古代の外交に引き続き、封建時代の外交を理解していきましょう。封建時代(鎌倉~江戸時代)には、古代よりも多くの国が登場します。きちんと整理し、理解しましょう。
鎌倉時代
鎌倉時代の初期は、古代の外交で学んだ日宋貿易が続いていました。
しかし、日本が鎌倉時代に入って少し経った頃、世界ではある国が大きく力を伸ばしていきます。その国とは、元(げん)です。元は、当時世界の4分の1、中国からヨーロッパのあたりまでを支配していたモンゴル帝国が中国につくった王朝です。(ここは覚えなくて構いません。)
元の皇帝フビライ・ハンは、日本に対して「元に服従しろ」と命令する手紙を送ります。しかし、日本側はその手紙を無視します。無視したことで怒ったフビライ・ハンは、日本を征服するためにすでに服従させていた高麗(こうらい)と共に、二度にわたって日本に攻め入ってきました。このことを元寇(げんこう)または蒙古襲来(もうこしゅうらい)と呼びます。
1回目は3万人の軍が長崎県にある離島の対馬にやってきました。対馬を制圧した元軍は博多にたどり着き、一時は太宰府にもやってきましたが、なんとか追い返すことに成功します。約8年たった時、再び元軍が日本を襲ってきます。そのときはなんと10万人もの軍がやってきました。しかし、日本もなにも備えていなかったわけではありません。二度目の戦いに備えて20㎞もの長さの塀を海辺に作っていました。
そのため元軍は苦戦し、さらには7月だったということで神風(かみかぜ)が吹き荒れます。結果、元軍の船は沈没し、撤退することになります。
室町時代
平安時代に行われていた遣唐使の派遣以降、日本と中国大陸の国との間に国家と国家の取り決めによって行われる公式な貿易はされていませんでした。平清盛が行った日宋貿易のような個人的な貿易は続いていましたが、室町時代になって久しぶりに公式の貿易が再開されます。
その相手は明(みん)です。明は元から独立してできた国の名前です。明は朝貢(ちょうこう)という、唐が行っていた外交を復活させます。朝貢は、周辺の国が臣下として贈り物を渡し、その感謝のしるしとして様々な金品を渡す形式の外交です。
当時室町幕府を治めていた足利義満(あしかがよしみつ)としても、とても儲かると有名な明との貿易はぜひともしたいものでした。しかし、当時の日本の海には倭寇(わこう)と呼ばれる海賊がいて、治安が最悪の状態でした。そのためまずは倭寇を取り締まる必要がありました。
義満は倭寇の取り締まりに成功し、無事に明との貿易がはじまります。先ほども書いたように、明との貿易はとても儲かります。儲けたい人たちが日本の公式な使節団のフリをして明とやり取りをしてしまっては困ります。
そこで用意されたものが勘合符(かんごうふ)と呼ばれる札です。これは、文字の書かれ1枚の札を割って、明と日本で片方ずつ持っておくものです。貿易をする際には、この札をくっ付けて本物かを見極めます。
このように勘合を利用することから、日明貿易のことを勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼びます。16世紀になると、明以外の国との貿易も始まります。その国とは、ポルトガルです。
ポルトガルから伝わったものの代表が鉄砲です。鉄砲は、鹿児島県の種子島(たねがしま)にポルトガル人が乗った船が漂着したことで日本に入ってきました。
その後ポルトガルとの本格的な外交が始まり、様々なものが輸入されるようになります。そのポルトガル船に乗って日本に入ってきた人物が、スペイン人のフランシスコ・ザビエルです。ザビエルは日本にキリスト教を持ち込み、布教しました。
ポルトガルやスペインとの貿易は、南蛮貿易(なんばんぼうえき)と呼ばれます。南蛮貿易は九州の平戸や長崎を中心に行われました。
安土桃山時代
戦乱の続いた日本を治めて「天下人」となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、日本だけではなく、中国大陸の大国、明をも治めようと考えました。
明を治めるためにはまずは朝鮮半島を抑えなくてはならないと考えた秀吉は、朝鮮に日本に服従するように求めます。しかしそれを断られたため、2度にわたって朝鮮に攻め込みます。
1回目には15万人の兵と50丁以上の火縄銃を用意し、一時は首都を占領するまでに進軍しますが、朝鮮の民衆たちと、大砲を装備した船を操る水軍(すいぐん)の反撃を受けて休戦します。
休戦を経て和解の交渉が行われますが上手くいかず、秀吉は再び14万人の兵を出兵させます。この戦いは非常に苦戦し、さらに途中で秀吉が亡くなったことによって日本の兵は撤退することになります。
