日本人なら知っておきたい文学作品!在原業平をモデルとした昔男の物語『伊勢物語』

『伊勢物語』作者・成立年未詳の最初の歌物語です。現在に伝わる諸本は125段からなり、それぞれの冒頭が昔、男〜から始まっています。その「昔男」の恋愛や友情、流離、別離など様々な物語が和歌と共に語られています。更に、その「昔男」のモデルは在原業平[i]だと言われています。

何故『伊勢物語』と呼ばれるのか?その成立過程と共に詳しくみていきたいと思います。

まずは成立過程からみていきましょう。『伊勢物語』は在原業平の歌集『業平集』や『古今和歌集』などを元に、在原業平の歌集に逸話を付け加えて成立したものと考えられています。『源氏物語』総角巻では在五が物語と称され、『狭衣物語』では在五中将の恋の日記と称されており、それらが全て現在に伝わる『伊勢物語』かどうかは様々な論がありますが、これらの物語が後々まとめられ現在の『伊勢物語』の形になった可能性があります。『源氏物語』の記述から推定すると、物語の設定する時代に既に『伊勢物語』は物語として成立していたと考えられます。以上のことから、『古今和歌集』編纂以後『伊勢物語』の原型が出来、その後様々な人物の加筆を経て現在の形になったと考えれられています。その根拠として、天暦年間(947〜957年間)に詠まれたことが明らかな和歌が11段にあることや、人物の注記の内容などが挙げられます。

次に、「何故『伊勢物語』と呼ばれるようになったのか?」をみていきたいと思います。

『源氏物語』絵合巻に「うらふりぬらめ年経にし伊せをのあまの」という記述がある通り、「在五が物語」とともに「伊勢」の物語というのも伝わっていたと考えられています。果たして“伊勢”の名は何が由来なのでしょうか。従来の説としては、女流歌人である伊勢[ii]がまとめたとされている説や、巻頭に伊勢斎宮と狩に下った男の記述があり、伊勢斎宮の記述が重要であると考えられていた説などがあります。斎宮とは伊勢神宮に使える未婚の皇女や内親王ことである。天皇の代替わりごとに斎宮もかわります。更に阿部俊子氏によると、伊勢は都(京都)から離れた土地にあるにもかかわらず、『万葉集』『古今和歌集』のなかで様々な片想いの歌にその語句が用いられていることを指摘し、「現実を離れた物語の語られるよき所で思いの貝を拾いあつめた物語という意味」[iii]と考えられると述べています。

ここまで、『伊勢物語』の成立過程、何故『伊勢物語』と呼ばれるようになったのかみていきました。今度は、その内容についてみていきましょう。『伊勢物語』では、初冠[iv](元服)から臨終に至るまで「昔男」の生涯が和歌とともに描かれています。その多くは皇女をはじめとする高貴な女性から身分の低い庶民まで様々な女性との恋物語です。その他には親王や友人、兄弟らとの交流、旅の話なども描かれています。その中でも在原業平の実話と考えられている話は「西の対」「芥川」などの章段に描かれる二条后高子[v]との許されぬ恋や、伊勢斎宮との許されぬ恋を描いた「狩の使」などの恋物語があります。恋物語以外では、「渚の院」の惟喬親王[vi]との親交、「東下り」の段の東国への漂泊の際のわびしく孤独な話などが描かれ、更に「さらぬ別れ」の段では老母との死別を悲嘆する話が描かれています。しかし、近年の研究では先に述べた話は虚構ではないかと考えられてもいます。

物語に描かれている内容がどこまで事実に基づくものであるかはさておき、『伊勢物語』に描かれた「昔男」の、貴族として優雅で奔放に生き、色男で雅な様子のキャラクター像は後の平安文学に大きな影響を与えています。「色男」の代名詞として用いられることもあるほどです。

