八代集の覚え方は?おさえるべきポイント!
まず、勅撰和歌集とは、天皇・上皇の命によって編纂された和歌集のことをさします。勅撰和歌集は全部で二十一あります。二十一代集のうち、最初の三集を「三代集」、八番目までを「八代集」と言います。今回は「八代集」に入っている和歌集の中から4番目までを紹介します。それぞれの特徴をおさえましょう。後半は【日本文学まとめシリーズ】八代集その2で説明します!
『古今和歌集』
平安時代前期
- 勅命:醍醐天皇[i] 延喜5年(905年)
- 成立:延喜13年(913)年ごろ
- 撰者:紀友則[ii]、紀貫之[iii]、凡河内躬恒[iv]、壬生忠岑[v](途中で紀友則が病没したため、従弟の紀貫行が代わって選者の代表となりました)
日本最初の勅撰和歌集。20巻からなり、約150年間分、約130人の歌を約1100首収載されています。部立は春、夏、秋、冬、賀(老齢をたたえ祝う歌等)、離別(官人の地方赴任に際しての送別の歌等)、羈旅(きりょ・官人の旅中の歌が中心)、物名(もののな/ぶつめい・物の名称を隠し題として詠み込んだ歌)、恋、哀傷(人の死を悲しむ歌)、雑(老齢や無常を嘆く歌等)、雑体(長歌,旋頭歌,誹諧等)、大歌所御歌。『古今集』の部立がその後の勅撰和歌集の基本になりました。
『古今和歌集』の「仮名序[vi]」で紀貫之が短評をそえてあげた6人の代表的歌人を「六歌仙」と言います。「六歌仙」にあげられた歌人は小野小町[vii]、在原業平[viii]、僧正遍照[ix]、僧喜撰[x]、文屋康秀[xi]、大伴黒主[xii]です。しかし、僧嬉撰、文屋康秀、大伴黒主の3人の詳細はよく知られていません。
収載されている時代の和歌の特徴として、技巧的・理知的な・繊細な「たをやめぶり(女性風)」があげられます。このような特徴を「古今朝」ともいい、「古今朝」の完成期が『古今和歌集』の時代の和歌だといえます。
補足!
『古今和歌集』の「たをやめぶり(女性風)」に対し、「ますらをぶり(男性風)」の特徴が和歌集が『万葉集』です。奈良時代に成立したとされる『万葉集』は現存する最古の歌集ですが、勅撰和歌集ではないので注意してください。『万葉集』の時期の和歌の特徴として、民謡風で素朴・平明な歌が多いとされています。
『万葉集』、『古今和歌集』、『親古今和歌集』をあわせて「三大歌集」といいます。
『後撰和歌集』
平安時代前期
- 勅命:村上天皇[xiii] 天暦5年(951)
- 成立:不明(勅命以降成立)
- 撰者:昭陽舎(梨壺)に撰定所が設けられ、昭陽舎(梨壺)の別当に藤原伊尹[xiv]、寄人に大中臣能宣[xv]、清原元輔[xvi]、源順[xvii]、紀時文[xviii]、坂上望城xixが任ぜられ、以上の5人が選定を行いました。またその5人を「梨壺の五人」といいます。
20巻からなり、歌数は1426首(伝本により差異あり)。長い詞書の贈答歌が多く、物語化の傾向があるといわれています。
『拾遺和歌集』
平安時代中期
20巻、約1350首。天皇が撰者に下命するという勅撰集の正規の手続きを取らずに、花山院が私的に編纂し、成立したものではないかと考えられています。藤原公任撰だと考えられている私家集『拾遺抄』の歌が多く収載され、構成も踏襲しているため『拾遺集』を増補する形で作られたのではないかと考えられています。
『後拾遺和歌集』
平安時代後期
- 勅命:白河天皇 承保2年(1075年)
- 成立:応徳3年(1086年)ごろ
- 撰者:藤原通俊
20巻、1218首。王政復古政策の一環として白河天皇が勅命を出しました。女流歌人の歌が多く起用されているのが特徴です。しかしその保守的な内容を当代の代表歌人源経信が批判し『難後拾遺』に著し、勅撰集に対する最初の論難書になりました。
まとめ
|
勅命 |
成立 |
撰者 |
古今和歌集 |
醍醐天皇 |
延喜13年(913)年ごろ |
紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑 |
