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国家が一つにまとまる時代!
日本が初めて国家としての形を作り始める時代が、飛鳥時代です。
古墳時代は、豪族と天皇による連合政権でしたが、飛鳥時代以降、日本では天皇を中心とする中央集権国家の形成への動きが起こり始めます。
日本が国家形成を急いだ理由には、東アジア諸国との関係があります。日本が一つの独立国家として中国に認めてもらうためには、国家体制を整えていくことが急務でした。
また、朝鮮半島などの東アジアの国々と軍事的にも対抗していくためには、国家の権力を一つにまとめる必要性がありました。
そういったわけで、今回書いていく飛鳥時代は、中央集権国家体制に歴史の1ページ目です。
この時代に活躍した、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子はどのようにして国家体制を築こうとしていったのでしょうか。そのような視点で、この時代を眺めてみてください。
朝鮮半島の利権を失う!?
6世紀の始めの継体天皇の時代に、日本はこれまで進めていた朝鮮半島の経営が行き詰まるようになります。この頃、朝鮮半島では高句麗や新羅の勢力が伸び始めていました。
これにより圧迫された百済は、勢力範囲を南に移していくことを決定し、512年に日本に対して任那4県の割譲を求めてきました。
任那は日本が勢力を持っていた朝鮮半島南部の地域でしたね。この百済の要求に対して当時の実力者であった大伴金村はこれを受け入れて、百済に任那4県を割譲してしまいました。
のちに、大伴金村は百済から莫大な賄賂を受け取っていたのではないかと疑いをかけられ、物部尾輿らから批判の声が高まり540年に失脚しました。
さらに、朝鮮半島では新羅の勢力がより強大化し、半島内の日本の勢力地を脅かすようになっていました。そこで日本は、近江臣毛野を中心とする軍を任那に派遣し新羅を討とうとしました。
しかし、527年に、北九州の豪族であった筑紫国磐井が新羅と手を結んで反乱を起こし、日本の朝鮮への軍事派遣が阻害されてしまいました(磐井の乱)。
この乱は528年に物部麁鹿火によって鎮圧されましたが、結局日本は、562年に任那を失うことになってしまいました。磐井氏はヤマト政権に対して反感を持っており、反逆の機会をうかがっていたのだといわれています。
そこに新羅が目をつけて磐井氏に対して賄賂を渡し、関係を築いていたのです。1年間に及ぶ長い乱を経て磐井氏は鎮圧されました。
ちなみに、磐井の墓は現在の福岡県八女市にある岩戸山古墳ではないかと考えられています。
その後、日本は、継体天皇の後の欽明天皇の時代に、任那回復の詔を出しましたが、結局実現しないまま、日本の4世紀後半以来の朝鮮半島経営はここに終わりを告げました。
仏教導入?それとも廃仏?
欽明天皇の時代に、百済の聖明王から仏像や経典が贈られたところから、日本にも仏教が伝わりました。
欽明天皇の側近として天皇を支えていた、蘇我氏と物部氏は、仏教を取り入れた政治をするのかどうかという点で対立を深めるようになりました。
これを崇仏論争といいます。蘇我氏は崇仏派、物部氏は廃仏派でした。
当時、蘇我氏と物部氏は最大の勢力を持つ豪族でした。蘇我氏は斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵と呼ばれるヤマト政権の財産を管理したり、朝廷の屯倉を管理したりするなど、財政的な面で権力を握っていました。
一方の物部氏は、軍事的な面でヤマト政権を支えていました。その両者が仏教の受容をめぐって争ったのです。
初めは、蘇我稲目と物部尾輿の対立から始まり、用明天皇の死後にその両氏の争いは激化し、587年に大臣の蘇我馬子が大連の物部守屋を滅ぼしました。
結果、日本で仏教を取り入れ政治を行う方向に舵取りがされ、蘇我氏が専制的な権力を握るようになるのです。
ちなみに、蘇我氏と物部氏の対立は、単に仏教を受け入れるか、受け入れないかの争いではありません。そこには豪族の権力争いがあり、また天皇の皇位継承問題も絡んでいました。
用明天皇が亡くなった後、その後継者は敏達天皇の子どもである押坂彦人大兄皇子と決まっていました。しかし、これに不満をもった欽明天皇の子どもの穴穂部皇子がこれに強く反対しました。
ちなみに、皇位はここまで、欽明天皇-敏達天皇-用明天皇の順で継承されています。
そして、この皇位継承者争いに蘇我氏と物部氏が加担し、蘇我氏は押坂彦人大兄皇子と、物部氏は穴穂部皇子と、それぞれ手を結ぶようになります。
そして、蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、さらには物部氏も滅ぼして、蘇我氏が独占的な権力を持つに至ったというわけです。
聖徳太子はどんな政治をしたのだろうか??
