日本史を楽しく復習しよう!「藤原摂関政治」について[醍醐天皇・村上天皇]

少しずつ力をつけてきた藤原氏!!

今回の章では、これまで政治の実権を握り続けてきた天皇に代わって、藤原氏が政治権力を独占し、藤原氏が最盛期を迎えていく、平安時代中期の摂関政治の時代をみていきます。

さて、みなさん。なぜ、藤原氏は、政治のトップに躍り出るほどの強大な権力を握ることができたのでしょうか。

まず、最初に藤原氏の名前が日本史の歴史の中で出てきたのが、飛鳥時代でした。

645年の大化の改新の際に、中大兄皇子と共に蘇我氏を滅亡に追い込み、その後の改新政治において内臣という役職に就いて天皇を中心とする集権国家の形成に尽力した人物が、中臣鎌足でしたね。

彼は死の直前に中大兄皇子(天智天皇)から「藤原」の姓を賜りました。この「藤原鎌足」が、藤原摂関政治を担う「藤原氏」の直接の祖先になります。

そして、藤原鎌足の息子の藤原不比等は、701年の大宝律令の制定で活躍し、さらにその娘が当時の天皇と結婚し、その息子が次の天皇となり、自らは外戚として権力を握り続けるという体制を築きました。

これが奈良時代の政争の時代ですね。覚えていますか。「藤原氏」→「皇族」→「藤原氏」→「皇族」…と交互に政権を担当していたあの時代です。

この時は、まだ藤原氏の権力は絶対的なものではなく、一進一退を繰り返しながら少しずつ権力基盤を固めていく段階でした。

この時に、長屋王の次に政権を担当した人物たちに「藤原四子」がいましたね。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4人の不比等の息子たちのことで、彼らはそれぞれ「南家」「北家」「式家」「京家」と藤原氏の分家となりました。

その後、お坊さんの道鏡政権の後、光仁天皇が就任すると藤原式家の藤原百川がその政治を支え、以降藤原式家が藤原家の中でも力を持つようになりました。

しかし、その後平安時代に入り、嵯峨天皇の時の起こった、薬子の変の時に、平城上皇をけしかけた藤原式家の薬子・仲成が退けられ、代わって嵯峨天皇が蔵人頭の役職に任じた、藤原北家の藤原冬嗣が台頭し、以降は藤原家の中でも北家が権力を持つようになりました。

そして、冬嗣の子孫が代々、平安時代中期になって藤原摂関政治をけん引していきます。つまり、藤原摂関政治の担い手は藤原北家であったということですね。

藤原北家による摂関政治は、858年に藤原良房が初めて摂政に就任し以降はじまり、最後に藤原道通による摂関政治が終わりを迎える1060年代までの長きにわたり、続いていきました。

では、なぜ藤原氏は一貴族でありながら、100年以上も政治のトップの権力を握り流づけることに成功したのでしょうか。

藤原氏が、どのようにして権力を掌握し、どのように国家をまとめていったのかを、ここから詳しくみていきたいと思います。

藤原摂関政治はどうして始まったの??

飛鳥時代から藤原氏は政界で大きな影響力を持つ氏族となり活躍し、強い権力を持っていました。

しかし、政治のトップに立って藤原摂関政治を迎え、安定的な政権を担うまでに、かなり長い時間を要しました。なぜ、これほどまでに権力を固めるまでに時間がかかったのでしょうか。

それは、当時はやはり絶対的な権力を有しているのは天皇だったからです。だから、安定的に権力を握るためには常に天皇の近くにいて信任を得続けなければいけないという背景がありました。

しかし、藤原氏を信任する天皇もいればそうでない天皇もいるというなかで、その権力は進んだり、退いたりする状況が続いていたわけです。

この状況を打開し、藤原氏が絶対的な権力を獲得するために必要なことは2つありました。

それは、天皇から厚く信任されている他の藤原氏のライバルとなる氏族を退けること。そしてもう一つが、常に天皇との距離が近い関係を持ち続けることでした。

この2つを実現するために、藤原氏は①他氏排斥と②天皇の外戚になること、を実行していきました。

他氏排斥というのは、ライバルとなる氏族をやっつけるということですね。

そしてもう一つの天皇の外戚となることは、これは古代日本において、天皇家でない氏族が政治権力を握るための常套手段でした。

外戚というのは、母方の親族のことで、当時は父方の親族よりも母方の親族のほうが重んじられる時代でした。

というのも、当時の貴族の結婚は「招婿婚」といって、男性が女性のもとに通って結婚するという形式で、生まれた子どもも、妻の実家で育てることが慣例となっていました。

そのため、父方よりも母方のほうが重んじられるようになったのです。藤原氏はこの慣例を利用し、自分の娘を天皇と結婚させて、その子どもが生まれてから自らは外戚として権力を握るという方法をとったのです。

