【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう③〜奈良・平安時代編〜

奈良時代、積極的に遣唐使を派遣し、唐の先進的な政治制度や文化を取り入れて行きました。更に、中国・唐から中央アジア間をつなげる、シルクロードの発達により、中央アジアやローマなどの工芸品等が唐に入ります。そしてそのような工芸品等が遣唐使を通し日本にも入ってきます。 

724年に即位した聖武天皇[i]は、仏教によって国を治めようと、積極的に仏教を取り入れました。聖武天皇の時代に栄えた天平文化を象徴する正倉院には、琵琶などインドや中央アジアの品物も数多くおさめられています。 

遣唐使は、朝鮮半島を統一した新羅を経由し、北側の登州から入り、唐の都・長安に入る北路を通っていました。しかし、新羅との関係が緊張、悪化したため、朝鮮半島を経由せず、南の揚州や明州から長安に入る南路をとるようになりました。北路と比べて危険な南路に変更し、造船技術も未熟なため遭難が増えました 

では、重要な遣唐使についてみていきましょう。 

遣唐使とかかわる人

吉備真備と玄昉

717年、吉備真備留学生として、玄昉学問僧として入唐します。735年(天平7年)帰国し、橘諸兄に起用されます。しかし、2人の起用をよく思わない藤原広嗣[ii]は、2人を討つ名目で挙兵しましたが、敗死します。玄昉は、745年に失脚しますが、吉備真備は751年に再び入唐し、帰国後右大臣になります。

阿倍仲麻呂

717年、吉備真備、玄昉とともに留学生として入唐します。仲満と名を改め玄宗[iii]に仕えます。鑑真に会い、日本に行くことをすすめます。詩歌に優れ、唐でも名をあげました。一方で、帰国することは叶わず、故郷を懐かしんで「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠んでいます。

鑑真

5回渡航に失敗し、失明を乗り越えて、753年に来日します。日本に律宗を伝えました。唐招提寺を開き、戒壇を設けて律宗の道場としました。

最澄

804年に入唐し、天台山で円・密・禅・戒などの教えを学び、翌年帰国します。806年に天台宗を開宗し、比叡山延暦寺を設立し、弟子の育成にあたりました。

空海

橘逸勢[iv]、最澄らとともに、804年に入唐。密教の伝授を受けて、真言密教を学びます。806年に帰国し、密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等を日本にもたらしました。816年に高野山を開き金剛峰寺を建立、東寺を与えられ、823年には東寺の別当として綜芸種智院を設立。弟子の育成にあたりました。また、三筆の一人であるとされ、自筆の書物も現存しています。『三教指帰』をはじめ、数多くの書物も著した。

遣唐使廃止へ 

飛鳥時代の聖徳太子[v]蘇我馬子[vi]らによる遣隋使からはじまり、奈良時代に入った630年に犬上御田鍬[vii]遣唐使として派遣されて以来20回の任務があり、16回渡航したといいます。しかし、平安時代にはいり、唐の治世が揺らぎはじめ、政治不安などを理由に菅原道真[viii]が894年に遣唐使の廃止を提言し、遣唐使廃止が決まりました。唐は907年に滅亡します。 

遣唐使廃止により、大陸の影響を強く受けていない国風文化が発展しました。かな文字など日本独自の文化が特徴です。 

【注】

[i] 701〜756 奈良時代の天皇(在位724〜749)文武天皇第1皇子。母は藤原不比等の娘宮子。皇后は藤原不比等の娘光明子(光明皇后)。積極的に唐の文物制度を採用するなどして国政を充実させた。一方,仏教をあつく信仰し,国分寺・東大寺大仏を創建し,天平文化をつくりだした。(旺文社『日本史事典』)

