平安時代中期までは貴族中心の政治が行われてきました。文化も、貴族文化ですよね。しかし、平安時代後期は、政治の主導権が貴族から武士に移っていく、非常に重要な時期なのです。政治の中心が変われば、文化なども変わっていきます。
歴史では、テキストも各時代ごとにまとめられており、時代別の知識をまず覚えることから始めます。ですが、以前明治維新の時代をご紹介したように、時代と時代の間に、政治を中心にして大きく変革する時期があるのです。時代ごとだけの知識では理解しきれない、変化の時代の一つ、武家政治が始まった平安時代後期以降について、今回はその1をお届けします。
そもそも武士はどのように誕生したのか
貴族と武士、どのようなイメージを持ちますか?服装から始まってかなり違いますよね。でも、そういった変化というのは、いきなり起こるわけではありません。貴族がいきなり武士に変わったわけではないのです。
平安時代後期は、華やかな貴族文化が栄える一方で、「自分の身は自分で守る」という、自力救済の時代でした。そのような傾向が進み、やがて地方では反乱が続発するようになっていきます。
反乱の制圧のために朝廷から遣わされたのが、都の下級貴族や地方の有力者です。その人々は、反乱鎮圧のために地方に向かい、そのまま残って土地を耕し、兵力を蓄えていくようになるのです。また、彼らは「国司」と呼ばれる、現在の知事のような立場の人たちに使えたり、警察のような仕事に携わったりしました。都では、貴族たちの警備をはじめ、都の治安を守る仕事をしていたのです。
そんな中で、武士が政治の舞台に登場するきっかけとなる出来事がありました。
承平・天慶の乱
承平・天慶の乱、読み方は分かりますか?「じょうへいてんぎょうのらん」と読みます。これは、人名は皆さんご存知だと思いますが、関東で起こった平将門の乱と、瀬戸内海で起こった藤原純友の乱を総称して呼ばれる反乱のことです。
935年に、東国の平将門が反乱を起こします。東国から次々に国司を追い出した平将門は、「新皇」を名乗り、支配者になろうとしたのです。一時は、関東の大部分を支配するまでに勢力を拡大しました。
同じころ、藤原純友の乱がおこります。彼はもともと伊予の国(愛媛県のあたりですね)の国司としてそもそもは海賊討伐にあたっていたのですが、任期後、瀬戸内海の海賊を束ね、ついに939年に反乱を起こします。淡路、讃岐などの国府を襲い、大宰府を焼き払うまでになってしまいました。この2つの乱を併せて承平・天慶の乱というわけです。
結局、平将門は藤原秀郷と平貞盛が、藤原純友は源経基が鎮圧します。いずれも、武士が鎮圧したのです。この2つの乱により、朝廷・貴族の力の低下と地方の武士の成長が明らかになってきたのです。この事件により、政治の舞台では、武士の存在感が増していきます。
武士団の形成
戦いを繰り返した武士は、やがて武士団を形成します。強力な武士が、他の武士をどんどん統合していきました。武士団の統率者を「武士の棟梁(とうりょう)」と言います。その中で11世紀に登場した有力な一派が、(清和)源氏と、(桓武)平氏でした。
1051年に、前九年の役という戦いが起こります。東北地方の陸奥で安倍氏が反乱を起こしたのですが、源頼義が鎮圧しました。また、1083年の後三年の役では、奥州で清原氏という豪族の後継者争いを源義家が鎮圧しました。この一連の戦いで源氏は東国武士団との結びつきを強め、勢力を伸ばしていきます。源義家に味方した藤原秀衡は、このあと平泉を拠点とした奥州藤原氏の栄華の基盤を築きます。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡の3代にわたり、繁栄の時を迎えるのです。
一方、平氏はというと、出雲の源義親の乱を平正盛が鎮圧し、その子平忠盛は西国の海賊を討伐します。西国の国司を歴任して、瀬戸内海地方に勢力を伸ばしていくことになりました。また、院、すなわち上皇とも結びつきを強め、朝廷内での立場を築きます。
清和源氏は東国で、桓武平氏は朝廷で力を伸ばす、という構図が出来上がったわけです。
今回のまとめ
貴族から武士に力が移っていく過程を、歴史上の出来事を通して説明してきました。源氏と平氏という二大勢力ができた経緯については、できこれからの武家政治に大きな影響を与える重要事項ですので、それまでに起こった出来事とともにしっかり押さえておきましょう。
次の機会に、さらに武士が力を増していく過程について書いていきたいと思います。
<関連記事>
一橋大学卒。
中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、早稲田アカデミーにて長く教育業界に携わる。
得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。
現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。