64 幕末,長州藩の尊攘派志士。吉田松陰の門下で,高杉晋作と双璧をなした。1862年藩論を公武合体から尊王攘夷に一変させた。江戸のイギリス公使館焼打ち事件,下関の外国船砲撃(下関事件)に参加し,大和行幸奏請に尽力。’64年禁門の変で藩兵を率いて上洛したが,負傷して自刃。(旺文社『日本史事典』)

[iv]桂小五郎…1833〜77 幕末の尊攘派志士。明治初期の政治家。維新の三傑の一人。長州藩出身。初め桂小五郎という。吉田松陰に師事。高杉晋作らと藩論を討幕へと導き,薩長連合に成功。新政権発足後は長州閥の巨頭として,五箇条の誓文の起草,版籍奉還・廃藩置県に指導的役割を演じた。1871年岩倉遣外使節に副使として同行。帰国後征韓論では西郷派と対立,のち征台の役に反対して下野。’75年大阪会議で参議にもどったが,翌年辞任。(旺文社『日本史事典』) 

[v]生麦事件…幕末,薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件。1862年,島津久光が江戸から京都への帰途,横浜付近の生麦村で騎馬のイギリス人4名が行列を乱したとの理由で3名を殺傷した。イギリスは幕府と薩摩藩に犯人の処罰と賠償金の支払いを要求し,幕府はこれに応じたが,当時最高潮の攘夷運動を背景に薩摩藩はこれを拒否したため,翌年7月薩英戦争がおこった。同年11月和議が成立し,薩摩藩は賠償金を支払った。(旺文社『日本史事典』) 

[vi]東禅寺…幕末にイギリス仮公使館が置かれた江戸高輪の東禅寺が襲撃された事件。文久元年(一八六一)公使オルコックの東海道旅行を神州の地を汚したとして憤激した水戸浪士によって行なわれたものと、翌年、同寺警備のための自藩の出費を憂えた松本藩士によって行なわれたものとがある。(『日本国語大辞典』) 

[vii]井上聞多…1835〜1915 明治時代の政治家。長州藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加。1879年外務卿,’85年外務大臣となり,鹿鳴館を中心として欧化政策をとって条約改正にあたったが失敗し,’87年辞職。その後内務大臣・大蔵大臣などを歴任し,’98年以降は元老として国政に参与した。また三井財閥と結び財界でも重きをなした。(旺文社『日本史事典』)

[viii]岩倉具視…1825〜83 幕末・明治初期の政治家。公卿出身。公武合体論を唱え,和宮降嫁 (かずのみやこうか) に尽力したが,のち尊王討幕派と結び,王政復古のクーデタを成功させた。明治新政府の参与・右大臣などの要職を歴任し,1871年全権大使として欧米を視察した。帰国後は征韓論に反対し,自由民権運動を抑え天皇制を擁護するために欽定憲法制定の基本方針を定め,皇室財産の充実に努力した。(旺文社『日本史事典』)

[ix]大久保利通…1830〜78 幕末・明治初期の政治家。「維新の三傑」の一人。通称正助,のちに一蔵 (いちぞう) 。薩摩藩出身。討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力した。明治新政府の参与・参議として版籍奉還・廃藩置県を断行。1871年岩倉遣外使節に副使として随行し,’73年帰国後西郷隆盛らの征韓論に反対。内務卿として実権を握って政府の中心となり,地租改正・殖産興業政策を推進。’78年東京紀尾井坂清水谷で不平士族に暗殺された。(旺文社『日本史事典』)

[x]津田梅子…1864〜1929 明治・大正時代の女子教育家。江戸の生まれ。幕臣出身の父は開明的人物で,7歳の梅子を岩倉遣外使節に随行する女子留学生として渡米させた。帰国後英語教師をつとめ再度留学。1900(明治33)年女子英学塾(現津田塾大学)を創設,英語教育に尽力した。(旺文社『日本史事典』) 

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