今回は古代ローマ世界誕生からの流れを確認しましょう。まずは、「古代ローマの社会がどんな政治のしくみを持っていたのか」を理解し、その上で一つ一つの出来事の因果関係を整理しながら学習を進めましょう。
それでは、見ていきましょう!
共和政ローマの成立とローマの危機
Contents
ローマ共和政
古代ローマ世界の誕生
ローマは、イタリア人の南下に伴い、イタリア半島の中央ティレニア海沿岸に定着したラテン人の集落が発展して形成された。その文化はイタリア半島の原住民エトルリア人から多くを引き継いでおり、非常に高度なものであったとされている。
当初ローマは、ラテン人の形成するティベル川流域にある集落におけるエトルリア人の王を持つ部族国家として始まったが、そこでは人々の間に貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の身分差があった。のちにエトルリア人の王が追放されるとローマは貴族共和政へと移行した。
共和政ローマ
初めは、平民にはローマの政治を担う権限がほとんど与えられず、貴族によって独占されていた。軍民の最高官である任期1年の執政官(コンスル)は貴族の中から選挙で2名選ばれ、貴族の議会、元老院(セナ―トゥス)がコンスルの監督権を持ち、実質的な権力を握っていた。
〔共和政ローマの仕組み〕
しかし、平民も重装歩兵として国防に参加するようになると平民は貴族に対して身分闘争を起こした。
<ローマ共和政における平民の権限の拡大>
前5世紀前半 |
護民官と平民会の設置
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前5世紀半ば |
十二表法制定 |
前367年 |
リキニウス・セクスティウス法
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前287年 |
ホルテンシウス法
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ホルテンシウス法の制定をもって平民と貴族の間の身分闘争は一度収まったが、このころには、富裕な平民が新貴族(ノビレス)という新たな支配階層となり、政権に参加するようになっていた。また、大きな独裁権を行使できる独裁官も置かれていたため、ローマはアテネのような民主政を築くには至らなかった。
地中海への進出
植民市の建設とポエニ戦争
ローマの指導者たちは支配の拡大に積極的であり、前3世紀には全イタリア半島を支配下に置いていた。さらに軍事技術にも優れていたローマは、軍道(※ローマとブルンディシウムを結ぶ舗装道路、アッピア街道が有名。)や植民市の建設も結局的に行い、侵略の過程で征服した土地に対しては、分割統治と呼ばれる強力な支配をしいた。
分割統治とは、各都市と個別に同盟を結び、それぞれ異なる権利と義務を与える仕組みであり、その待遇の差は、ローマ市民権の付与や同盟者の地位の付与など様々であった。分割統治は被支配者の団結を防ぎ、ローマに協力させるのに効果的な施策であった。
〔アッピア街道〕
そうした地中海進出の中でローマは、シチリアのフェニキア人植民市カルタゴの勢力と衝突し、3度に及ぶポエニ戦争が勃発した。
<ポエニ戦争の流れ>
第1回ポエニ戦争
ローマはシチリアの領土を得て、属州化する。
※属州…イタリア半島以外のローマの征服地。シチリアには総督が送られ、税が徴収された。
第2回ポエニ戦争
ローマの大スキピオが、反撃してきたカルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破ってローマの勝利に終わる。
第3回ポエニ戦争
カルタゴ滅亡
ローマはポエニ戦争で勝利を収めるが、このころから侵略的姿勢を強め、ローマの地中海侵略は「ローマの帝国主義」と称されることもある。ローマはこうした地中海への進出により強大化し、社会を発展させてきたが、一方でローマ市民の階級差は広がり、社会は混乱へと向かっていった。
〔ローマの領地拡大〕
(世界の地図まっぷより)
地中海進出後のローマ社会
- ラティフンディアの形成
