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古墳時代をより深く学ぼう!!
ここまで、古墳の様子と世界(東アジア地域)との関わりというワイドな視点で古墳時代を見てきました。
この章ではよりミクロな視点で、古墳時代に誕生したヤマト政権は具体的にどのような支配体制を取りながら、古墳を作り、また朝鮮半島に進出していったのかということと、古墳時代の民衆たちはどのような道具を使ってどのように生計を立て、どのような考え方をもって生活していたのかということの2点から古墳時代をもう一度、捉えなおしていきたいと思います。
ヤマト政権はいつ生まれたの??
3世紀の後半から4世紀の日本の状況について書かれている歴史書が現在存在しないことから、ヤマト政権がいつどのようにして誕生したのかはわかっていません。
しかし少なくとも4世紀の中ごろまでには、畿内から中部地方・西日本に至る地域を統一していたといわれています。そのことは、古墳がそうした地域にまで幅広く広がっていることからわかっています。
これだけ広大な地域を支配下におさめるためには、政治システムがしっかりと構築されていないとできません。
現在でも日本全国が統治されているのは、国会や内閣といった中央政府に政治権力をすべて集中させる中央集権のシステムがしっかりと構築されているからです。
では、ヤマト政権はどのようなシステムで日本全国を支配していたのでしょうか。
ヤマト政権はどんな政治体制をとっていたの??
ヤマト政権の特徴は、大王と地方豪族による連合政権であるという点です。イメージとしては現在のアメリカ合衆国のような連邦制です。
各地方の豪族たちは政治権力を保ちながら、大王がその全体を統括するトップとして君臨し、大王と豪族が共同して政治を行っていくという政治体制です。すなわち大王と豪族による連合政権です。
この連合政権をうまく円滑に機能させていくために、大王家が各地方や中央の豪族たちをその支配下に組み入れて行う政治を行っていきました。
このような制度を氏姓制度といいます。
氏姓制度を具体的に説明いたしますと、「氏」というのは現在の名字のようなもので、豪族たちが他の地方の豪族と区別をつけるために、朝廷から与えられました。
ちなみに名字が一般的に使われるようになるのは明治維新以降で、それまで名字を持てることは支配者階級の特権だと考えられていたのですよ。
古墳時代も名字を名乗れるのは朝廷に仕えた一部の豪族たちだけでした。その豪族たちに与えられた名字のことを「氏」というわけですね。いいかえれば、この「氏」を定めることで大王は豪族たちを支配していたわけです。
「氏」には、大伴・中臣・葛城・巨勢・物部・蘇我などがあります。それぞれの「氏」は、どんな職業に就くのかが世襲的に決まっています。
つまり、例えば「佐藤さん」が学校の先生の家系だとしたら、その息子もその孫も、そのまたひ孫も、永遠に学校の先生の仕事に就くということですね。
そこで、各「氏」にはそれぞれの職業や政治的な位置に応じた「姓」が与えられます。これは、今でいうなら「先生」とか「教授」などの、役職名みたいなものです。
姓は、臣・連・君・別・直・造・首・史・県主・村主など数十種類ありました。
特に、大王と姻戚関係によって勢力を持った者や、大王の直轄民を監督する伴造を管轄したいた者など、大王と直接的な関係を持っていた「氏」に与えられていた、「臣」と「連」の姓は重要なので覚えておいてください。
「臣」姓を与えられた「氏」には、葛城・平群・巨勢・蘇我などがいます。一方、「連」姓を与えられた「氏」には、軍事を担当した大伴・物部、祭祀を担当した中臣・忌部などがいます。
その中でも5世紀になって、ヤマト政権の中で最有力となった蘇我氏・大伴氏・物部氏は、それぞれ、蘇我氏が大臣、大伴氏・物部氏が大連に任命されて強大な権力を持ちました。
この3氏はのちに政治的な主導権をめぐって権力争いを繰り広げるようになります。
中級以下の地方豪族は伴造に任命されて、「臣」「連」の下につきました。
伴造は、中央で祭祀・軍事・手工業・財政・外交などのヤマト政権の職掌を分担する有力集団で、職業集団である品部(伴)に貢納や労役を負担させる役割も担っていました。
朝鮮半島のほうから新しい知識や技術を携えてやってきた渡来人たちも伴造や伴に編成されました。
ここまで見てきたのは中央の政治体制です。一方の地方政治のほうは、地方の有力豪族がヤマト政権から国造に任命されて、その地方の支配権を大王から保障されていました。
今でいう、都知事や県知事のような地方のトップのような役職ですね。また地方の有力豪族(国造)には「君」や「直」という姓がヤマト政権から与えられました。
大王と豪族が持つ、人と土地!!
大王(朝廷)と豪族の連合政権であるヤマト政権では、大王(朝廷)が直接的に支配している人民と土地、豪族が直接的に支配している人民と土地が、相互に存在していました。
それぞれの私有民と私有地は、名称が異なっているので間違えないように覚えましょう。
まず、朝廷の私有民のことを名代・子代の部、私有地のことを屯倉といいます。
次に、豪族の私有民のことを部曲、私有地のことを田荘といいます。
名代・子代、屯倉、部曲、田荘。このへんはとても間違えやすいところなので混乱しないように気を付けてくださいね。
また、豪族たちの家々には奴隷として所有されるヤツコ(奴婢)もいました。奴婢は、独立して家計を営むことが許されていなかったという点において部曲と区別されます。
このようにしてヤマト政権は連合政権の中で支配体制を構築し、権力機構を整えていったのです。
古墳時代の人々はどんな生活をしていたの??