崇仏論争で勝利した蘇我馬子は、592年に女帝の推古天皇を即位させ、翌593年には推古天皇の甥である厩戸王(聖徳太子)を摂政に就任させて、蘇我馬子・推古天皇・厩戸王(聖徳太子)の三人による三頭政治を行っていきます。
推古天皇と厩戸王について簡単に触れておきます。推古天皇は日本で初めて女性として天皇になった人物です。
推古天皇の前の崇峻天皇が、592年に蘇我氏の反感を買って、蘇我馬子の使いであった東漢直駒に暗殺され、馬子の姉の子どもであった推古天皇が豊浦宮で即位したわけです。
一方で、厩戸王(聖徳太子)のほうは、推古天皇の兄の子どもで、崇峻天皇の暗殺で動揺している政治を安定させ、統一的な国家をつくるために、推古天皇の代わりに政治を行いました。
摂政というのは、天皇が女性や子どもの時に、天皇に代わって実際の政治を行う役職です。ちなみに、聖徳太子は馬小屋(厩戸)の前で生まれたため、厩戸王と呼ばれるようになりました。
彼らの政治課題は、天皇を中心とする統一的な国家組織をつくること、中国との対等外交を実現し朝鮮半島との、現状の悪い関係を打開すること、がありました。
そのために、蘇我馬子・推古天皇・厩戸王(聖徳太子)が行ったことは大きく分けて3つです。一つ目は、冠位十二階の制定。二つ目は、憲法十七条の制定。そして最後に、遣隋使の派遣です。
そのそれぞれについて詳しくみていきましょう。
冠位十二階の制定
603年に、それまでは生まれによって世襲的に決まっている「姓」ごとに与えていた官職を、個人の能力や才能に応じて1代限りで与え、優秀な人材を政界に登用するために冠位十二階を制定しました。
冠位は、「徳・仁・礼・信・義・智」の6つの位を大小2つずつに分けられ、位を与えられた人にはそれぞれの位に応じた色の冠が授けられました。
色は位の高い順に、「紫・青・赤・黄・白・黒」となっています。最も位の高い冠位は「大徳」で次に「小徳」、その後「大仁→小仁→大礼→…」と続いていき、「大徳」と「小徳」に紫の冠、以下同様にそれぞれの官職に応じた色の冠が与えられたのですよ。
ちなみにわざわざ冠位を制定する必要があったのは、中国との外交の際に、冠位のわからない者とは中国の皇帝は取り合ってくれないため、外交の必要性から制定されるに至ったといわれています。
憲法十七条
天皇を中心とする国家をつくっていくために、604年に憲法十七条が制定されました。
「17」という中途半端な数字は、当時、中国で「8」と「9」が縁起のいい数字だと考えられていて、それを足せば最高の数になるということで「17」にしたという説があります。
注意していただきたいのは、憲法十七条は、「憲法」とは言っていますが、現在の憲法のように国家権力を縛るようなものではなく、役人の心構え(守るべきルール)を説いた内容となっているということです。
憲法十七条は儒教や仏教の思想を取り入れながら書かれ、これが「日本」という、天皇を中心とする統一的な国家をつくるための土台となる法律になっています。
ここにどんなことが書かれていて、どのような国家を形成していくことを聖徳太子や蘇我馬子はイメージしていたのかを、史料から読み取っていきましょう。
一に曰く、和(わ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。…
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。
十二に曰く、国司・国造、百姓におさめとることなかれ。国に二の君なく、民に両の主なし。
十七に曰く、それ事は独り断むべからず。必ず衆と論ふべし。
(『日本書紀』(原漢文))
まず、第1条には、「『和』大切にし、人と争いやいさかいを起こすことはしないように」といったことが書かれています。
条文の最初に書かれているものは、すべての条文の中で特に重要だと考えられているものであります。