後撰和歌集 |
村上天皇 |
不明 |
「梨壺の五人」藤原伊尹、大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城 |
拾遺和歌集 |
花山院(花山天皇) |
寛弘2年(1005年)ごろ
|
花山院、藤原公任か |
後拾遺和歌集 |
白河天皇 |
応徳3年(1086年)ごろ |
藤原通俊 |
【註】
- [i] 885〜930 平安前期の天皇(在位897〜930)
宇多天皇第1皇子。藤原時平・菅原道真をそれぞれ左大臣・右大臣として,摂政・関白を置かず天皇親政の積極的政治を行った。律令体制維持につとめ,902年班田を励行し,延喜の荘園整理令を発布。後世天皇の治世を延喜の治といい,律令政治の理想とされた。治世中,『延喜格式』『日本三代実録』『古今和歌集』が編集された。(旺文社『日本史事典』) - [ii] ?〜905 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で,『古今和歌集』撰者の一人
貫之のいとこ。歌風は優麗繊細で調べはおおらかである。生涯は官途に恵まれなかったが歌人として重んじられた。家集に『友則集』1巻。(旺文社『日本史事典』) - [iii] 868?〜945 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人で,『古今和歌集』撰者の一人
官位は低く,死んだときも従五位上・木工権頭 (もくのごんのかみ) にすぎなかったが,すぐれた批評眼をもち,すぐれた歌論である「古今和歌集仮名序」,かな文の日記文学の『土佐日記』,「新撰和歌集序」などの著がある。(旺文社『日本史事典』) - [iv] 生没年不詳 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人
紀貫之らと『古今和歌集』を撰した。歌風は高雅で,客観的叙情を主とし,即興的な傾向を詠んだものが多い。家集に『躬恒集』1巻。(旺文社『日本史事典』) - [v] 生没年不詳 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人
右衛門府生。『古今和歌集』撰者の一人で,4人の撰者のうちでは身分がいちばん低かった。身の不遇を訴えた歌が多く,家集に『忠岑集』6巻がある。(旺文社『日本史事典』) - [vi] 仮名文で書かれた序文。(『日本国語大辞典』)
- [vii] 生没年不詳 平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人
伝記不詳。作風は情熱的,しかも繊細・技巧的で優艶。美貌・好色の歌人として伝説化され,能の演目(関寺小町,通 (かよい) 小町,卒塔婆小町)・御伽 (おとぎ) 草子・歌舞伎の題材となった。家集に『小町集』1巻。(旺文社『日本史事典』) - [viii] 825〜880 平安前期の歌人。六歌仙の一人
平城天皇の孫。美男の伝えがあり,『伊勢物語』の主人公とされている。藤原氏にはばまれ不遇のため風流に明け暮れた。多感な性格で歌風にも情熱的な特色があらわれている。家集に『業平集』1巻。(旺文社『日本史事典』) - [ix] 816〜890 平安前期の歌人。六歌仙の一人
俗名良岑宗貞 (よしみねのむねさだ) 。安世(『経国集』の編者)の子。仁明 (にんみよう) 天皇に寵愛され蔵人頭 (くろうどのとう) にのぼったが,天皇の死後出家。円仁の門に入り僧正となった。歌風は軽妙流麗で,機智にあふれた秀歌が多い。家集に『遍昭集』。(旺文社『日本史事典』) - [x] 生没年不詳 平安前期の歌人。六歌仙の一人
伝記不詳。京都の南の宇治山付近に住んでいたという。歌は『古今和歌集』に1首を残す。(旺文社『日本史事典』) - [xi] 生没年不詳 平安前期の歌人。六歌仙の一人
