江戸幕府初めは、諸外国と対外貿易を行なっていましたが、キリスト教の布教は禁じていました。しかし、厳しいキリスト教への弾圧に対し、天草四郎[i]を中心とした島原の乱が起こり、幕府はキリスト教に対する危機感を強めました。
その結果、嘉永6年(1853年)にペリー[ii]が浦賀に来航するまでオランダと中国とのみ貿易を行う鎖国体制となりました。今回は幕府の禁教対策とともに鎖国までの流れをおさえていきたいと思います。
鎖国の歩み
外交
オランダやイギリスは東インド会社を設立し、アジアへの進出をはかっていました。1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着。徳川家康は諸外国との外交に積極的で、1604年に糸割符制度を設けました。
【補足】糸割符制度とは?
糸割符仲間と呼ばれる特定の商人が輸入生糸を価格を設定して一括購入し、仲間に分配する制度のこと。京都・堺・長崎・江戸・大坂の五ヶ所商人に専売特権があった。
1609年(慶長14年)にオランダ、1613年(慶長18年)にイギリスが平戸に商館を開くことを許可されました。しかし、イギリスはオランダとのアジアの政権争いに敗れ、1623年(元和9年)に平戸の商館を閉鎖して撤退しました。スペイン・ポルトガルは江戸時代以前の安土桃山時代から日本と交流がありました。
また、日本の海外渡航においては朱印状を与えた朱印船のみ渡航を許可しました。渡航した人々の中にはアジアの各地に日本町(にほんまち)を形成し、独自の自治制を築いたりもしました。
禁教、鎖国へ
1612年(慶長17年)に幕府の直轄領に対し禁教令を発令し、翌年全国に禁教令を広げ、キリスト教を信仰することを禁じました。1614年(慶長19年)に高山右近[iii]をはじめとした300人あまりをマニラとマカオに追放し、1622年(元和8年)には長崎で55名の宣教師や信徒らを処刑しました、これを元和の大殉教といいます。
更に幕府は朱印状のほか老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁じ、渡航していた在外日本人の帰国も禁じました。また、島原の乱の影響もあり、幕府はキリスト教に対する危機感を募らせ、ヨーロッパ諸国との貿易を禁止し、唯一オランダだけが残りました。オランダのほかには中国とも外交を続け、1641年(寛永18年)平戸にあったオランダの商館を長崎の出島に移し、貿易を長崎に統一し監視下におき、鎖国の状態となりました。
島原の乱
島原の乱とは1837年(寛永14年)から翌年にかけて島原・天草で起こった、天草四郎(益田時貞)を首領とした百姓一揆です。飢饉の中、島原領主松倉重政や天草領主寺沢広高が飢饉の中農民に対し過酷な年貢を課し、キリスト教徒への弾圧を厳しくしたことに対し農民らが反発し、一揆へと発展しました。
もともと島原・天草はキリシタン大名であった有馬晴信と小西行長の領地でキリスト教徒も多くいました。一揆を起こした総勢3万人ほどの農民らは原城跡に立てこもりました。幕府も兵を派遣し原城跡を包囲し兵糧攻めにしました。
島原の乱後キリスト教徒らに対する警戒を強めた幕府は徹底的に信徒や隠れて信仰する隠れキリシタンを見つけるためイエス像やマリア像を表面に彫った真鍮制の踏み絵を踏ませ信徒を見つけようとしました。(絵踏)
【補足】
遠藤周作の小説『沈黙』では幕府による厳しい弾圧に晒される宣教師の内面を描いています。同小説はハリウッドでも『沈黙 サイレンス』として映画化されました。
参考:遠藤周作『沈黙』
まとめ
1604 |
糸割符制度を設ける |
1609 |
オランダ人に通商許可 |
1612 |
幕府直轄領に禁教令 |
1613 |
イギリス人に通商許可。全国に禁教令 |
1614 |
高山右近ら300人余りを海外に追放 |
1616 |
中国船を除く外国船の来航を平戸・長崎に制限 |
1622 |
元和の大殉教 |
1623 |
イギリス、オランダとの競争に敗れ平戸商館を閉鎖して退去 |
1624 |
スペイン船の来航を禁止 |
1631 |
奉書船制度始まる |
1633 |
奉書船以外の海外渡航禁止 |
1634 |
海外との往来や通商を制限 |
1635 |
日本人の海外渡航および帰国を前面禁止 |
1637(〜38) |
島原の乱 |
1639 |
ポルトガル船の来航を禁止 |
1641 |
オランダ商館を出島に移す |
[註]
- [i]江戸初期、島原の乱に首領として活躍した少年。俗に天草四郎。父は小西行長の遺臣益田甚兵衛好次という。島原・天草の浪人や農民とともに原城にたてこもり、寛永一四年(一六三七)から翌年にわたり幕府軍に抗戦した。元和九頃~寛永一五年(一六二三頃‐三八)(小学館『日本国語大辞典』)
- [ii](Matthew Calbraith Perry マシュー=カルブレイス━) アメリカの海軍提督。東インド艦隊司令長官として嘉永六年(一八五三)六月、浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出して開国を迫り、翌年再度来日、日米和親条約を結んだ。著書「日本遠征記」。(一七九四‐一八五八)(小学館『日本国語大辞典』)
- [iii]1552〜1615 安土桃山〜江戸時代初期のキリシタン大名 1563年受洗し,洗礼名をジュストといった。’73年摂津(大阪府)高槻城主。荒木村重,織田信長,豊臣秀吉に仕え,’85年明石城主となった。’87年バテレン追放令後も信仰を守り改易され,前田利家に寄食,1614年江戸幕府の禁教令でマニラに追放され,同地で病死した。また千利休の高弟で,茶人としても著名。(旺文社『日本史事典』)
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