歴史問題読解〜古代から中世初期の天皇史〜[中学受験社会過去問解説シリーズ]

今回は2020年度の城西川越中学校の社会の過去問を一部修正して社会の問題の解き方、歴史問題の解き方、天皇史について説明していきたいと思います。 

問題(前半部分)

次の天皇に関する文章を読んで、後の問いに答えなさい。 

崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されて、日本最初の女帝【 A 】が擁立された。女帝が必要とされた理由の一つとして、皇位をめぐる男たちの争いが激しいことが挙げられる。古代では、天皇や皇族が暗殺されることは珍しくなく、①天智天皇(即位時は中大兄皇子)は②大化の改新における蘇我入鹿をはじめとして、多くの政敵を暗殺した。 

問1

【 A 】に当てはまる天皇を答えなさい 

  • 【解答】推古天皇
    日本最初の女帝は推古天皇です。女帝とは女性の天皇のことをさし、卑弥呼は天皇ではないため当てはまりません。皇位争いの結果、擁立された推古天皇ですが、聖徳太子摂政(天皇の代わりに政治を行う人)となり、実質政治を行っていたのは聖徳太子豪族の蘇我氏でした。 

問2

下線部①に関して、天智天皇が行った政策として、最も適当なものを1つ選び、記号で答えなさい。 

  • ア、小野妹子を遣隋使として派遣した。
  • イ、初めて全国的な戸籍を作成して改新政治を進めた。
  • ウ、大宝律令を制定して律令政治を確立した。
  • エ、本格的な都となる藤原京に遷都した。
  • 【解答】イ、初めて全国的な戸籍を作成して改新政治を進めた。
    それぞれの選択肢について解説していきます。

    • ア、小野妹子を遣隋使として派遣した。
      推古天皇の時代に聖徳太子が行ったことです。小野妹子初の遣隋使として知られ、以降様々な僧や官人が隋に渡りました。
    • ウ、大宝律令を制定して律令政治を確立した。
      持統上皇・文武天皇の命令で刑部親王・藤原不比等をはじめとした文人らが中心となって編纂した律令国家の基本法典
    • エ、本格的な都となる藤原京に遷都した。
      ⇨天武天皇の後に即位した持統天皇の代の694年に藤原京に遷都しています。

問3

下線部②に関して、大化の改新に関する史料として最も適当なものを1つ選び、記号で答えなさい。 

  • ア、日出づる処の天子が手紙を日没する処の天子に送る。
  • イ、和を尊び、争いごとがないようにしなさい。
  • ウ、邪馬台国の女王卑弥呼はまじないを用いて、弟の助けも受け政治を行った。
  • エ、天皇や皇族の私有地、豪族が持つ私有民や私有地を廃止しなさい。
  • 【解答】エ、天皇や皇族の私有地、豪族が持つ私有民や私有地を廃止しなさい。

<大化の改新とは?>

まずは大化の改新についておさえておきましょう。

大化の改新とは、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって皇極天皇のもと権威をふるっていた蘇我氏を暗殺した乙巳の変から始まり、天皇中心の律令国家を作ろうとする改新です。 

主な改新の内容としては以下の2つがよくあげられます。 

  • 公地公民制…皇族・豪族が所有していた私有地を廃止し、国が直接支配する制度
    (選択肢「エ、天皇や皇族の私有地、豪族が持つ私有民や私有地を廃止しなさい。」の内容)
  • 班田収授法…戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田を与え、亡くなると国に返す制度。 

それぞれの選択肢について解説していきます。 

  • ア、日出づる処の天子が手紙を日没する処の天子に送る。
    聖徳太子遣隋使を派遣する際に、隋と対等に貿易を行おうと隋の天子に送った手紙です。
  • イ、和を尊び、争いごとがないようにしなさい。
    聖徳太子が制定した十七条の憲法の第一条の内容です。
  • ウ、邪馬台国の女王卑弥呼はまじないを用いて、弟の助けも受け政治を行った
    邪馬台国の女王卑弥呼の話なので時代が異なります。

問題(後半部分)

奈良時代の激しい政争の末に、光仁天皇が即位し皇統が天智系に移った。これは③壬申の乱が、約百年かけて天智系の勝利で決着したことを示すものである。光仁天皇と百済の王の子孫である高野新笠との間に男子が生まれ、のちに即位し【 B 】となった。【 B 】は千年の都となる平安京を建て、④朝廷の支配に抵抗する蝦夷をおさえる政策を行った人物である。 