では、視点を少しずらしまして、今度は古墳時代の人々の生活の様子をみていきましょう。
古墳時代の人々生活は群馬県渋川市にある黒井峰遺跡からもうかがい知ることができます。
まず、住まいです。農民たちは、弥生時代からあまり変化はなく、竪穴住居や平地住居が一般的だったようです。
平地住居は掘立柱の建物となっていて、内部にはカマドがつくられていました。古墳時代の後期になると中央にあったカマドが壁際に作られるようになります。
一方で、豪族は居館と呼ばれる高床の住居に住むようになっていました。
道具のほうでもあまり弥生時代から大きな変化はありませんが、土器のほうで新しい形態のものが2つ誕生しました。
一つ目は、土師器です。こちらは、弥生土器の系譜をひいていて赤焼きとなっており、主に日常生活に用いられました。
もう一つは、須恵器です。こちらのほうは朝鮮半島から製作技術が伝えられて作られ、硬質で灰色をしているという特徴があります。
須恵器は主に祭祀などの非日常的な特別な日に用いられました。衣服は、男性が衣と乗馬ズボン風の袴、女性が衣とスカート風の裳を着ていました。
これは、古墳の周りに並べられた埴輪や副葬品から判断することができます。衣服の材料としては麻や楮などの植物繊維が用いられていたそうです。
神を信じる古墳時代の人びと!
古墳時代にも、縄文・弥生時代のアニミズム的な自然崇拝の風習が強く根付いていました。
特に農耕の発達に伴って、それに関するお祭りは、古墳時代の人々にとっては非常に重要なものであって、春に行われ、その年の稲の豊穣をすべての神々にお祈りする祈年の祭りや、秋にその年の収穫を感謝し、お祝いする新嘗の祭りが当時の人たちにものすごく大切にされていました。
現在でも、祈年の祭りは毎年2月17日に、新嘗の祭りは毎年11月23日に、日本の各神社で実施されています。11月23日は勤労感謝の日で祝日になっていますね。
もともと新嘗の祭りは天皇行事・国事行為であったのですが、第二次世界大戦後、GHQによる占領政策の過程で切り離されて、新嘗の祭りが国事行為と切り離されて、現在では「勤労感謝の日」としてカレンダーに残るようになったのですよ。
また、人々は日本各地にある、大きな山や海や島や川など、そうした広大な自然地域には、神様や霊が宿っていると考え、それらをお祈りの対象とし始めます。
私たちも何か、大きな海や広大な空を前にすると、その自然に包まれ、思わず合掌したくなるような感覚を抱くことってありますよね。なんといいますか、その広大な自然に比べていかに私たち人間はちっぽけなんだと感じる体験といいますか。
その感覚が自然を畏敬するということなのだと思います。そうした感覚を古墳時代の人たちも敏感に感じていたのでしょう。
代表的な自然の祭祀場として、奈良県の三輪山や福岡県の沖ノ島などがあります。
そうした祭祀場はだんだん固定化されていき、しだいにその場所に神社が建てられるようになっていきます。この時代の有名な神社を覚えておきましょう。
- 三輪山をご神体として建てられた奈良県の大神神社
- 玄界灘の孤島である沖ノ島を神として祀る福岡県の宗像大社
- 天皇の直接の祖先である天照大神を祀る三重県の伊勢神宮
- 国譲りの神話で有名な大国主神を祀った島根県の出雲大社
- 神功皇后と海の神を祀ったとされている大阪府の住吉大社
これらの神社は、自然崇拝と氏の祖先神を祀る風習が融合して建てられたものであると考えられています。
ちなみに氏神の祭祀を司っていた氏の長者を氏上といいます。
さらに古墳時代の人々は、呪術的な占いのようなものを信じる風習も持っていました。
例えば、身体にとりついてしまった罪の意識や汚れといった穢れをはらい、自分たちの身に降り注ぐかもしれない災いを逃れるために、禊や祓という儀式を行っていました。
禊というのは、川や海の水に入って身体を洗い清めることです。今でも、滝に打たれて修行する人がいますよね。あれって、滝の水で自分自身の心と身体を清めて精神を整えるという意味があって、禊の一種でもあるのですよ。
祓というのは、大麻(おおぬさ)や榊(さかき)などで穢れをお払いすることです。よく神社に行って厄払いなどするときに神主さんが「みなさん頭をおさげください」と言って、さっ、さっ、って払ってくれますよね。あれです。
他にも、鹿の骨を焼いて、その骨がどのように割れたかで吉凶を占う太占の法が行われたり、うそをついている人を見抜くために、超アツアツの熱湯に手を入れさせてやけどするかどうかでその真偽を判断する盟神探湯(くかたち)が行われたりしました。
正しい人は手がただれず、邪な人は手がただれるのだそうです。
このような形で古墳時代に人たちは、縄文・弥生時代の人たちよりも呪術的・自然崇拝的なものに関心をよせるようになり、これが現代にも通ずる日本固有の宗教である神道の原初ともされています。
まとめ
ここまで政治体制や生活の様子を見てきて、古墳時代の人々の様子がかなり鮮明に浮かび上がってきたのではないでしょうか。
古墳時代の人々は、農耕文化が発展するにつれて新しい宗教観念を生み出しました。
また、朝鮮半島との関わりもより密になってきて、その中で国をまとめることの必要性や、軍事力を強めていくことの重要性を為政者たちは認識していきました。
古墳時代の段階ではまだ「日本」という完全な形での「国家」は誕生していませんが、それに近い形での連合政権が生まれました。
さて、飛鳥時代以降、どのような歴史をたどることで「日本」という「国家」が形成されていくのでしょうか。豪族と朝廷の連合政権という形から中央集権国家に移り変わっていくのでしょうか。
その歴史を次回以降では見ていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p51-p54
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p29-p33
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p42 –p48
- いらすとや