今回は10世紀後半から13世紀後半にかけての宋の歴史について学びます。唐衰退後、五代十国の約50年を経て、960年に建てられた宋はそれまでの中国社会、および東アジア社会とは異なる発展を遂げた時代でした。例えば、唐の時代に中国を中心として築かれた東アジア文化圏は唐の衰退とともに求心力を失い、結びつきを緩めていきましたが、その後の宋代には商業の発展、新たな政治体制を整えることで中央集権的な大国としての権威を立て直し、独自の文化や豊かさを生み出しました。一方で、宋の周辺に立ち並ぶ、契丹(遼)や、西夏、渤海、南詔、大越国などの東アジア諸国との対外関係は、緊張状態にありました。特に、五代十国時代以降の契丹、12世紀に建国された金などの北方勢力は華北に迫り、宋の脅威となりました。
ここでは、宋代の政治・社会の変化を整理して当時の東アジア世界の概観を捉えたいと思います。早速、見ていきましょう。
Contents
唐衰退後の中国
唐末の9世紀後半に起こった塩の密売人黄巣の乱は、節度使の李克用らによって治められたが、以来、中国では社会の混乱と唐朝の権威衰退の一途を辿った。そうした中で、唐を中心とした東アジア文化圏の朝貢や冊封体制も揺らぎ始め、東アジア全体が動乱期を迎えることとなった。907年に節度使朱全忠が皇帝位を譲り受け、梁(後梁)を建国すると、約300年間続いた唐朝はついに滅亡し、宋建国までの約50年間の五代十国時代に入る。
五代十国時代
唐滅亡後、華北では五代と総称される5つの王朝が興亡し、江南には地方政権が立て続けに建てられた。これを十国という。
※五代
- 後梁(907~923年)◎開封…朱全忠によって建国。
- 後唐(923~936年)◎洛陽…李克用の子が建国。
- 後晋(936~946年)◎開封
- 後漢(947~950年)◎開封
- 後周(951~960年)◎開封
唐末以降の東アジア諸国
唐滅亡後の動乱期の中で、東アジア世界はそれまでのような中国王朝を中心とした強固な結びつきや連帯を緩め、諸国が自立した政治や文化を形成するようになった。五代十国から宋にかけての中国は東西南北を囲う諸王朝からの圧迫の中で、より豊かな国内の文化・政治体制と緊張を保った対外政策を打った。以下は、当時の中国を取り巻く諸国である。
- ウイグル
キルギスに敗れて解体後、一部は西方へ移住しオアシス定住民と合流、イスラーム文化を受容するようになる。他の一部は唐の方へ南下した。 - 契丹(遼)
907年、耶律阿保機が建国。北方で巨大な領域を治め、渤海や中国など周辺諸国への進出を行った。二代目皇帝太宗の時代には、華北に進出し後晋から燕雲十六州を得る。1125年、金に滅ぼされる。 - 渤海
8~9世紀に栄えたが、926年契丹に降伏する形で滅亡。 - 高麗
918年、王建が朝鮮半島に建国。 - 日本
唐代は中国とは朝貢関係にあり、文化や制度を積極的に取り入れて発展したが、唐衰退後は独自の文化(国風文化)が栄えるようになった。 - 大理
宋の西南、雲南で南詔に代わって樹立。13世紀半ばに滅亡。 - 大越国
11世紀初めにベトナムで李氏が建国。東アジア世界の動乱の中で中国支配から脱し、独立王朝が建てられた。
〔11世紀北宋時代の東アジア〕
(世界の歴史まっぷHPを参照)
宋の建国と「唐宋変革」
北宋と南宋
後周の武将趙匡胤(太祖)は960年、皇帝に即位し開封を都として宋を建国した。第二代太宗の時代には中国主要部のほとんどを統一して治めたが、西夏、契丹、大理などの勢力の進出を受け、対外的には緊張状態が続いた。12世紀には契丹に代わって北方を支配していた金の華北への侵入により、開封からの遷都を迫られた。この出来事を靖康の変(1126~27年)と呼ぶが、これを境に開封に都が置かれた960年~1127年を北宋、臨安に都が置かれた1127年~1276年を南宋という。宋の時代には、漢や唐のような対外的な勢力拡大政策が取られることはなかったが、中国国内では積極的な政治改革が行われ、商業、文化の面でも独自の発展を遂げた。宋代での新しい社会の形成について、唐代からのこの大きな変化は「唐宋変革」と呼ばれることもある。
宋代の政治
- 文治主義の時代
