日本史を楽しく復習しよう!「古墳時代」の朝鮮半島について[高句麗・百済・新羅]

戦いの古墳時代

 

古墳時代の中期に、古墳に埋葬される副葬品に武術的なものが多くなったという変化が起こりました。

このことは、当時の権力者が武力を重んじて政治を行っていたのではないかという時代背景がうかがえます。

実際に朝鮮の史料などから、当時日本が朝鮮に進出し軍事的介入を試みていたという記述があり、そのことが古墳の副葬品に変化をもたらすきっかけになったのではないかと考えることができます。

そこで、この章では、当時の東アジア、とりわけ朝鮮半島の情勢はどのようなものであったのか、そして、日本は朝鮮半島にどのような目的でどうやって進出していったのか、ということを、中国や朝鮮で発掘された史料を基にひも解いていきます。

朝鮮半島の情勢

 

中国の前漢の時代に、7代皇帝の武帝が朝鮮半島に、真番郡・臨屯郡・玄菟郡・楽浪郡の四郡が設置し、中国は朝鮮半島の支配を進めていました。

しかし、2世紀の後半ごろになって後漢が急速に衰え始めると、朝鮮半島の中・南部の部族国家が独立の機運を見せ始め、地域ごとに3つの連合体を形成していきました。

その3つの連合体が馬韓・弁韓・辰韓です。さらに、1世紀の後半に満州の東部から起こった高句麗も国家を形成し始めて、朝鮮半島へと南下を始めていきました。

その後、後漢は222年に滅亡し、魏・呉・蜀の3つの国が並び立つ三国時代が到来し、魏が朝鮮半島の支配を進めていきました。

しかし、その魏も265年に滅び、さらに280年に中国を統一した晋も、316年に遊牧民族の匈奴の進出により滅亡し、中国は五胡十六国時代という分裂と混乱の時代に入り、中国の支配の影響が朝鮮半島に及ばなくなっていきました。

こうした中で、高句麗が南下を進め朝鮮半島北部にまで領土を広げ、313年に楽浪郡を滅ぼしました。

さらに朝鮮半島南部の地域では、4世紀に馬韓の諸部族国家が百済によって、辰韓の諸部族国家が新羅によって、それぞれ統一され、高句麗・百済・新羅の3つの国家が並び立つ三国の時代が朝鮮半島に到来しました。

貴重な資源を求めて朝鮮へ!!

 

三韓(馬韓・弁韓・辰韓)のうち、弁韓だけはいまだ統一国家が誕生せず、小国が分立の状態になっていました。

その弁韓の地に日本は早くから進出を開始し、とくに弁韓の伽耶(加羅)諸国とは密接な関係を築いていたといわれています。

なぜ日本(大和国家)は朝鮮半島に進出していこうと思ったのでしょうか。

それは朝鮮半島南部に産出する鉄資源を求めてであったと考えられています。鉄というのは、農具としても武器としても使える貴重な資源であり、これがあれば国力を強化していくことができますからね。

ちなみに第二次世界大戦後に日本が経済復興するためにまず手掛けたのが鉄鋼の傾斜生産でした。鉄というのは経済発展のための重要な資源だということがよくわかります。

4世紀の中頃から、日本は朝鮮半島に本格的に進出していくようになります。日本は369年に朝鮮半島に兵を進め、新羅を攻めるとともに、百済を従属させ、また弁韓の地を日本の支配下に置きその地を任那と呼ぶようになります。

さらに、391年から404年にかけて日本は朝鮮半島を北進し、百済・新羅を破り、高句麗とも戦って一時朝鮮半島の南半分まで進出していくほど勢力を伸ばしていきました。

このことは、当時の高句麗の王である好太王(広開土王)の功績を記した好太王碑文からうかがい知ることができます。内容は以下の通りです。

百残新羅は旧是臣民なり。由来朝貢す。

而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡りて百残を破り新羅を□□し、以て臣民と為す。

(『高句麗好太王碑文』より引用)

この好太王碑は1870年に発見され、かつての高句麗の都である丸都(中国吉林省集安市)に現在も建っています。

この碑文から、日本は百済新羅を従属させて進出してきたが、最終的に高句麗によって敗戦したということが読み取れます。高句麗は騎馬軍団を用いて倭軍と戦っていたと思われます。

その騎馬軍との戦いをきっかけとして、それまで乗馬の風習のなかった日本人たちも騎馬技術を学ぶようになり、それが古墳の副葬品として馬具などがみられるようになったこととつながります。

5人の日本の王が中国へ!!