そのため、聖徳太子や蘇我馬子は、政治の決定ごとにおいて、何よりも争いをせず、みんなで「話し合って」決めていくことが、国をまとめていくためにはとても重要なことなのだ、ということを強く役人たちに説いていたということがうかがえます。
組織を強くまとまりのあるものにしていくためには、何よりも「和」が大事だ、というのは、現在の私たちにも通ずる日本人の精神性を物語っているかのようです。
次に第二条では、「厚く三宝を敬いなさい」ということを言っています。「三宝」とは、仏・法・僧のことです。すなわち仏教を大切にしなさいということを言っているのです。新しく日本に取り入れられた当時の先進的な宗教である「仏教」によって国をまとめていこう方向性がここに示されています。
次に第三条と十二条には、「天皇の命令には必ず従いなさい。そして、天皇は天であり、臣下は地であって、国中のすべての主は天皇である」ということが書かれており、天皇の絶対的な権力の強さを示されています。ここから、天皇を中心とする国家形成をしていこうとする意図が読み取れます。
最後の第十七条には、「物事を独断で行わず、必ずみんなと議論してから決めるように」ということが書かれています。すなわち、みんなで話し合って決めるという「和」の精神が書かれた条文で、十七条の憲法が締めくくられているわけです。
第1条で「『和』を大切にすること」から始まって、最後に「『和』をもって物事を決めていくこと」で終わっている十七条憲法。日本人の「和」の精神の原点はここにあるのかもしれません。
このように、「和」を大切にし、仏を敬いながら、天皇を中心とする国家形成をしていくという飛鳥時代の政治指針が、この憲法によって示されました。
遣隋使の派遣
さて、日本が国家形成を急いでいたのには、中国との対等外交を実現し、東アジアにおける日本の地位を高めていくためという目的がありました。
そこで飛鳥時代の日本は、十七条憲法や冠位十二階の制定により天皇を中心とする国家形成を進めていくかたわらで、中国との外交にも乗り出していきました。
このころの中国は、北周から出た隋の文帝が、589年に南朝の陳を滅ぼして中国統一を完成させていました。
日本は、5世紀末の倭王武(雄略天皇)の遣使以来途絶えていた中国との国交を回復し、対等外交を実現するために、隋に遣使を送ります。以下、史料からその様子を読み取っていきましょう。
開(かい)皇(こう)二十年、倭王、姓(せい)は阿(あ)毎(め)、字(あざな)は多(た)利(り)思(し)北(ひ)孤(こ)、阿輩雞(おおき)弥(み)と号す。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司をしてその風俗を訪わしむ。
大業(たいぎょう)三年、其の王多利思比孤(たりししひこ)、使を遣はして朝貢す。使者曰く「聞くならく、海西の菩薩(ぼさつ)天子(てんし)重ねて仏法を興すと。故に、遣はして朝拝せしめ、兼ねて沙門(しゃもん)数十人、来りて仏法を学ぶ」と。其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚(こうろ)卿(けい)に謂(い)ひて曰く、「蛮(ばん)夷(い)の書、無礼なる有らば、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿れ(なかれ)」と。明年、上、文林郎裴(はい)清(せい)を遣はして倭国に使せしむ。
(『隋書』倭国伝(原漢文))
『隋書』倭国伝は、隋の次の王朝である唐の魏徴という人物が編んだ中国の歴史書です。この中に、日本の遣隋使が隋の皇帝に謁見した様子が書かれています。内容を見ていきましょう。
まず、1行目の「開皇二十年…」から始まる文章です。「開皇二十年」とは600年のことで、この年に日本から第1回目の遣隋使が送られてきたと、書かれています。
この時、隋の皇帝が、日本の風俗が道理のないものだと批判し、改めさせたと記述されています。