唐末期には中央政府の権威が崩れ、各地の藩鎮勢力が互いに争う状態が続いた。そんな中、宋では中央集権的文官統治制度が採られた。例えば、太祖・太宗の時代には、これまで中央政府に対して自立的な地方支配能力を持っていた節度使の力を弱め、中央政府に権力を集めるため、地方官の任命は中央政府によって直接行われた。
さらに、官吏登用法として隋で採用されていた科挙制度が拡充して採り入れられた。宋代の科挙制度の特徴としては、「家柄に関係なく、男性であればほぼ誰でも権利を持ちえたこと」、「儒学の経典理解が重視されていたこと」が挙げられる。このように、家柄や武力に関わらず、学識ある文人官僚が政治を行うという文治主義的な傾向は宋代に生まれたと考えられる。ここで取り入れられた科挙は一時期を除き、明・清まで行われた。 - 王安石の法改革
太祖の文治主義導入によって、軍事力が停滞していた中国では周辺諸国への金品の贈与や官吏の増加に迫られ、財政は悪化傾向にあった。11世紀後半、北宋の神宗(位1067~85年)の時代に、戦争による社会の不安定と財政難の対策として王安石による改革が行われた。新法と呼ばれるこの改革が行われた当時の宋では、商業が活発化し、都市住民が豊かになりつつあったが、そうした中で、政府は新法によって経済への直接関与を行い、地主や商人などの利益を抑えることで国家財政の立て直しを図った。
これに対し、司馬光、欧陽脩、蘇軾らの旧法党は反発し、神宗死後に新法を廃止したが、その後も新法党と旧法党の対立は続いた。
〔王安石(1021-1086)〕
※覚えておきたい新法:財政政策、富国強兵政策
- 青苗法:作付け時に政府が農民に銭穀を貸し付け、収穫時に低利を付けて返済させる。農民の高利貸しからの保護と中央政府の収入増加を目的とする。
- 均輸法:納税の負担を軽減し、商人の中間搾取を抑制するために、政府が各地の特産物を不足地に転売する。
- 市易法:中小商人に低利で資金を貸し付ける。
- 募役法:自作農の没落を防ぐため、各戸から徴収した免役銭によって希望する失業者を政府が低賃金で雇う。
- 保甲法:農閑期に民兵を訓練し、戦時には軍隊に徴集する。軍事力の強化と軍事費削減が目的。
- 保馬法:軍馬を常時確保するため、民間に保甲単位で政府の馬を飼育させて、戦時に徴発する。
宋代の社会
- 商業の活発化
宋代には都市や商業が発展し、都市住民は豊かな経済活動を営んだが、これは中央集権化によって国家財政の規模が拡大し、その影響で全国的な物資流通が活発化したことがその背景だと考えられる。特に、宋の都である開封は大運河と黄河を結ぶ地点にあり、四方を結ぶ交通の要衝としての役割を果たした。商業都市として栄えたのは開封だけでなく、各地の大都市では行や作と呼ばれる商人や手工業者の同業組合が形成された。都市郊外や農村部では、草子や鎮と呼ばれる商業中心地が成長した。商業の発展とともに大量の銅銭が発行されたが、重い銅銭に代わって公子・会子と呼ばれる手形も発行された。
※土地所有の変化:
中国では、唐代から大土地所有制度が発展したが、宋代には形勢戸という新興の地主層が現れた。彼らは、小さな田畑を佃戸と呼ばれる小作人に耕作させ、徴収した農作物を売ることで利益を上げていた。中国周辺の東アジア諸国との間では、すでに朝貢・冊封関係での結びつきは崩れていたが、宋の時代には交易関係によって結びつくようになった。中国東南部の沿岸に位置する広州、泉州、明州、杭州といった都市には交易を管理するために市舶司が置かれた。
※主な輸出品:
-
- 中国:絹織物、陶磁器、書籍、文房具、銅銭
- 契丹や西夏:馬、毛皮、薬用人参
- 日本:金、真珠、水銀、硫黄、刀剣、扇子
- 東南アジア:香料、薬品類
- 科挙制度と士大夫の登場
文治主義国家であった宋の文化の担い手は士大夫と呼ばれる人々であった。士大夫とは、儒学の素養に富んだ知識人を指し、科挙に合格するか、それと同等の教養を認められた者のみが士大夫の地位を得ることができた。当時の社会では、科挙に合格することで社会的な信頼と絶大な勢力を手にすることができたため、厳しい受験競争が行われた。さらに、科挙合格者は官僚にならずとも法律的に優遇措置を受けることができ、地方社会の名士となりえたため、官職を引退して郷里に住む郷紳と呼ばれる人々が、その地域の庶民を支配することもまかり通っていた。 - 儒学を中心とする社会