伝記不詳。『古今和歌集』『後撰和歌集』に数首おさめられている。(旺文社『日本史事典』) - [xii] 生没年不詳 平安初期の歌人。六歌仙の一人
近江国の人らしいが伝記不詳。『古今和歌集』などの勅撰集に10首おさめられている。(旺文社『日本史事典』) - [xiii] 926〜967 平安前期の天皇(在位946〜967)
醍醐 (だいご) 天皇の第14皇子。関白藤原忠平の死後,関白を置かず親政を行った。954年諸臣に意見封事を提出させ,その治世は「天暦の治」といわれたが,律令体制は崩壊し,地方政治は乱れていた。(旺文社『日本史事典』) - [xiv] [924~972]平安中期の公卿・歌人。名は「これまさ」とも。師輔(もろすけ)の長男。「後撰和歌集」撰者の一人。和歌所別当となり、参議・右大臣を歴任。のち摂政となり、一条摂政と称された。諡号(しごう)は謙徳公。歌集に「一条摂政御集」がある。(小学館『大辞泉』)
- [xv] 平安中期の歌人。梨壺(なしつぼ)の五人および三十六歌仙の一人。伊勢大神宮祭主。村上天皇の命により、源順(みなもとのしたごう)、清原元輔(きよはらのもとすけ)らと共に「後撰和歌集」を撰(えら)ぶ。歌は「拾遺集」「後拾遺集」「詞花集」などにみえる。家集「能宣集」。延喜二一~正暦二年(九二一‐九九一)(『日本国語大辞典』)
- [xvi] 908〜990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人
清少納言の父。「梨壺の五人」の一人として『万葉集』の研究に従事し,『後撰和歌集』を撰んだ。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に約105首をおさめ,家集として『元輔集』がある。(旺文社『日本史事典』) - [xvii] 911〜983 平安前期の歌人
嵯峨源氏。挙 (こぞる) の子。『後撰和歌集』の撰者の一人で,梨壺の五人の一人。詩文もすぐれ,また百科全書『倭名類聚抄 (わみようるいじゆうしよう) 』の著者として有名。三十六歌仙の一人。家集『源順集』。(旺文社『日本史事典』) - [xviii] 平安中期の歌人。貫之の子。梨壺(なしつぼ)の五人の一人。村上天皇のとき、「後撰和歌集」の撰者となり、「万葉集」の訓釈の業にも従った。生没年未詳。(『日本国語大辞典』)
- [xix] 平安中期の歌人。是則の子。村上天皇の時、梨壺の五人の一人として、「万葉集」の訓読、「後撰和歌集」の撰進にあたる。「天徳四年内裏歌合」にも参加。生没年未詳。一説に、天延三年(九七五)没とも。(『日本国語大辞典』)
- [xx] (古くは「かさんてんのう」) 第六五代天皇。冷泉天皇の第一皇子。母は藤原伊尹の娘懐子。名は師貞。永観二年(九八四)即位し、在位一年一〇か月。女御、藤原忯子の死を悲しむのあまり、藤原兼家に謀(はか)られて退位。出家して東山花山寺にはいる。和歌、画をよくし、「拾遺和歌集」「拾遺抄」「後十五番歌合」の撰者ともいわれる。安和元~寛弘五年(九六八‐一〇〇八)(『日本国語大辞典』)
- [xxi] 966〜1041 平安中期の公卿・歌人
関白頼忠の子。別称四条大納言。参議。詩歌諸芸に通じ,四納言の一人に数えられる。有職故実書『北山抄 (ほくざんしよう) 』,歌学書『新撰髄脳 (しんせんずいのう) 』を著し,ほかに『和漢朗詠集』『拾遺和歌集』を撰んだ。(旺文社『日本史事典』)
おすすめ記事
- 日本人なら知っておきたい文学作品!日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』
- 日本人なら知っておきたい文学作品!第二の勅撰和歌集『後撰和歌集』を徹底解説
- 日本人なら知っておきたい文学作品!第3の勅撰和歌集『拾遺和歌集』を徹底解説
- 日本人なら知っておきたい文学作品!院政期の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』
参考