日本人なら知っておきたい文学作品!文学作品まとめシリーズ【八代集】その2

八代集の覚え方は?おさえるべきポイント! 

まず、勅撰和歌集とは、天皇・上皇の命によって編纂された和歌集のことをさします。勅撰和歌集は全部で二十一あります。二十一代集のうち、最初の三集を「三代集」、八番目までを「八代集」と言います。今回は「八代集」に入っている和歌集の中から5番目から8番目までを紹介します。それぞれの特徴をきちんとおさえてましょう。前半は【日本文学まとめシリーズ】八代集その1で説明します! 

金葉和歌集』

平安時代後期

  • 勅命:白河院[i]
  • 成立:大治1年(1126年)ごろ
  • 撰者:源俊頼[ii]

10巻。天治1(1124年)に最初の草稿を奏覧に入れたが、返却され三度目に嘉納されました。よって初度本第二度本三奏本があります。当時流行した万葉好みの田園趣味や大胆な表現など時代の新風を感じさせる革命的な和歌集になっています。 

詞花和歌集』

平安時代末期

  • 勅命:崇徳院[iii] 天養1年(1144年)
  • 成立:仁平1年(1151年)ごろ
  • 撰者:藤原顕輔[iv]

10巻、409首からなる最も小規模な勅撰集です。保守・革新両派が混在した結果、両者から批判を受ける結果となりました。 

千載和歌集』

平安時代末期

  • 勅命:後白河院[v] 寿永2年(1183年)
  • 成立:文治4年(1188年)ごろ
  • 撰者:藤原俊成[vi] 

『金葉和歌集』『詞花和歌集』と10巻が続いたが、『千載和歌集』は『後拾遺和歌集』以前の20巻に戻しました。また、『詞花和歌集』が歌壇から批判を受けたのをうけ保守・革新両派の調和をはかりつつ、王朝の伝統の回帰を願う意識を主情的に表現する和歌が特徴です。 

新古今和歌集』

鎌倉時代初期

  • 勅命:後鳥羽院[vii] 建仁元年(1201年) 
  • 成立:承元4年(1210年)ごろ
  • 撰者:源通具[viii]、藤原有家、藤原家隆[ix]、藤原定家[x]、藤原雅経[xi]

20巻、流布本で1979首。勅撰和歌集21集の中でも最も成立過程が複雑で幾度と切継(改訂)が行われました。特徴として、藤原敏成が唱えた「幽玄」(言外に漂う静寂美や情調)や藤原定家の「有心体」(幽玄を求めて妖艶な情調の象徴的表現と余情を尊重)という非現実の美を虚構として求める「新古今調があげられます。鎌倉に入り王朝文化が衰退している社会の情勢があらわれているともいえます。 