もちろんこの体制を維持するためには、藤原氏が女の子を生み続け、さらに天皇とその娘との間に男の子が誕生することが絶対の条件でした。

そのため、藤原氏が権力を持ち続けたのは外戚の関係を維持し続けることができたからであり、逆にいえば、藤原摂関政治が終わるのは外戚関係を維持できなくなった時でした。

それはともかくとして、ではどのような過程で他紙排斥を実現し、外戚関係を維持し続けていったのか、その歴史を振り返っていきましょう。

藤原摂関政治のはじまり、はじまりー!!まずはライバルをぶった倒すぞ!!

平安時代初期に嵯峨天皇からの厚い信任を得た藤原冬嗣は、自分の娘の順子を仁明天皇に嫁がせて、2人の間には道康親王という男の子が誕生し、天皇家との外戚関係を築きました。

そしてさらに、藤原冬嗣の息子の藤原良房は、842年に承和の変で、藤原氏のライバルであった伴健岑や橘逸勢らを、彼らが当時の天皇であった仁明天皇を引きずりおろそうとしているという謀反の疑いをかけて、排斥しました。

この事件の発端は、伴健岑や橘逸勢が次期天皇に恒貞親王を擁立したことがきっかけでした。恒貞親王は、嵯峨天皇の次の天皇の淳和天皇の子どもです。

冬嗣はこの恒貞親王ではなく、淳和天皇の次に天皇になった仁明天皇と冬嗣の娘の順子との間に生まれた、甥の道康親王を皇太子にしたいと思っていました。そのため、伴・橘両氏を退け、恒貞親王を遠ざけることによって、道康親王を次期天皇にして、藤原氏の権力を安定的なものにしようとしたわけです。

実際に、仁明天皇の後、道康親王が即位し文武天皇となりました。その後857年に、藤原良房は現在の内閣総理大臣のような役職の太政大臣に就任し、その翌年の858年に文武天皇と良房の娘の明子との間に生まれた、幼少の清和天皇を即位させました。これにより、良房は事実上の摂政となりました。

ちなみに、摂政というのは、天皇が幼少または女性の時に、天皇に代わって政治を行う役職で、この後に出てくる関白というのが、成人した天皇の政治を代わりに行う役職です。

その後、866年に応天門の変という事件が起こり、これ以降良房は正式に摂政の任につきました。応天門の変というのは、大内裏朝堂院の応天門が炎上した事件で、当初これは大納言の伴善男が左大臣の源信が放火したのだと源信に責任を追及しました。

しかし実際には、これは伴善男が源信の失脚を企てて意図的に放火したものであるということがわかり、かえって伴善男が流罪となりました。

これとあわせて、この事件に関与したとされた紀豊紀も処分され、これにより良房は藤原氏のライバルであった、伴・紀両氏族の排斥に成功しました。

俺は長嶋茂雄じゃない!藤原基経だ!!

良房の後を継いだのは、藤原冬嗣の長男である藤原長良の息子で、藤原良房の養子となった藤原基経でした。彼は876年に、当時10歳でまだ幼少であった陽成天皇を就任させて、摂政の位につきました。

しかし、陽成天皇は非常に素行が悪く、16歳の時には宮殿内で殺人事件を起こすなど乱暴であったため、基経は884年に、はやくも天皇の位を陽成天皇から光孝天皇に移しました。

ここから、藤原氏に天皇を退位に追い込むほどの強い権力をすでに有していたことがうかがえます。天皇の位を譲り受けた光孝天皇は非常に喜んだと言います。

というのも、このとき光孝天皇は55歳で、もう天皇にはなれないと半ばあきらめかけていた状況であったためです。それで光孝天皇は基経に深い感謝の念を持ち、基経を事実上の関白に就任させました。