問4

【 B 】に当てはまる天皇を答えなさい 

  • 【解答】桓武天皇
    平安京を建てたというところが大きなヒントです

問5

下線部③に関して、壬申の乱に関する史料として、最も適当なものを1つ選び、記号で答えなさい。 

  • ア、みな心を一つにして聞いてほしい。なき頼朝殿から受けた恩は山より高く海より深い。
  • イ、長門国の壇ノ浦で戦いを挑んだ時、時子は安徳天皇を胸に抱き海に飛び込んだ。
  • ウ、天武天皇方の軍勢は瀬田川に至り、大友皇子のその家来達は橋の西に大軍の陣をはった。
  • エ、鳥羽天皇が亡くなると、日本国の乱逆がおこり、その後武士の世となった。
  • 【解答】ウ
    それぞれの選択肢について解説していきます。 

ア、みな心を一つにして聞いてほしい。なき頼朝殿から受けた恩は山より高く海より深い。
頼朝殿と言っているようにこれは鎌倉時代です。源頼朝亡き後にその妻である北条政子が御家人らを鼓舞するために言った有名な演説の一部です。この後承久の乱[i]に発展していきます。

イ、長門国の壇ノ浦で戦いを挑んだ時、時子は安徳天皇を胸に抱き海に飛び込んだ。
壇ノ浦の戦いは平安末期の1185年の出来事です。この戦いで平家が滅亡し、鎌倉時代へと移って行きます。(最近では鎌倉時代の開始を1192年ではなく、1185年とする説も有力となっています)

エ、鳥羽天皇が亡くなると、日本国の乱逆がおこり、その後武士の世となった。
⇨日本国の乱逆という名称に聞き馴染みのない方が多いかと思いますが、これは1156年に勃発した保元の乱ことです。(愚管抄で僧慈円(藤原忠通の子)が命名した呼び方ですが、入試で問われることは少ないので、覚えなくても大丈夫です)この戦いで勝利した天皇陣営は上天陣営を処罰し、重要な戦果を上げた武士の発言力が高まりました。

[i]承久の乱とは…鎌倉幕府三代将軍・源実朝が暗殺され、混乱に陥っている鎌倉幕府に対し、朝廷が再び実権を握るため後鳥羽上皇が起こした兵乱。鎌倉幕府の執権北条義時率いる幕府の兵に敗れます。 

問6

下線部④に関して、蝦夷をおさえるため、征夷大将軍に任命され、東北地方に派遣された人物として、適当なものを1つ選び、記号で答えなさい。 

  • ア、坂上田村麻呂
  • イ、阿弖流為
  • ウ、源頼朝
  • エ、平将門
  • 【解答】ア
    そもそも征夷大将軍とは、蝦夷征伐のために編成された征夷軍の総大将をさしていましたが、寿永3年(1184)に木曾義仲が任命されて以降、政権を掌握する武士の大将につけられるようになりました。この問題では蝦夷征伐のために任命された人をさしています。よってア、坂上田村麻呂が正解になります。
    それぞれの選択肢について解説していきます。

    • イ、阿弖流為)は蝦夷の族長です。征夷軍を幾度か派遣し長きに渡り戦っていましたが、坂上田村麻呂が征夷大将軍に派遣された際の戦いで降伏しました。
    • ウ、源頼朝)は源平の騒乱の後鎌倉幕府を開き、征夷大将軍となりました。しかし、東北に派遣されてはいません。
    • エ、平将門)は征夷大将軍に任命されていません。しかし、征夷大将軍に任命された藤原忠文が蝦夷討伐ではなく、平将門討伐に任命されています。 

まとめ

その時代の天皇を中心に行った政治について問われる問題でした。出てきた天皇は日本の歴史においておさえておきたい天皇です。特に古代から平安時代は天皇及び朝廷が政治の中心にあります。文化や政治と共に関連する天皇も覚えておきましょう。 

また、政治の中心が武士に移った鎌倉時代以降も重要な天皇や事柄は出てくるので合わせて注目しておきましょう。特に南北朝時代などは武士と天皇の関係性をきちんとおさえましょう。 

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