そんな「昔男」の物語の中から9段のから衣」の話の一部を紹介したいと思います。教科書で習ったことがある人もいるかもしれません。

  昔、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ、あづまの方

に住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけ利。道

知れる人もなくてまどひいきけり。三河の国八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひ

けるその沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもし

ろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑ

て、旅の心をよめ」といひければ、よめる、

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

とよめりければ、皆人、乾飯の上に涙おとしてほとびにけり。

〈訳〉
昔、ある一人の男がいた。その男は自分の身をこの世に不要のものと思いこんで、「都には住むまい。東国の方に住める所をさがしに行こう」というので出かけて行った。以前から友だちとしてつきあっている人一人二人と連れだって行った。道を知っている人もいなくてまよいながら行ったのだった。三河の国の八橋という所に行きついた。その場所を八橋といっていたのは、水が流れる川筋が蜘蛛の手足のように八方に分れているので、橋を八つ渡してあるので、そのために、八橋といったのだった。その沢のそばの木陰に馬からおりて腰をおろして、持ってきたお弁当の乾飯をたべた。その沢にかきつばたの花がたいそう晴れやかに心楽しくなるような風情で咲いている。それを見て、一行の中のある人がいうには、「『かきつばた』という五つの文字を五七五七七それぞれの頭において、旅をしている気持を歌によみなさい」といったので、
「からの着物をきつづけていると柔らかく身に馴染んでしまう。ちょうどそのようにいつも身近にいてよく親しみあって離れがたいつまが都には住んでいるので、その都をあとにはるかに遠くにやって来てしまったたび路の遠さをしみじみとやるせなく思うことだ。」
とよんだので、同行の人みんな、悲しくなり、お弁当の乾飯の上に涙を落して、乾飯が涙でふやけてしまったのだった。[vii]

この段は「昔男」が自分の身を「えうなきもの」に感じて東国に訪れた場面から始まります。何故、自分の身を「えうなきもの」に感じたのかは議論されています。中でも有力なのは、三、四、五、六段に描かれている二条后高子の許されぬ恋の痛手をおい、身を「えうなきもの」に感じ東国へと旅立ったのではないかという説です。都に対する未練を隠しきれぬまま、馴染みのない東国へ来た気持ちを歌った歌が「から衣〜」です。この歌の面白いところはそれだけでなく、かきつばたという五文字を五七五七七の頭において詠んでいる点です。

 「から衣 きつつなれにし つましあれ ばはるばるきぬる たびをしぞ思ふ」

この歌は『伊勢物語』だけでなく『古今和歌集』にも収録されており、在原業平が詠んだ歌とされています。今回紹介した話のようにそれぞれ段には和歌と、和歌が詠まれた状況が描かれています。

最後に『伊勢物語』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからない問題はしっかりと復習しましょう!)

  1. 『伊勢物語』のモデルとされているのは誰ですか。
  2. 『伊勢物語』の章段の冒頭は何から始まっていますか。
  3. 『伊勢物語』のジャンルは何物語ですか。
  4. 『伊勢物語』登場人物のいつから臨終までも描いた物語ですか。
  5. 『伊勢物語』において恋の相手として描かれる人物を一人答えなさい。

→次回は土佐日記について解説します!

(註)
  • [i] (825~880) 平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在中将と称される。阿保親王の第五子。歌風は情熱的で、古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」と評された。「伊勢物語」の主人公とされる。色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類でもてはやされた。家集「業平集」『大辞林 第三版』
  • [ii] 平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭つぐかげの女むすめ。中務なかつかさの母。宇多天皇の寵ちようを得て、伊勢の御ごと呼ばれた。歌は古今集・後撰集などに見える。生没年未詳。家集「伊勢集」
    姓氏の一。桓武平氏。鎌倉末、伊勢守に任ぜられた俊継に始まる。足利氏の近臣として室町幕府に仕え、政所執事を世襲。代々武家故実に詳しく、江戸の故実家伊勢貞丈はその子孫。『大辞林 第三版』
  • [iii] 阿部俊子『伊勢物語』上・下(講談社学術文庫)
  • [iv] 元服して初めて冠をつけること。初元結はつもとゆい。元服。ういかがふり。ういかぶり。ういかむり。『大辞林 第三版』
  • [v] 藤原高子。藤原長良の娘。清和天皇の女御となり、陽成天皇、貞保親王、敦子内親王の母となる。
  • [vi] (844~897) 文徳天皇の第一皇子。母は紀氏で静子。藤原良房を外祖父とする第四皇子惟仁親王(のちの清和天皇)の出生で皇太子につけず、大宰帥・弾正尹などを歴任後、比叡山の山麓小野に隠棲した。世に小野宮・水無瀬宮と呼ぶ。『大辞林 第三版』
  • [vii] 阿部俊子『伊勢物語』上・下(講談社学術文庫)
  • アイキャッチはHANGAR7から引用。

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