そして、次の天皇の宇多天皇の時の887年に、基経は正式に「関白」の位を授かりました。

この「基経の関白就任」の前後に、実はある事件が起こっています。それが阿衡の紛議という事件です。

宇多天皇は即死した後に、基経に官職を与えるための文書を橘広相に命じて書かせました。その時に、橘広相は文書の中に「よろしく阿衡の任を以て卿の任と為せ」と記し、それをそのまま宇多天皇は基経に渡しました。

しかし、これに基経は激怒します。「阿衡とは何事じゃー!!おかしいだろー!」と。何を怒っていたのかと言いますと、実は「阿衡」というのは、中国の古典で「名前だけの官職」という意味合いがある役職だったのです。

つまり、「阿衡」に任じるというのは、地位は与えるけど実務はさせないよということを意味するものだったのです。「関白」の任につき、政治の実務をおこなうことを当然のことと思っていた基経はそのために激怒したわけです。

基経が起こっていることを知った宇多天皇は、すぐさまこの文書を撤回し、改めて「基経を関白に任ずる」と記し直して、基経は正式に「関白」の職に就くに至りました。

「阿衡」の文書に関与した橘広相は、当然のことながら失脚させられました。この事件により「関白」の地位の高さが明確になりました。

藤原氏に嫌気がさした宇多天皇!!

基経を関白に置いた宇多天皇は、阿衡の紛議を根に持っていたのでしょう、基経の死後、摂政・関白を置かない政治体制を築き、藤原氏の動きをけん制するために菅原道真を蔵人頭に任じて、天皇親政を行いました。

天皇親政というのは、天皇自らが実際の政治を動かしていく政治体制のことです。宇多天皇が行った天皇親政のことを「寛平の治」ともいいます。これにより摂関政治は一旦中断します。

宇多天皇と菅原道真の政治課題は、軍事力の低下と遣唐使の見直しでした。そこで、宇多天皇と菅原道真はまず、893年に宮中を警護するために滝口の武士を設置しました。

また、894年には道真の建白により遣唐使の中止が決定されました。遣唐使の中止は、今後、衰退を始めている唐からは学ぶ得るものは少なく、わざわざ危険をおかしてまで行くべきでないとの判断からでした。

最初ものと最後ものがお好きな醍醐天皇!!

宇多天皇の次に天皇の位に就任したのが醍醐天皇でした。醍醐天皇もまた親政政治を継続させていきます。醍醐天皇が行っていた天皇親政のことを「延喜の治」ともいいます。

醍醐天皇は宇多天皇の思いを引き継ぎ、宇多天皇に重用されていた菅原道真を引き続き側近として用い、右大臣に任じました。

しかし、菅原道真の出世を良く思っていなかった、左大臣の藤原時平が「道真が醍醐天皇を廃して、道真の娘と結婚した斉世親王を天皇にしようと画策している」という噂を流し、これを真に受けた醍醐天皇は、901年に菅原道真を大宰府に左遷してしまいました。これを昌泰の変といいます。

左遷された菅原道真はその2年後に、大宰府の地でこの世を去ります。その後、宮中の周辺で落雷があったり、藤原時平が休止したり、不吉な出来事が相次ぎ、これらは菅原道真の祟りであると恐れられました。

そのため、道真は北野の地に祀られ、北野天満宮は学問の神様として崇め奉られました。

醍醐天皇の実績をみておきましょう。まず、902年に日本初の荘園整理令である「延喜の荘園整理令」を発布しました。

荘園整理令というのは、増えすぎてしまった貴族や寺社の私有地である荘園を政府の統制下にしっかりと置こうとするための法令です。

これは当時増えすぎてしまった荘園の管理が行き届いていなくて税金をしっかりととれていなかったという時代背景があります。しかし、実際にはこの法令は失敗に終わります。

また、形骸化していた班田収授法を復活させようと、班田を行いますが、これも醍醐天皇を最後に以降、実施されないようになります。

当時の農村は914年に三善清行が「意見封事十二箇条」で記しているように、農民が疲弊し、浮浪・逃亡が横行し、税金が入ってこず、国家財政が窮乏している状況でした。

延喜の荘園整理令や班田収授の再開はこうした荘園の問題を根本的に解決する政策とはならなかったのです。

醍醐天皇は他に、最初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂を行ったり、最後の六国史である『日本三大実録』を完成させたり、最後の格式である『延喜格式』の編集を開始したりしました。

醍醐天皇は、「最初」ものと「最後」ものが好きなのですね。

「俺たちが日本の理想的な時代を築いたんだ」の自負が強い醍醐さんと、村上さん!

