【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう②〜飛鳥時代・遣隋使編〜 

日本と地理的に近い朝鮮半島は、歴史的にもつながりがありました。今回は日本と中国・朝鮮半島の交流史について、飛鳥時代遣隋使編についてみていきましょう。 

遣隋使

5世紀の倭の五王の遣使以降、中国との外交は途絶えていました。しかし、6世紀の飛鳥時代になると、推古天皇[i]に代わって政治の実権をにぎっていた聖徳太子蘇我氏は、中国との外交を再開しようとします。その背景には朝鮮半島の情勢も影響していました。朝鮮半島では、百済、高句麗、新羅、伽耶の4国で争いが続いていました。 

607年、聖徳太子は小野妹子[ii]らを遣隋使として派遣します。その際、「日出づる処の天子、書を日没づる処の天子に致す、云々……」と、記した書を隋の煬帝[iii]に送ります。対等な関係で外交を行う狙いで倭国の大王を“日出づる処の天子”と名乗ったことに煬帝は気分を害します。しかし、対戦中の高句麗と倭国が結びつくのを避けるため、遣隋使と共に裴世清[iv]を国使として倭国に遣わします。 

その後も聖徳太子と蘇我氏らは、僧や留学生を遣隋使を派遣し、大陸の進んだ知識を積極的に取り入れようとします。隋が滅び、唐になっても派遣は続きます。 

朝鮮半島との争い

655年、高句麗と百済が連合し、新羅に侵攻します。新羅は唐に助けを求め、唐は660年百済を滅ぼします。当時の天皇である斉明天皇[v]と中大兄皇子[vi]は、百済復興の手助けをすることで朝鮮半島における倭国の影響力を得ようと考えました。 

662年に大軍を派遣し、663年に白村江の戦いにおいて、倭軍は新羅・唐の連合軍に大敗します。大敗したことをきっかけに、中大兄皇子は国土の防衛に力を入れ、九州に防人[vii]をおき、筑紫に水城[viii]を築きます。そのほか各地に山城[ix]を築き、大陸からの侵攻に備えました。 

【注】

[i] 554〜628 6〜7世紀前期の女帝(在位592〜628)欽明天皇の皇女,母は蘇我稲目の娘堅塩媛 (きたしひめ) 。敏達 (びたつ) 天皇の皇后となり,592年崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されたのち最初の女帝として即位。甥の聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行った。その治世には冠位十二階,憲法十七条,国史の編纂,法隆寺の建立などがあり,文化史上飛鳥時代と呼ばれる一時代を築いた。(旺文社『日本史事典』)

[ii] 生没年不詳。7世紀の官人で,2度派遣された遣隋使。近江滋賀郡小野の豪族。607年聖徳太子の派遣した遣隋使として隋におもむき,「日出づる処の天子……」に始まる国書を呈し,隋の煬帝 (ようだい) の怒りをかった。608年隋使裴世清 (はいせいせい) を伴って帰国した。同年裴世清の帰国に際し高向玄理 (たかむこのげんり) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) ・僧旻 (みん) らの留学生・学問僧を伴って再び隋に渡り,翌年帰国した。(旺文社『日本史事典』)

[iii] 569〜618 隋の第2代皇帝(在位604〜618)名は広。父文帝を殺して即位し,洛陽 (らくよう) に東都を建設した。100余万人を徴発して南北を結ぶ大運河を開き,物資や軍隊の輸送の便をはかった。対外的には積極策をとり,突厥 (とつけつ) に備えて万里の長城の修築を行い,西方に対しては吐谷渾 (とよくこん) を討って青海を併せ,さらに進んで西域への道を開いた。南方では林邑 (りんゆう) を討ち,琉球(台湾)にも軍を送った。しかし,3回にわたる高句麗 (こうくり) 討伐の失敗は,大土木工事とあいまって隋滅亡の因となり,江都(揚州)で禁軍兵士によって暗殺された。(旺文社『日本史事典』)

[iv] 六世紀末から七世紀の中国隋の使者。推古天皇一六年(六〇八)に答使として第一回遣隋使の小野妹子らを送って来日し、第二回遣隋使とともに帰国した。生没年未詳。(『日本国語大辞典』)

[v] 第三七代の天皇。皇極天皇の重祚(ちょうそ)。舒明天皇の皇后。孝徳天皇の死後、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で即位。翌年後飛鳥岡本宮に遷都。在位七年。推古天皇二~斉明七年(五九四‐六六一)(『日本国語大辞典』)

[vi] 626〜671 7世紀後期の天皇(在位668〜671)舒明 (じよめい) 天皇第2皇子。母は皇極(斉明)天皇。葛城皇子・中大兄 (なかのおおえ) 皇子と称した。中臣(藤原)鎌足とはかり,645年蘇我氏を倒し,孝徳・斉明天皇の皇太子として大化の改新政治を指導。この間百済 (くだら) 救援につとめたが,唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に白村江 (はくそんこう) の戦い(663)で敗れ,国防を強化した。斉明天皇死後も皇太子のまま政治を行った(称制)が,都を近江の大津宮に移し,668年正式に即位。近江令の制定や最古の戸籍庚午年籍 (こうごねんじやく) の作成など内政整備に尽くした。晩年,子の大友皇子を後継者とした。(旺文社『日本史事典』)

[vii] 律令制において,九州警備に配置された兵士。諸国軍団の兵士から選び,兵部省の支配下に属し,現地では大宰府の管轄下に入った。3年交替で勤務。装備・往復食糧は自弁であった。730年東国兵士に限るようになり,10世紀前半まで続いた。『万葉集』におさめられた防人の歌は有名である。(旺文社『日本史事典』)

[viii] 7世紀,大化の改新政府が筑紫国に設けた堤。663年の白村江 (はくそんこう) の戦いに敗れた翌年,唐・新羅 (しらぎ) の来攻に備え,大宰府の北部に設けた。全長約1㎞で,水をたたえた。現在,遺跡が福岡県太宰府市から大野城市にわたって残存する。(旺文社『日本史事典』)

[ix] 山地を利用して山頂・山腹に築かれた城。古代の辺境の防塞で九州の神籠石 (こうごいし) ・大野城など。中世では,武士が戦時の拠点として用い,楠木正成の千早城・赤坂城などが有名。16世紀前期の鉄砲の伝来により戦術などが変化し,平城が一般化するとともにほとんど築かれなくなった。(旺文社『日本史事典』)

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