日本人なら知っておきたい文学作品!”春はあけぼの”で有名な『枕草子』を解説

枕草子』は約300段からなる随筆であり、その作者は清少納言だとされています。『枕草子』の内容を見る前に清少納言について触れたいと思います。清少納言は平安時代の歌人であり、父の清原元輔、曽祖父の深養父[i]は共に有名な歌人でした。清原元輔は梨壺の五人[ii]の一人として『万葉集』の読解・『後撰和歌集』の撰者として編纂に関わった人物です。清原元輔は河内周防などの国司を歴任し、肥後守で官務を終えたとされています。

清少納言は藤原道隆[iii]の娘であり、藤原伊周[iv]の妹である藤原定子に仕えましたその日々を綴った随筆が『枕草子』です。藤原道長[v]との政権争いに破れ、父道隆は死に兄伊周は太宰府へ左遷されました。政権争いに巻き込まれた中宮定子はすでに出家していましたが、道長の娘彰子[vi]が中宮になったことにより、皇后となりました。出家した後も天皇の寵愛は続いていたようですが、次女を産んだ後亡くなりました。清少納言は定子が召されるまでは彼女に仕え、その後は定子の娘脩子内親王などに仕え、晩年は宮中を去ったようですがその後の消息は分かっていません。

では、『枕草子』の内容をみていきたいと思います。約300段の章段は以下の三種類に分類することができます。

  1. 随筆的章段
    自然の情趣や人事の機敏を捉えたもの。
    例)「春はあけぼの」(第1段)、「正月一日」(第3段)
  2. 類聚(るいじゅう)的章段
    「物尽くし」の章段。題材・主題を最初に提示して、連想される事柄を書いたもの。
    例)「山は」(第13段)、「すさまじきもの」(第25段)
  3. 日記回想的章段
    作者(清少納言)の宮中での体験が主に描かれているもの。
    例)「職の御曹司に」(第87段)、「殿などのおはしまさで後」(第143段)

また、『枕草子』の特徴として「をかし」という言葉が挙げられます。これに対し、同時期に彰子に仕えた紫式部が著したとされる『源氏物語』は「あはれ」の文学であると言われています。

『枕草子』の成立過程、題の由来については最終段に記述があります。

300段

 物暗うなりて、文字も書かれずなりたり。筆も使ひはてて、これを書き果てばや。この草子は、目に見え心に思ふ事を、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなく、人の爲便なきいひすぐしなどしつべき所所もあれば、ようかくしたりと思ふを、心より外にこそ漏り出でにけれ。宮の御前に、内の大臣の獻り給へし御草子を、「これに何を書かまし。上の御前には、史記といふ文を書かせ給へる」など宣はせしを、「枕にこそはし侍らめ」と申ししかば、「さば得よ」とて賜はせたりしを、怪しきを、故事や何やと、盡きせず多かる紙の數を書き盡さむとせしに、いと物覺えぬことぞ多かるや。大方これは、世の中のをかしき事、人のめでたしなど、思ふべき事、なほえり出でて、歌などをも、木、草、鳥、蟲をもいひ出したらばこそ、「思ふよりはわろし。心見つなり」とも譏られめ。只一つに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれば、物に立ちまじり、人竝竝なるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「はづかし」なども、見る人は宣ふなれば、いと目安くぞあるや。げにそれもことわり、人のにくむを善しといひ、譽むるをも悪しといふは、心の程こそおし量らるれ。只人に見えけむぞねたきや。

〈訳〉
薄暗くなって、文字も書かれなくなった。筆も使い切ってこれだけを書いてしまひたい。一體この草子は、目に見え心に思ふを、人が見る事はあるものかと思って、退屈な里住居の間に書集めたのを、生憎人に取って不都合な過言などしそうな所所もあるので、よく隠して置いたと思ふのを、意外にも世上に洩れ傳割ってしまった。
中宮の御前に、内大臣殿が奉った草子を、中宮が「これ何を書かうか。主上には、史記といふ書を御書きなされた」など仰になったのを、自分が「それを頂いて、枕には致しませう」と申上げたので、中宮が「それならば遣ろう」とて、下されたのを、怪しい事を、故事や何やと、限もなく深山ある紙數を、ありたけ書かうとしたので、甚だ澤のわからぬ事が澤山あるよ。大體。これは世の中の面白い事、人のめでたいなど思ひそうな事を、人竝にやはり選出して、歌などをも、木草鳥蟲をもいひ出したならば、「思ったよりは悪い。心の程もわかった」とも譏られよう。けれどこれは、只自分の心一つに、自然思ひ浮んだ事を、戯に書付けたから、他の立派な作物の中に交って、竝一通りの評判をも聞かれようものかいと思ったのに「馬鹿にならない」なども、この草子を見る人は仰しゃるから甚だ気安い事であるよ。然し、一方から考へればほんに尤もである。人の憎むのをも善いといひ、譽るめる事をもわるいといふは、そういう人の心の趣も推量される。どの道只、人にこの草子を見られたのが残念であるよ。
(金子元臣『枕草子通解』明治書院より参照)