醍醐天皇の次に天皇に就任したのは朱雀天皇で、この天皇の時に藤原時平の弟の藤原忠平が摂政・関白になり、一時摂関政治が復活します。

しかし、その次に天皇になった村上天皇はまた、摂政・関白を置かず天皇親政政治を行いました。村上天皇が行った天皇親政のことを「延暦の治」といいます。

ちなみに、先の醍醐天皇村上天皇の時代は後世の歴史で『延喜・天暦の治』と呼ばれて、この時代こそが理想的な時代なのだと認識されるようになりました。

政治の実態はそんなに大きなことを成し遂げているわけではないのですが、これは摂関政治で藤原氏が台頭してきている中でも、天皇が独自に政治を行っていくという体制を貫いたということから、朝廷の中で理想的な時代とされているのです。

実際に、鎌倉時代と室町時代の武士の時代の間に、「建武の新政」という天皇親政政治を行った後醍醐天皇は、自らが醍醐・村上天皇の理想の時代を復活させる偉大な理想的な天皇なのだという意味合いを込めて、自らを「後醍醐」と名乗りました。それほど、醍醐・村上天皇の時代が理想的とされていたのですね。

そんな理想時代の村上天皇がやったことは、皇朝十二銭の最後である乾元大宝を鋳造した、これだけです。しかも、939年には承平天慶の乱という武士の反乱事件も起こっています。

決して理想的な時代とはお世辞でもいえないような内容ですね。村上天皇の時代にあった2つの事象をしっかりと覚えておきましょう。

藤原摂関政治がここに、本格的に始まる!!

村上天皇の後に、冷泉天皇が就任すると、藤原実頼が関白に就任しました。

そして、この時代に藤原氏による最後の他氏排斥事件が起こります。それが、969年の安和の変です。

藤原氏の最大にして最後のライバルは源高明でした。藤原氏は高明を排除するため源満仲と手を組み、満仲が「源高明が村上天皇の子の為平親王を擁立しようと謀叛をたくらんでいる」ということを密告し、大宰府に左遷させました。

これにより藤原氏一強が実現します。この変の直後に冷泉天皇に代わって幼少の円融天皇が就任し、実頼は摂政に就任しました。

これ以降、摂政・関白は常置されるようになりました。そしてとくにここから始まる約100年間にわたる摂政・関白の政治を、正式には「摂関政治」といいます。

ちなみに摂関政治は100年で終わりますが、「摂政・関白」という役職事態は明治維新で「王政復古の大号令」が出されるまで残りました。

ライバル消えたら次は身内とバトルだ!!

さて、他氏排斥が完了すると、今度は藤原北家の内部で、一族同士の激しい対立が起こるようになります。だれが藤原氏の「氏の長者」となり、摂関政治を担うのかというのを争うわけですね。まさに血で血を洗う争いです。

代表的なものとしては、藤原兼通と藤原兼家の兄妹同士の争いや、当時の関白藤原道隆の子の藤原伊周とそのおじの藤原道長との対立などがあります。

こうした対立の結果、最終的に勝利を収めたのが、みなさんご存じの、藤原道長です。ここから、藤原摂関政治の全盛期を迎えます。

勝利した藤原道長は、996年に左大臣となり、997年には自分の娘の彰子を一条天皇の中宮として嫁がせます。

また、一条天皇の後に天皇の位に就任した三条天皇にも自分の娘の妍子を嫁がせ、三条天皇のあとに天皇に就任した後一条天皇にはこれまた自分の娘の威子を嫁がせ、さらに後一条天皇のあとに天皇に就任した後朱雀天皇にはこれまたまた自分の娘の嬉子を嫁がせています。道長はどれだけ元気なのでしょうか。