 

高句麗との戦いに敗れた日本は、朝鮮半島の進出・経営が思わしく進まなくなっていきました。

そこで日本は朝鮮半島に直接進出していくのではなく、東アジアの巨大国家である中国との通行を強化することで、その後ろ盾により朝鮮半島における勢力を維持・拡大していこうと試み始めます。

お土産を中国にもっていって中国の手下となる、冊封体制というやつです。覚えていますか。弥生時代の小国の王たちも、中国の皇帝に貢物を持って行って国内での権力強化をはかっていましたよね。

同じようにして中国の皇帝から、日本国内と朝鮮半島の支配権を認めてもらおうとしたのです。

そこで日本の5人の天皇があいついで中国の南朝(宋・斉・梁・陳)にご挨拶にいきました。その5人の王をまとめて倭の五王と呼びます。

中国の歴史書である『宋書』倭国伝では、その五王の名前は「讃・珍・済・興・武」と伝えられています。『宋書』倭国伝の中身を確認しておきましょう。

興死して弟武立つ。自ら使持(しじ)節(せつ)都督(ととく)倭(わ)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓七(ぼかんしち)国(こく)諸軍事(しょぐんじ)安東(あんとん)大将軍(だいしょうぐん)

倭(わ)国王(こくおう)と称す。順帝の昇(しょう)明(めい)二年使を遣して、上表して曰く、「封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰躬( そ でいみずか)ら甲冑をつらぬき、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)して寧所(ねいしょ)に遑あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆(しゅう)夷(い)を服すること六十六国、渡りて海(かい)北(ほく)を平ぐること九十五国…」と。詔して、武を使持(しじ)節(せつ)都督(ととく)倭(わ)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓六(ぼかんろっ)国(こく)諸軍事(しょぐんじ)安東(あんとん)大将軍(だいしょうぐん)倭(わ)王(おう)に除す。

『宋書』倭国伝、原漢文)

『宋書』倭国伝は、中国南北朝時代の学者である沈約が書いた、南朝宋の約60年間にわたる歴史書です。ここに出てくる「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇であると考えられています。

ちなみに、「讃・珍・済」はそれぞれ諸説ありますが、「讃」は仁徳天皇(または履中天皇)、「珍」は反正天皇、「済」は允恭天皇に当たるとされています。

史料からは、「興」(=安康天皇)が亡くなってから、その弟の「武」(=雄略天皇)が即位し、彼は自ら「使持(しじ)節(せつ)都督(ととく)倭(わ)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓七(ぼかんしち)国(こく)諸軍事(しょぐんじ)安東(あんとん)大将軍(だいしょうぐん)倭(わ)国王(こくおう)」と名乗っていたということが書かれています。

それに対して中国南朝宋の皇帝である順帝が雄略天皇を「使持(しじ)節(せつ)都督(ととく)倭(わ)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓六(ぼかんろっ)国(こく)諸軍事(しょぐんじ)安東(あんとん)大将軍(だいしょうぐん)倭(わ)王(おう)」に任命したということが書かれています。

安東大将軍というのは、一国の軍事指揮権を持つ人間に与えられる称号のことで、日本の鎌倉・室町・江戸時代などで幕府のトップに与えられる征夷大将軍(将軍)とほぼ同じものです。

すなわち、雄略天皇は中国の皇帝から、日本の支配権と共に朝鮮半島の勢力圏を認めてもらったわけです。こうすることで日本は朝鮮半島に進出しやすい環境を整えていきました。

また史料から、雄略天皇は日本列島内で大和国家に抵抗していた九州南部に本拠地を構えていた衆夷(熊襲)と、東北地方のほうに本拠地を構えていた毛人(蝦夷)も、中国皇帝からその支配を認めてもらうことで征服しようとする意図があったということがわかります。

ようこそ!日本へ!!渡来人がやってきた。

 

