今回は清朝の成立から最盛期までの時代、17,18世紀の中国について学習しましょう。中国東北部の女真の中で頭角をあらわしたヌルハチが樹立した後金から、次のホンタイジの時代に国号を変え、中国全土、そして東トルキスタンに及ぶほどの大国に発展した清王朝ですが、この王朝の特徴は何より、これまでに無いほど多様な民族を支配下に置いた国家であり、多文化的性格を持っていた所にあります。現代の中華人民共和国とほとんど変わらない広い領土を支配下に置いた清朝の皇帝は、それぞれの地域に対し、満州人のハン、モンゴルの大ハン、中国の皇帝、チベット仏教の保護者、イスラーム教の保護者としての多面的な顔を持っていました。そんな清ではどのような政治が行われ、どのように王朝を発展させていったのでしょうか。早速、見ていきましょう。
Contents
清朝の中国本土進出
満州政権の樹立と明朝の打倒
清朝は1644年に明を破って新たな中国王朝として勢力を広げることとなったが、清朝の前身となる満州政権、金(後金)が建国されたのは1616年のことである。遼東と呼ばれる中国東北部に位置する金は、女真族の中で頭角をあらわしたヌルハチ(太祖 位1616~26年)によって建てられたが、彼は女真を統一した後、自らの民族を「満州」と称して独自の政権を立ち上げた。ヌルハチは8つの集団からなる「八旗」という軍事組織の形成、満州文字の作成といった満州的な制度を整えて、ついに1616年にハン位についた。
その後、1631年に李自成の乱が発生してから44年に明の敗北に終わるまでの間に、ホンタイジ(太宗 位1626~43年)が国号を「清」と改め、ここに清朝が樹立した。李自成の乱が起こると、明の将軍呉三桂が李自成軍討伐のため、清朝に降伏して中国本土に招き入れ、清朝の北京占領に荷担したが、この功績により呉三桂ら漢人将軍は清朝支配の下、藩王として土地を封じられた。
中国本土の支配確立
李自成の乱の翌年、1645年にはすでに清朝の支配は中国のほぼ全土にまで広がっていたが、ホンタイジの子である順治帝(世祖 位1643~62年)の時代には、未だ反清勢力が各地に残っていた。明の皇族による反清運動の多くは清軍によって収められたが、海上貿易で利益を上げ、明の復興を掲げて清に対抗していた、鄭芝竜・鄭成功の鄭氏親子は清朝にとって厄介な敵対勢力であった。鄭氏は1661年、海商の競合であったオランダを駆逐して占領した台湾を拠点に清朝への抵抗を続けたが、1683年に清朝に降伏した。
また、中国国内では17世紀後半に三藩の乱(1673~81年)が発生した。中国南部に位置する、雲南の呉三桂、広東の尚可喜、福建の耿継茂という3人の藩王勢力が藩の廃止に抗議して挙兵したこの反乱は、9年間もの間中国国内を取り巻く大反乱となったが、1681年、康熙帝(聖祖 位1662~1722年)によって鎮められた。
〔康熙帝(1654~1722年)〕
このように台湾の鄭氏や三藩の乱など、17世紀後半にはまだ明の残存勢力が清を脅かしていたが、康熙帝の時代には三藩の乱も鎮圧され、これをもって中国での清朝支配が確立したということができる。康熙帝と、続く雍正帝、乾隆帝の3代の皇帝は清朝の最盛期を築き、中国には1世紀ほどの平和がもたらされた。
清朝の支配拡大
- 清露間の国境を巡る条約
- ネルチンスク条約(1689年)
中国での支配を確立した清朝を脅かす強国は北方のロシアであった。ロシアは16世紀後半から南下を進め、黒竜江にまで至ったが、北方地域で緊張状態にあった清露両国間ではネルチンスク条約(1689年)が康熙帝の時代に締結された。イエズス会宣教師の通訳によって調印されたこの条約では「アルグン川・外興安嶺を結ぶ線を国境線とすること」が取り決められたが、これは中国が初めて外国と対等の立場で結んだ条約として、歴史的に深い意義を持つ。また、この条約では現在の地図よりもかなり北寄りに国境が定められており、中国側は広い領土を手に入れることができた。 - キャフタ条約(1727年)