科挙で実務能力ではなく、儒学の教養が求められたことからもわかるように、宋代は儒学の時代であった。儒学の仁義道徳に基づく正しい秩序形成が当時の学問の中心に据えられ、その一方で儒学者たちは道教や仏教を激しく批判した。こうした背景の中で著された歴史書として、欧陽脩の『新五代史』や、司馬光の『資治通鑑』(※編年体を使用)が有名である。
宋代の儒学の学問においては『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書が重視され、経典全体を通じた哲学的探究に関心が向けられた。その中で、南宋の朱熹によって確立された朱子学(宋学)が宋代儒学の代表である。朱子学は当初異端とされたが、後に広まり、明清代の中国や江戸時代の日本で受け入れられた。
宋代の文化
- 宋代の美術
景徳鎮や磁州で生産された白磁・青磁や文人画を見ると分かるように、芸術においても華美というよりは内面的な深みを思わせるような傾向が宋代の特徴の一つである。美術については、第八代皇帝徽宗の「桃鳩図」を始めとする院体画(北宗画)や、「観音猿鶴図」を代表とする水墨画の文人画(南宗画)が残された。
※張択端「清明上河図」:
北宋の画家張択端が徽宗皇帝時代の開封を描いたとされる作品。長さ5m以上にも及ぶ画の中には人で賑わう都市の様子が描かれ、宋代の商業の発展と都市の繁栄をうかがうことができる。
〔清明上河図(部分)〕
(東京国立博物館HPより)
- 仏教と全真教
宋代の学問の中心は儒学であり、儒学者たちの中にはその思想において仏教や道教を批判する者もいた。しかし、士大夫層の間では禅宗、庶民の間では浄土宗が広く信仰されるなど仏教は宋代の主要な宗教であった。また、12世紀には全真教と呼ばれる道教の一派が成立した。全真教は王重陽という人物が開祖となって金代の華北に興した教団で、儒仏道の一致を説くものであった。 - 新技術の発明
宋代は商業・文化の発展だけでなく、新技術の開発・普及が進んだ時代でもあった。例えば、白磁・青磁といった独自の色を持ち、薄くて固い性質の陶磁器を作ることができるようになったのもこの時期である。さらに、宋代に普及した技術として木版印刷・羅針盤・火薬を用いた武器の3つが重要であった。宋以前の時代に発明されたこれらの技術も、それぞれ科挙学習や仏典の出版、中国商人たちの航海、兵器として発達・普及したことから、宋代は先駆的な発明と技術発展の時代と考えられている。
確認問題
- 朱全忠が唐を滅ぼして建てた王朝は何と呼ばれるか。
- 北宋の第6代神宗の時代に新法と呼ばれる改革を行った人物は誰か。
- 契丹(遼)の太宗の治世に、後晋の建国を援助した代償として獲得した場所はどこか。
- 宋では世界初の紙幣といわれる手形が発行された。これを何と呼ぶか。
- 宋代の新興地主層は何と呼ばれたか。
- 新法のうち、中小農民に低利で銭穀を貸し付ける法は何法か。
- 1126~27年に徽宗や欽宗などの北宋の皇族が金によって連れ去られ、北宋は遷都と滅亡を余儀なくされた。この出来事を何というか。
- 宋の都開封と思われる都市の様子が描かれた張択端による作品は何というか。
- 907年、契丹を建国したのは誰か。
- 唐衰退後、10~11世紀ごろの日本では唐風文化に代わって独自の文化が形成された。これを何と呼ぶか。
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(解答)
- 後梁
- 王安石
- 燕雲十六州
- 公子、会子
- 形勢戸
- 青苗法
- 靖康の変
- 清明上河図
- 耶律阿保機
- 国風文化
→続きはこちら モンゴル帝国の形成と発展
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 東京国立博物館HP
- 最終閲覧日2020/8/17
- 世界の歴史まっぷ
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- 最終閲覧日2020/8/17
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こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。