以上に書かれているように、清少納言が仕えていた藤原定子に兄藤原伊周が草子(紙を綴じ合わせた書物)を献上されました。それに対し、中宮は「何と書いたらよいか」と清少納言に尋ねました。清少納言は「それは枕でございましょう」と答え、「それなら、あなたが書きなさい」と中宮に言われ書いたのが『枕草子だといいます。この「“枕”が何か」というところでは議論が分かれています。寝具の枕ではなく、「歌枕」、「枕頭書」、「枕中書」などをさすのではないかと考えられていますが定かではありません。「歌枕」とは歌詞、枕詞、名所など和歌に詠みこまれる歌語や題材などを列挙し、解説した書物のことです。「枕頭書」は雑学や座右の銘などを集めた備忘録のような書物を指し、「枕中書」は宮仕えの必携書のようなものを指します。

中宮定子の生前に既に一部は完成し中宮定子に献上されましたが、その後加筆されたと考えられています。政変の最中であっても、変わらず寵愛された中宮定子の日常を切り取り描いたところに、清少納言の中宮定子への忠誠心が窺えます。『枕草子』は清少納言の女房としての私的な日記でありながら、女房同士の会話などをまとめた公的な記録としての意味合いも備えていると言えるでしょう。

最後に、『枕草子』に関する簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 清少納言の父は誰ですか。
  2. 清少納言が仕えていたのは誰ですか。
  3. 『枕草子』のジャンルは何ですか。
  4. 『枕草子』の昇段を3つに分類したとき、随筆的章段、日記回想的章段と後1つは何ですか。
  5. 草子を清少納言が仕えている人に献上したのは誰ですか。

→次回は拾遺和歌集について解説します!

(註)
  • [i] 平安前期の歌人。清少納言の曽祖父。元輔の祖父。内蔵大允。藤原兼輔・紀貫之らと親交があった。古今和歌集以下の勅撰集に四〇首入集。家集に「深養父集」がある。生没年未詳。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ii] 951年(天暦5)村上(むらかみ)天皇の命により、宮中の梨壺(昭陽舎)に撰(せん)和歌所が設けられて、別当に藤原伊尹(これまさ)、寄人(よりゅうど)に大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、源順(したごう)、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)が任ぜられ、『万葉集』の読解と第二の勅撰和歌集『後撰(ごせん)和歌集』の撰集とを行った。この寄人5人を「梨壺の五人」という。寄人選定は両事業の兼ね合いによるもので、歌人たることが必要条件ではなかったようである。歌人としての実績が乏しい時文は父貫之(つらゆき)の資料提供と能書、望城は御書所預(あずかり)と学識が考慮されての選と考えられている。『万葉集』読解はおもに順があたった。小学館『日本大百科全書』
  • [iii] (953~995) 平安中期の廷臣。兼家の子。道長の兄。別称、中関白。内大臣を経て、摂政・関白となる。死を前にして子伊周これちかに地位を譲ろうとして果たせず、道長に権勢を奪われた。娘定子は一条天皇皇后。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iv] (974~1010) 平安中期の廷臣。道隆の子。内大臣。関白を争い叔父道兼・道長と対立、花山法皇に矢を射かけ、大宰権帥だざいのごんのそつに左遷された。翌年許され儀同三司の待遇を得たが、道長に抗し得ず失意のうちに没した。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [v] (966~1027) 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vi] (988~1074) 一条天皇の中宮。道長の女むすめ。後一条・後朱雀両天皇を生み、道長による藤原氏全盛を可能にした。紫式部・和泉式部・赤染衛門らの才媛が仕えた。上東門院。『三省堂 大辞林 第三版』

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