雍正帝の時代にはキャフタ条約が締結され、いまだ未定の地域の国境が改めて取り決められるとともに、国境地帯での通商に関する規定が定められた。
- ネルチンスク条約(1689年)
- 新疆の獲得
清とロシアの境目で勢力を保っていたオイラトの一部族であるジュンガルは両国の対立勢力として急速に成長していた。康熙帝のジュンガル遠征で清朝は一度勝利を収めたものの、清朝がジュンガル帝国を完全に滅亡させることができたのは1755年、乾隆帝の時代のことであった。乾隆帝はジュンガル帝国支配下であった東トルキスタンを「新疆(「新しい領土」の意)」と呼び、ここを新たな清朝の支配地域とした。ただし、モンゴル勢力の支配に関しては清朝がチベット仏教を手厚く保護していたことも大きく関係している。
清朝支配の特色
清代の統治制度
清は満州民族の王朝であるが、統治機構やその他諸制度については明の体制を踏襲している部分が大きい。中央・地方の統治機構はともに明代の君主独裁体制を引き継ぎつつ、雍正帝には中央の軍務機関として軍機処が置かれたが、これは次第に国政・軍政の最高機関となった。また、明代に続いて官吏登用法としては朱子学を基準とする科挙が行われた。たしかに、清朝の支配層は満州人からなる八旗が中心となったが、その一方で官吏登用の原則として定められた満漢併用制(満州人と漢人の中央官職の定員を同数とする制度)や、漢人のみの軍隊である緑営(緑旗)の編成など、漢人に対する懐柔策も取られた。
このように漢文化や漢人の受け入れに積極的だった清朝だが、その反対に反清思想や反満州的風俗の取り締まりは厳しく行われた。辮髪という満州風俗が漢人の男性に強制させられたことや、文字の獄や禁書令によって言論弾圧が行われたことはその代表である。
※文字の獄:
反清的・反満州的言論や出版が弾圧され、禁書とされること。こうした言論・思想統制は歴代中国王朝でも何度か行われたが、清朝では康熙帝・雍正帝の時代に始まり、乾隆帝の時代には厳しい取り締まりがピークに達した。
乾隆帝時代の支配領域
乾隆帝の時代に清は最大版図となった。その国土は現在の中華人民共和国の領土とほとんど変わらないが、この時代の領土は4つの種類に分けられる。
<乾隆帝時代の領土支配>
- 東北地域:満州政権発祥の地として特別行政地区に定められ、奉天には首都北京に準ずる行政機関が置かれた。
- 中国本土:中国本土の18州にはそれぞれに科挙官僚が派遣され、明と同様の地方官制がとられた。
- 藩部:内モンゴル、新疆、チベット、青海などの地域は理藩院の管轄となり、それぞれが固有の社会制度を維持した。モンゴルはモンゴル王侯、チベットはダライ=ラマ、新疆はウイグル人有力者である「ベグ」がそれぞれの地域の支配者となった。
- 朝貢国・互市国:朝鮮、琉球、東南アジア諸国など、中国との朝貢関係や貿易関係にあった国々は清朝の直接支配が及ぶことはなかったが、実質上の勢力下にあった。
〔清朝地図〕
(世界の歴史まっぷHPより)
清朝の皇帝は広範囲に及んで様々な民族を支配下に置くなかで、女真(満州人)のハンとしてだけでなく、モンゴルのハン、儒教を重んずる中華皇帝、チベット仏教の保護者、イスラーム教の保護者といった様々な側面を同時に持ち、他民族国家の支配を可能にした。こうした清朝の他文化的性格は、康熙帝がモンゴルの文化と接触しつつ、学問的には中国の伝統的な儒学を引き継いだことや、乾隆帝がチベット仏教を手厚く保護して河北省にチベット仏教寺院群を建設したり、漢文化愛好家として名を馳せたことからもよくわかる。
清代の社会と文化
多文化的性格
これまでも見てきたように、清朝は広範囲にわたる他民族国家であったが、清朝の皇帝は満州の伝統を保ちつつも、それぞれの地域の伝統的文化を重んじた。藩部においては特に文化や習俗面での寛容さが見られたが、統治システムや官吏登用法などを見ると中国王朝の伝統を継承する清朝の方針を伺うことができる。特に、学問分野においては中国の伝統を重んじる側面が強く、康熙帝は『康煕字典』と『古今図書集成』を、乾隆帝は『四庫全書』を編纂したことがよく知られている。