というわけで、道長は4人の娘を次々に天皇のもとに嫁がせ、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の外祖父として権勢をふるいました。

ちなみに道長は、後一条天皇の時に一度摂政になっただけで、それ以外では摂政・関白の任に一切就いていません。道長はずっと左大臣の職に就き続けて、摂政・関白は息子の頼通に譲って任せて、政治を後ろから操っていきました。

そんな道長は壮大な法成寺(御堂)を造営し、その権威を示したことから、関白には一度も就任していたいのにもかかわらず、「御堂関白」と現在でも呼ばれています。

関白」といわれているのは、「関白」と同様の権威を道長が当時持っていたということの表れなのでしょう。

そして、道長から摂政・関白の役職を任された藤原道通は、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の摂政・関白として権勢をふるいました。頼通はその権威を示すために、1052年に京都府宇治の別荘地に平等院鳳凰堂を創建しました。

3天皇の長きにわたって権勢をふるった、道長・頼通父子ですが、その終焉は突然にやってきます。藤原道通の娘は後冷泉天皇のもとに嫁ぎ、藤原氏は外戚関係を維持していこうとしましたが、その2人の間に男の子が生まれませんでした。

男の子が生まれなければ、自分の娘の子を天皇にすることができません。ひいては、外祖父である自らも権力を握ることができません。やはり、「摂政・関白」というのは、あくまで天皇の政治の代行者であり、その最終決定権は天皇にあるわけです。

天皇との近い血縁関係を持てなくなったものは、やはり衰退していくわけで、藤原氏も例外ではありませんでした。

藤原氏を外戚とする後継天皇が生まれなかったために、後冷泉天皇の後は、藤原氏を外戚としない後三条天皇が就任し、藤原摂関政治は終焉を迎えることとなりました。

藤原摂関政治の政治運営方法をチェックしておこう!!

さて、摂関政治期の政治の運営方法を最後に確認しておきましょう。

摂関政治は天皇の代理として藤原家が政治を行うという形式で行われていました。しかし、ここで注意しておいてほしいのは、もちろん藤原氏が天皇の政治の代行者として国家運営をしていったわけですが、ほとんどの政治の決定ごとは、太政官内で行われる陣定という会議で話し合われた内容に基づいて行われていたという点です。

天皇や藤原家はこの決定を参考にして最終的な政治の決定をするわけですが、政治運営の基本はあくまで「太政官」にありました。

もちろん、藤原摂関政治期は藤原家が強い権力を持っていたわけですから、太政官の構成員も藤原氏や、藤原氏に近い人間で固めることができたわけです。

こうした点から見ても、頼通以降、天皇の後継者が生まれず、求心力を失った藤原氏が、太政官に対する影響も薄らいでいく中で、急流の滝から猛スピードで下り落ちていくように政治権力の世界から衰退していったことがよく理解できます。

まとめ

摂関政治は、藤原氏が天皇と外戚関係を結びながら、自らは摂政・関白となって政治の代理をして、政治権力を獲得し、維持していくといった政治体制でした。

この政治体制は、100年間の長きにわたり維持されていきましたが、後継の途絶えた瞬間に藤原氏は一気に衰退を始めました。

「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば」

と詠んだのは、摂関政治全盛期を担った藤原道長だそうですが、そんな藤原家もはかなくも、欠けて見えなくなってしまうのですね。これが世の常というものです。

さて、摂関政治の後どのような時代が到来してくるのでしょうか。次の章以降で見ていきましょう。

その前に、次は藤原摂関政治時代に流行した文化、「国風文化」をチェックしていきますよ!!

文化からも藤原氏がどんな時代に生き、どんな思いで政治を行っていたのかが見えてくるかもしれません。お楽しみに。

続きはこちらから!

おすすめ記事

参考

 

中学受験生のお母さん向け無料メールマガジン

    本サイトの監修者である、開成番長こと繁田和貴が執筆する無料メルマガは、その内容の濃さから6000人以上の読者に愛読されています!

    登録も解除も簡単にできますので、まずはお気軽にご登録ください。

                                

「開成番長・繁田の両親が語る繁田の中学受験PDF」プレゼント!

無料メルマガ登録