ローマが他地域との戦争や属州統治で勢力を拡大してゆくと、軍事指揮をする元老院や商人・資本家として活躍した上層市民であった騎士階層の人々は大きな富を得ることとなった。彼らは貧しい人から土地を買い占めて大土地経営を始めるのであるが、そこでは奴隷を投入して集団で商品作物を生産させた。このような領地のことをラティフンディアと呼ぶ。 - 中小農民階層の没落
一方で、長期の征服戦争に従軍したイタリアの中小農民は農地の荒廃により無産市民と化し、彼らの多くはローマへと流れ込んでいった。ローマにて、市民権は持たないが民会の投票権を持っていた彼らを取り込むため、政治家たちは彼らに金品を与える、ショーを開催するなどの支援を行った。この支援のことを「パンとサーカス」と呼ぶ。
ローマの征服戦争は、こうした市民間の階級差の拡大をもたらした。そうした中で、ローマの有力者の中では、元老院を中心とした伝統的支配を重んじる閥族派と平民の権利の拡大を目指す平民派の対立が見られるようになり、ローマ社会は危機的状態となっていた。
内乱の1世紀
ローマの社会的危機
- グラックス兄弟の改革
平民派のグラックス兄弟は、こうしたローマの危機的状況を打開しようとした。兄ティベリウスは前133年に護民官に選出されるとリキニウス・セクスティウス法を適用し、大土地諸州者の土地を没収して無産市民への土地配分を試みるが、元老院からの反発を受け失敗し、殺害された。弟も兄の遺志を継ぎ改革を企てるが失敗に終わり死去した。これ以降、ローマは約100年間の内乱状態「内乱の1世紀」を経験することとなる。 - ローマの内乱
下層平民出身の将軍マリウスはアフリカのヌミディア王ユグルタを破り、彼は自身の私兵を用いて権力を増強させていった。しかし、元老院や共和政ローマはマリウスの独裁を恐れており、彼に対抗した閥族派のスラとマリウスは互いに争った。
さらに、ローマ侵略戦争に参加させられていたイタリアの同盟都市は、ローマ市民権を求めて反乱を起こした(同盟市戦争)。また見世物に使われ、ローマの奴隷の中でも最も悲惨な境遇に置かれていた剣闘士(剣奴)たちは剣闘士スパルタクスに率いられて大反乱を起こした。
混乱の収束
スパルタクスの反乱で内乱状態は最悪となったが、次第にこの反乱を収めたポンペイウスやクラッスス、平民派の軍人ユリウス=カエサルらが台頭するようになる。元老院らからの反発を受け、前60年に彼らは密約を結び第1回三頭政治を行う。
<三頭政治>
- 前60年 第1回三頭政治[ポンペイウス・クラッスス、カエサル]
カエサルはガリア遠征を経て指導権を獲得し、後に敵となったポンペイウスを破ってローマを平定すると、任期10年の独裁官の地位について独裁政治を布いた。その後、終身の独裁官となると、カエサルの独裁に反発するカッシウスやブルートゥスらによって暗殺される。後に、ブルートゥスはカエサル派のアントニウスによって追放されるが、再びローマ社会は混乱。
〔ガイウス=ユリウス=カエサル〕
(世界の地図まっぷより)
カエサルが暗殺されると、民衆は彼の死を非常に悲しんだ。カエサルの存在はローマの人々の中で神格化され、アントニウスはそれを利用して彼を暗殺したブルートゥスを追放に追いやった。
- 前43年 第2回三頭政治[アントニウス・レピドゥス・オクタウィアヌス]
これによって平和はもたらされることはなく、混乱が続く。オクタウィアヌスは前31年のアクティウムの海戦で、プトレマイオス朝の女王クレオパトラ(7世)と組んだアントニヌスを負かし、プトレマイオス朝が敗れる。
プトレマイオス朝の滅亡により地中海は平定され、ローマの内乱も終わりを告げた。第2回三頭政治で大きな権力を手にしたオクタウィアヌスはアウグストゥス(尊厳者)としてその後大帝国となってゆくローマ帝国を収めることとなる。
→続きはこちら 古代ローマの繁栄とキリスト教の成立
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2009年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/1/31
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。