【註】

  • [i] 1053〜1129 平安後期の天皇(在位1072〜86)
    後三条天皇第1皇子。摂関家の勢力を抑え,堀河天皇へ譲位後,1086年院政を開始。堀河・鳥羽・崇徳の3代43年間政権を担当。1096年出家して法皇となった。仏事に熱心で法勝寺などの造寺・造仏につとめたが,財政が窮迫したため,成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) などの売位・売官が盛んに行われた。(旺文社『日本史事典』)
  • [ii] 平安後期の歌人。経信の三男。母は土佐守源貞亮の女。歌人として重んぜられ、白河上皇の命をうけ「金葉和歌集」を撰進。同時代の多くの歌合にも作者や判者として加わり、勅撰集に採録された彼の歌は約二〇〇首を数える。家集「散木奇歌集」、歌学書に「俊頼髄脳」がある。天喜三~大治四年(一〇五五‐一一二九)(『日本国語大辞典』) 
  • [iii] 第七五代とされる天皇。鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮藤原璋子。名は顕仁。保安四年(一一二三)即位。永治元年(一一四一)父上皇の寵妃美福門院の子近衛(このえ)天皇への譲位をしいられて退位。藤原頼長と組み保元の乱(一一五六)を起こしたが、敗れて讚岐国(香川県)に配流。世に讚岐院という。元永二~長寛二年(一一一九‐六四)(『日本国語大辞典』) 
  • [iv] 平安末期の歌人。顕季の子。清輔の父、顕昭の義父。正三位左京大夫に至った。六条家をつぎ、「詞花和歌集」の撰者となり、「久安百首」の作者にはいり、近衛天皇の大嘗会屏風歌を詠進し、多くの歌合の主催者・判者・作者として活躍した。家集に「左京大夫顕輔集」がある。寛治四~久寿二年(一〇九〇‐一一五五)(『日本国語大辞典』) 
  • [v] 1127〜92 平安末期の天皇(在位1155〜58)
    鳥羽天皇第4皇子。兄崇徳上皇と対立,これが保元の乱の一因となった。乱後譲位して二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年間にわたり院政を行った。源平の争乱,鎌倉幕府の成立など激動期にあって貴族勢力維持のため武家勢力と対抗。1169年法皇となり,多くの寺仏を造った。また『梁塵秘抄』の撰者としても有名である。(旺文社『日本史事典』)
  • [vi] 1114〜1204 平安末期・鎌倉初期の歌人
    名は「としなり」ともいう。法号は釈阿。後白河法皇の命で『千載和歌集』を撰進。六条家と抗争し歌の家として御子左 (みこひだり) 家の基を築いた。歌風は余情・幽玄体の新境地。主著に家集『長秋詠藻』,歌論『古来風体 (ふうてい) 抄』など。(旺文社『日本史事典』)
  • [vii] 1180〜1239 鎌倉初期の天皇(在位1183〜98)
    高倉天皇の第4皇子。安徳天皇を擁した平氏が西走ののち,祖父後白河法皇の院政のもとで即位。法皇没後親政,1198年から院政を行う。この間土御門通親 (つちみかどみちちか) を用い親幕勢力を排除し,西面の武士を設置して公家勢力の伸張につとめた。1221年北条義時追討の院宣を発したが幕府軍に完敗し(承久の乱),隠岐に流され,その地で没した。また歌人としてもすぐれ『新古今和歌集』を勅撰した。(旺文社『日本史事典』)
  • [viii] 鎌倉初期の歌人。通親の子。俊成女(しゅんぜいのむすめ)の夫。堀河大納言と呼ばれる。「新古今和歌集」の撰者の一人。「新古今集」以下の勅撰集に三七首入集。承安元~嘉祿三年(一一七一‐一二二七)(『日本国語大辞典』)
  • [ix] 1158〜1237 鎌倉前期の歌人。『新古今和歌集』撰者の一人
    名は「かりゅう」とも読む。藤原俊成に和歌を学ぶ。藤原定家と並称され,歌風は温雅で技巧にすぐれている。得意は幽玄な叙景歌。壬生二品 (みぶにほん) と称し,家集に『壬二 (みに) 集』がある。(旺文社『日本史事典』)
  • [x] 1162〜1241 鎌倉前期の歌人。『新古今和歌集』撰者の一人
    名は「ていか」とも読む。俊成の子。幽玄・妖艶,象徴的な歌風で,新古今調の大成者。主著に歌論『近代秀歌』『詠歌大概』,日記『明月記』,家集『拾遺愚草』など。(旺文社『日本史事典』)
  • [xi] 鎌倉初期の歌人。飛鳥井家の祖。頼経の子。従三位参議に至った。和歌を俊成に学び、「新古今和歌集」の撰者の一人となり、蹴鞠や書にもすぐれた。家集に「明日香井集」がある。嘉応二~承久三年(一一七〇‐一二二一)(『日本国語大辞典』) 

まとめ

 

勅命 

成立 

撰者 

金葉和歌集 

白河院 

大治1年(1126年)ごろ 

源俊頼 

詞花和歌集 

崇徳院 

仁平1年(1151年)ごろ 

藤原顕輔 

千載和歌集 

後白河院 

文治4年(1188年)ごろ 

 

藤原俊成 

新古今和歌集 

後鳥羽院 

承元4年(1210年)ごろ 

源通具、藤原有家、藤原家隆、藤原定家、藤原雅経 

 

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