しかし、日本の歴史書には600年に遣隋使を送ったという記述がなく、『日本書紀』によれば最初の遣隋使は607年と記載されているため、600年の遣使が本当にあったのかどうかは、実は定かではありません。
次に、「大業三年…」に続く文章です。「大業三年」とは607年のことで、この年号は『日本書紀』で遣隋使が初めて送られたとされている年と合致しています。
この時に派遣された人物こそ、「女じゃないよ、男だよ」で有名な、小野妹子ですね。
607年に「大礼」の位を授かった小野妹子が、国書を携えて隋にやってきました。この小野妹子の遠征を隋の皇帝は、どんな態度で迎え入れたのか。
実は、ブチギレだったそうです。なぜ、隋の皇帝は激怒したのか。それは、小野妹子が携えていた国書の内容に問題がありました。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この国書の内容には2つの問題がありました。「日出づる処の天子」とは日本の天皇のことです。一方で「日没する処の天子」とは中国の皇帝のことです。
まず中国の皇帝・煬帝の怒りポイントの一つ目は、日本の天皇のことも中国の皇帝のことも「天子」と記して、あたかも対等な関係であるかのように書かれているところです。
これまで中国と日本は冊封体制をとっていて、日本が中国の臣下となって外交関係を結ぶという形をとっていました。すなわち、決して対等ではなく、中国のほうが、立場が上なのです。
それなのに対等に物申していたことに対して、煬帝は怒ったわけです。もう一つは、日本を「日出る処」と記し、中国を「日没する処」と記しているところです。
あたかも「太陽が昇るようにこれから発展していく日本が、これから沈みゆく中国に対して物申します」と言っているかのようですね。そりゃあ怒ります。ということで、この日本な無礼な対応に対して、隋はかなりの不快感を示しました。
おそらく普通に考えたらこの外交関係が成立することはありえないでしょう。国交は確実にこの時点で断絶してしまうはずです。
しかし、この時、隋は怒っているにも関わらず、日本に対して返礼使として裴世清という人物を送ってきました。これは「日本と外交関係を築きますよ」ということを意味します。
なぜ、無礼な態度をとった日本に対して返礼使を送ったのでしょうか。それは、当時隋は朝鮮半島の高句麗への遠征を考えていて、その際に日本が高句麗と手を組んで隋に対抗してきたら非常に困るということで、日本との外交関係を優先させたのだろうと考えられています。
当時の隋が置かれている状況をしっかりと見極めて判断し、中国との対等な関係を築いた、聖徳太子らは非常に外交センスがあったのだろうと思います。
その後608年に裴世清を隋に送り返すために、高向玄理・南淵請安・僧旻らの留学生や留学僧が隋に送られました。彼らは後に、隋で学んだ文化や知識を生かして、大化の改新政治で大活躍することになります。
これ以降、隋が618年に滅ぼされて唐がおこったあともずっと、遣隋使・遣唐使は菅原道真が遣使を禁止する894年まで続いていくことになりました。
ちなみに、犬上御田鍬は最後の遣隋使であり、最初の遣唐使でもある人物です。覚えておきましょう。
まとめ
仏教政治を取り入れ、『和』の精神を大切にし、天皇中心の国家体制を目指したのが、飛鳥時代の政治でした。
また、中国との関係もより緊密になり、中国からの先進的な文化もたくさん日本の中に入ってくるようになりました。
そのような中で、日本の文化にはどのような変化が起こってくるでしょうか。次の章では、飛鳥時代に発展した文化について説明していきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p59-p62
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p34-p36
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p52 –p56
- いらすとや