[ii] ?〜740 奈良時代の公卿。大宰少弐。式家の宇合 (うまかい) の長男。不比等の4子の死後,橘諸兄 (もろえ) が政権を握ると,大宰少弐(大宰府の次官)に左遷された。740年玄昉 (げんぼう) ・吉備真備 (きびのまきび) の排除を要求して北九州で乱をおこしたが,敗れて斬殺された。(旺文社『日本史事典』)

[iii] 685〜762 唐第6代皇帝(在位712〜756)名は隆基。中宗の皇后韋后 (いこう) 一派の専権を倒して父睿宗 (えいそう) を復位させ,のち28歳で譲位された。姚祟 (ようすう) ・宋璟 (そうえい) らの賢臣を用い,十節度使を設置,募兵制を採用した。農民生活の安定につとめたので産業も発展し,国都長安は繁栄した。その治世の前半を開元の治という。晩年は楊貴妃の女色に溺れ,李林甫・楊国忠・安禄山らを信任して政治を怠り,宮廷は乱れた。また,玄宗時代の繁栄は宮廷・貴族を中心としたので,窮乏農民が増し,節度使の勢力が強まった。その結果,755年安史の乱に遭い,翌年蜀に逃走の途中,子の粛宗 (しゆくそう) に譲位。757年長安に帰ったが,粛宗との関係が円満を欠き,道教に帰依しつつ不遇の晩年を送った。白楽天の「長恨歌」に歌われるなど,多くの文学作品にもとりあげられている。(旺文社『日本史事典』)

[iv] ?〜842 平安初期の貴族・能書家。奈良麻呂の孫。804年入唐。唐風の書をよくし,三筆の一人として有名。842年承和 (じようわ) の変に際し,皇太子恒貞親王を奉じて謀反をはかり捕らえられ,伊豆に流される途中,遠江 (とおとうみ) で病死した。(旺文社『日本史事典』)

[v] 574〜622 6〜7世紀の摂政・思想家。厩戸豊聡耳皇子 (うまやどのとよとみみのおうじ) ・上宮太子 (じようぐうたいし) ともいう。用明天皇第2皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。593年叔母推古天皇の摂政 (せつしよう) となり,蘇我馬子と協調して政治・外交・文化に活躍。603年冠位十二階,604年憲法十七条の制定,『天皇記』『国記』の編纂,607・608年小野妹子を隋に派遣して国交を開き大陸文化を摂取。また仏教興隆につとめ,四天王寺・法隆寺を建立し,『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』を著した。天皇を中心とする中央集権国家をめざしたその政治思想は大化の改新以降に結実した。(旺文社『日本史事典』)

[vi] ?〜626 6〜7世紀前期の大和政権の大臣。稲目の子。父のあとをうけ大臣 (おおおみ) となった。仏法を信仰し,排仏派の政敵物部守屋を587年滅ぼし専権をふるった。のちみずから擁立した崇峻天皇を殺害し,妹堅塩媛 (きたしひめ) の生んだ推古天皇を擁立,摂政の聖徳太子とともに政治を指導した。氏寺として法興寺を建立し,『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。(旺文社『日本史事典』)

[vii] 生没年不詳。7世紀前期の官人。614年最後の遣隋使として渡航,翌年帰国。630年舒明 (じよめい) 天皇の命で最初の遣唐使として渡唐。632年,学問僧旻 (みん) らと帰国した。(旺文社『日本史事典』)

[viii] 845〜903 平安前期の学者・右大臣。学者の家柄に生まれ,詩文にすぐれていたが,宇多・醍醐 (だいご) 両天皇の信任厚く,重用された。894年遣唐使停止を建議。蔵人頭 (くろうどのとう) から右大臣にまで登ったが,左大臣藤原時平の讒言 (ざんげん) にあって,901年大宰権帥 (だざいのごんのそつ) に左遷され,その地で死んだ。京都の北野天神に祭られ,後世学問の神として全国的に信仰された。『類聚国史』を編纂。『日本三代実録』の編修にも参加し,漢詩文集『菅家文草』『菅家後集』がある。(旺文社『日本史事典』)

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