さて、古墳時代中期に日本が朝鮮半島に進出するようになったことによって、朝鮮半島や中国からの先進的な文化も日本国内にもたらされるようになりました。

また、そうした技術を伝えるために日本にやってきた渡来人たちも活躍するようになります。当時の渡来人は、朝鮮半島の中で関わりの深かった百済から者が多く、そのほかに新羅・高句麗・中国からも日本にやってきていました。

彼らは、陶器・織物・鍛冶・木工・酒造などの多くの技術を携えて日本にやってきて、大和朝廷の豪族たちに受け入れられました。

大和朝廷は渡来人たちを、いくつかの部(品部)という技術者集団のチームを編成し、この部(品部)単位で日本国内に彼らの技術を浸透させていきました。

代表的な渡来人の部(品部)を覚えておきましょう。

  • 鉄器の生産技術をもって大和朝廷に仕えた韓鍛冶部
  • 機織りの技術で大和朝廷に仕えた錦織部
  • 須恵器の生産技術で大和朝廷に仕えた陶作部
  • 漢字などの書記で大和朝廷に仕えた史部
  • 馬具や鞍づくりの技術で大和朝廷に仕えた鞍作部

などがありました。

また、有名な渡来人3人も覚えておきましょう。

まず、東漢氏の祖先で、文筆に優れ大和・河内の地で文書の読解や記録にあたった阿知使主。

2人目は、西文氏の祖先で、中国の論語や千字文を伝えたといわれている王仁

そして3人目は、養蚕や機織を伝えたといわれている秦氏の祖先であり秦の始皇帝の子孫でもある弓月君です。

彼ら3人は、応神天皇の時に日本に帰化し、日本に機織りや漢字・文字などの文化を伝えました。

また6世紀には朝鮮半島の方面から宗教も伝わってきました。この時に日本に伝わった宗教は儒教仏教です。儒教仏教は現代の日本の社会にも強く根付いていますよね

儒教は紀元前5世紀ごろに中国の孔子によってはじめられた教えです。

「学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや…」という、『論語』に書かれた孔子の教えをみなさんも中学校の時に習いましたよね。

この儒教は現代の日本でも「道徳」の中に受け継がれています。目上の人を敬いなさいとか挨拶をしなさいとか、そういう教えの原点になっているものです。

その儒教が513年に、百済五経博士によって日本に伝えられました。この時の天皇は継体天皇です。その後やや遅れて仏教も日本に入ってきました。

仏教は、紀元前5世紀ごろにインドの釈迦(ガウタマ=シッダールタ)によってはじめられた世界宗教の一つです。

この仏教百済聖明王よって日本に伝えられました。この時の天皇は欽明天皇です。

この時代にたしかに仏教は日本に伝わったのですが、その年代は諸説あります。『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺縁起』によると仏教伝来は538年であると書かれています。こちらの説を戊午説といいます。

一方で、『日本書紀』によると仏教伝来は552年であると記述されています。ことらの説を壬申説といいます。

どちらが正確な年代であったかはいまだに定かではありませんが、現在は戊午説(538年)が有力な説となっています。

仏教が公に伝わったのは538年か552年と言われていますが、一部の渡来人の間ではそれよりも前に仏教が信仰されていたということがわかっています。すなわち私伝はもっと前の年代から始まっていたということですね。

『扶桑略記』という歴史書によると、司馬達等という渡来人が継体天皇の時代の522年に仏教を私伝していたという記述がなされています。

いずれにせよ、6世紀以降、日本の中に仏教儒教が広まるようになっていきました。

まとめ

古墳時代は朝鮮半島をめぐっての争いの時代でもありました。しかし、その中で朝鮮や中国との関わりが密接になり、それらの地域からの文化の流入が起こりました。

その結果、現代の日本にも通ずる、文字文化・漢字文化・仏教文化・儒教道徳などが日本国内に伝わりました。日本の文化的な発展の礎となっていたというのも古墳時代の一つの側面なのかもしれません。

そういう視点で見てみると、ただ古墳を作っていた時代という発想から、もっと深く面白い切り口で古墳時代を見ることができるのではないでしょうか。

さて、次回は古墳時代の人々の生活についてみていきたいと思います。

巨大な古墳がつくられている裏で、普通の人々の暮らしはどのようなものであったのか、どんな文化を持っていたのか、そういったことを解き明かしていきます。

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