地丁銀制の導入と人口増加
地丁銀とは丁税(人頭税)を地税に繰り込んで一本化する税制のこと。明代の一条便法に代わって、康熙帝の時代に取り入れられた。これにより、従来のような人頭税が無くなったことで、中国の人口は急増した。清朝の中期には国政も安定して好景気となり、物価は上昇、穀物などの生産は活発になった。
清代の交易と華僑
清代には鄭氏への対抗策として海禁が行われていた時期以外は、民間の対外貿易が盛んであった。そうした中で、広東や、特に人口が圧迫していた福建などの地域では東南アジア華僑と呼ばれる人々が多く見られた。(※16世紀後半、明末ごろからこのような人々が見られるようになる。)彼らは清朝の規定を破って、当時盛んであった南洋貿易の拠点となっていたマニラやバタヴィア、ベトナム、タイなどの地域に移り住み、独自のネットワークを形成して海上交易の商業網を握った。人口増加が急激になると海外に移り住む中国人もさらに増え、1757年乾隆帝の治世にヨーロッパ船の来航が広州のみに制限され、広東十三行という特定の商人にしか貿易の自由が与えられなかった時代にも密航が絶えることはなかった。
その他学問や自然科学の発展
- 考証学の評価
- 代表的な文学作品
曹雪芹『紅楼夢』、呉敬梓『儒林外史』 - キリスト教宣教師の影響
ブーヴェ「皇輿全覧図」、カスティリオーネによる絵画や円明園の設計
〔カスティリオーネによる絵画『乾隆帝大閲像軸』〕
(世界の歴史まっぷHPより)
※1西洋の学問や文化が中国に流入する一方で、中国の学問や美術も西洋に伝わった。美術の面では17、8世紀ヨーロッパでシノワズリ(中国趣味)が流行した。
※2典礼問題:
清代には、イエズス会士によるキリスト教布教の方法を巡って論争が起きた。まず、イエズス会が中国の伝統文化を重んじ、中国人の風俗習慣を尊重しつつ布教を行っていることを教皇庁が問題視すると、以降、ローマ教皇はキリスト教信者の中国人による祖先祭祀などを認めない姿勢を取った。すると康熙帝はこれに対し、イエズス会以外の布教を禁止し、雍正帝の時代にはキリスト教の布教が全面的に禁止された。これ以来、中国でのキリスト教勢力は衰退することとなった。
確認問題
- 海禁政策の緩和とともに、東南アジアをはじめとする海外の都市に住み着くようになった中国人を何と呼ぶか。
- 1727年に雍正帝がロシアとの間で結んだ、国境の画定などを定める条約は何か。
- モンゴル、チベットの民族が信仰していた、ダライ・ラマを教主とする宗教は何か。
- 清代の中国におけるキリスト教布教方法をめぐって、カトリック内部で起きた論争を何というか。
- 第6代乾隆帝が、新たな支配地としてジュンガル部と回部を含む東トルキスタンにつけた名称は何か。
- 清朝は漢人男性に対し、満州の伝統的な髪形を強制した。この髪型を何と呼ぶか。
- 康熙帝時代に取り入れられた、丁税を地税に組み込んで一本化する新たな税制を何と呼ぶか。
- 清朝の官吏登用においては満州人と漢人が同数任命された。この制度を何というか。
- 清朝において最大の領土を獲得した際の皇帝は誰か。
- 後金の国号を「清(大清)」に改称した際の皇帝は誰か。
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(解答)
- 華僑
- キャプタ条約
- チベット仏教
- 典礼問題
- 新疆
- 辮髪
- 地丁銀
- 満漢併用制(満漢偶数官制)
- 乾隆帝
- ホンタイジ(太宗)
→続きはこちら 14世紀以降のトルコ・イラン世界の発展
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/9/14
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。