【社会・歴史】年表・人物史から歴史をおさえよう!〜聖徳太子の人物史〜

飛鳥時代、推古天皇に代わって政治を行い、仏教を積極的に取り入れたのが聖徳太子でした。今回は聖徳太子の政治を年代ごとにみていきましょう。 

聖徳太子の父は用明天皇[i]、母は穴穂部間人皇后(欽明天皇皇女)です。『上宮聖徳法王帝説』によると甲午年(574年)とありますが、定かではありません。穴穂部間人皇后が厩戸の前で出産したことから幼名は厩戸皇子と名付けられたという伝承がありますが、事実かは定かではありません。 

聖徳太子が台頭する前の飛鳥時代の政治についておさえておきましょう。有力な豪族が台頭し天皇家の外戚となることで権力を持ち始め、中でも蘇我氏物部氏が台頭し、両者の抗争も激しくなっていました。

587年、蘇我馬子物部守屋を滅ぼし、蘇我氏と物部氏の抗争は終わり、蘇我馬子は蘇我氏出身の妃が産んだ子供を天皇にさせることで権力集中をはかっていきます。 

592年 崇峻天皇暗殺

欽明天皇[ii]の皇子である崇峻天皇は、用明天皇の死後蘇我馬子らに擁立されて即位します。しかし、蘇我馬子らと対立し暗殺されてしまいます。 

592年 推古天皇即位 

崇峻天皇暗殺後、このようなことが起こらないよう蘇我氏の妃から生まれた欽明天皇の皇女を初めての女性天皇として即位させます。そうして即位したのが推古天皇です。 

593年 聖徳太子政治に参画

推古天皇の甥である、聖徳太子は蘇我馬子と共に推古天皇に代わって政治を行っていきます。推古天皇は即位し天皇になったものの政治の実権を握ることはありませんでした。 

聖徳太子と蘇我馬子は諸豪族を集結させ、権力の集中をはかると共に、国際的な優位性を確立しようとしました。年代ごとに具体的な政策についてみていきましょう。 

603年(推古天皇11年)冠位十二階の制

冠位十二階の制とは、冠の色によって官人の階級を表わし、能力や功績によって冠位を与えるという制度です。豪族の世襲ではない人材登用の道を切り開きました。 

604年(推古天皇12年)憲法十七条

和を以って貴しとなす」から始まり役人の心得など道徳的訓戒を説く内容になっています。 

607年(推古天皇15年)遣隋使派遣

聖徳太子はこれまでの低い姿勢からの外交から一変し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す……」と国書に記し、小野妹子らを遣隋使として派遣します。隋の皇帝煬帝[iii]は不快の念を示しましたが、対戦中の高句麗と結びつくことを危険視したのか、裴世清を国史として遣わします。 

その後留学生や僧を派遣し、大陸の進んだ文化を積極的に取り入れていきます。

聖徳太子と仏教

崇仏派の蘇我氏廃仏派の物部氏の抗争の末、蘇我氏が勝利し、蘇我馬子と聖徳太子は積極的に仏教を取り入れていきます。この時代の文化を飛鳥文化または仏教文化と言います。  

聖徳太子は法華経、維摩経、勝鬘経の三つの経典の注釈書である『三経義疏』を著したと伝えられています。 

更にこの時代は数々の氏寺が建てられます。有名な氏寺は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺法興寺)や聖徳太子斑鳩寺法隆寺)などがあります。 

まとめ

574年ごろか 

聖徳太子(厩戸王)生まれる 

592年 

崇峻天皇暗殺 

592年 

推古天皇即位 

593年 

聖徳太子政治に参画 

603年 

冠位十二階 

604年 

憲法十七条 

607年 

遣隋使派遣 

【注】

  • [i]用明天皇…?〜5876世紀後期の天皇(在位585〜587)欽明天皇の皇子。母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。聖徳太子の父。仏教公伝以降蘇我馬子と物部守屋が対立していたが,天皇は仏教に帰依し,馬子に接近した。(旺文社『日本史事典』) 
  • [ii]欽明天皇…510ごろ〜571、6世紀半ばの天皇(在位531〜571 (ごろ) )
    継体天皇の皇子。『日本書紀』は即位を540年としているが,『上宮聖徳法王帝説』などは531年即位説をとり対立している。このことから531〜539年までは異母兄の安閑・宣化朝と並立していたと考え,内乱発展したとする学説が出されている。在位中,538年百済 (くだら) の聖明王が仏像・経論を伝え,562年新羅 (しらぎ) のために「任那 (みまな) 日本府」が滅亡するなど,国内・対外関係とも緊張した時期であった。(旺文社『日本史事典』) 
  • [iii]皇帝煬帝…569〜618、隋の第2代皇帝(在位604〜618)
    名は広。父文帝を殺して即位し,洛陽 (らくよう) に東都を建設した。100余万人を徴発して南北を結ぶ大運河を開き,物資や軍隊の輸送の便をはかった。対外的には積極策をとり,突厥 (とつけつ) に備えて万里の長城の修築を行い,西方に対しては吐谷渾 (とよくこん) を討って青海を併せ,さらに進んで西域への道を開いた。南方では林邑 (りんゆう) を討ち,琉球(台湾)にも軍を送った。しかし,3回にわたる高句麗 (こうくり) 討伐の失敗は,大土木工事とあいまって隋滅亡の因となり,江都(揚州)で禁軍兵士によって暗殺された。(旺文社『日本史事典』) 

参考文献

旺文社『日本史事典』

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