江戸時代
秀吉の後に天下を治めた人物が、徳川家康。家康は秀吉が朝鮮に出兵した時に参戦しなかったことでも有名です。
家康は、大名や商人たちにフィリピンやベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国との貿易をする許可を出す代わりに、その貿易で得た利益の一部分を幕府に納めさせました。その印として朱印状(しゅいんじょう)を発行したため、この貿易は朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)と呼ばれます。
なぜ東南アジアだったのかというと、秀吉が朝鮮に攻め込んだため、朝鮮と中国に行くことができなかったためです。朱印船貿易は30年ほど盛んに行われ、東南アジアに移住する日本人も増えていきました。移住した日本人たちは、東南アジアの各地に日本町をつくりました。
しかしその後幕府は、鎖国(さこく)をするようになります。鎖国とは、日本人が海外に行くことを禁止したり、海外の船が日本に来ることを制限したりした政策のことを指します。
この頃、室町時代に日本に入ってきたキリスト教が国内に広まっていきました。キリスト教の信者たちが団結して一揆を行うなど、幕府にとってキリスト教が危険な存在になってしまいます。これ以上キリスト教を広めてはならない!と考えた幕府は、海外の国との交流を大幅に縮小するために鎖国に踏み切りました。
とはいえ、いきなり鎖国をしたわけでも、すべての国との貿易を辞めたわけでもありません。まず1624年にスペイン船の、1639年にポルトガルの船の来航を禁止しました。1641年にはオランダの商館を長崎の出島に移し、出島でのみオランダと貿易できる形にしました。出島では、オランダのほかに中国との貿易もすることができました。また、朝鮮とは対馬を治める宗(そう)氏が貿易をし、将軍が交代する際には朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が来日する形での外交を行いました。
そこから200年ほどたった1853年、アメリカのペリーが黒船4隻を率いて、神奈川県の浦賀に来航します。協議の末一度は帰国してもらうも、わずか9か月後に再びペリーの船がやってきます。しかも今度は江戸湾に来航。幕府は抵抗することができなくなり、1854年に日米和親条約を結ぶことになります。日米和親条約によって下田港と函館港を開港することになり、200年あまりにわたった鎖国が終わりを迎えます。
この時に開港した下田の領事館に来たのがハリスです。ハリスは日本との貿易を拡大しようと試み、幕府は日米修好通商条約を結ぶことになります。この日米修好通商条約によって、幕府は下田と函館に加えて神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)、長崎を開港します。
さらに、治外法権を結ぶことになってしまいます。治外法権とは、「日本で犯罪を犯した外国人は、出身の国の法律で裁かなければいけない」という決まりです。この取り決めによって、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても、アメリカ人の領事がその人を裁くことになりました。このことを領事裁判権と言います。
さらにさらに、日本の関税自主権も許されませんでした。関税自主権は、物を輸入するときにつける関税の比率を決める権利です。当然アメリカは関税をゼロに設定したため、輸入品よりも高い日本の製品が売れなくなってしまいます。
このように非常に不平等な内容だったため、日米修好通商条約は不平等条約だと言われます。これから日本は、不平等条約を無くすために奮闘することとなります。その話は、近代の外交で学んでいきましょう。
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参考
1995年生まれ。東京都出身。
中高一貫の女子校出身で、高校時代は部活動で部長を務める他、学外で学生団体を立ち上げるなど活動。活動歴を活かせるかもしれないと、高校2年生からAO入試を視野に入れる。同時に、一般入試では早稲田大学を目指して勉学に励む。受験期の国語の偏差値は70以上で、センター模試では現代文・古文は常に満点。AO入試で慶應義塾大学総合政策学部に入学後は、研究会活動のほか、大学受験予備校や書店でのアルバイトに励む。専門分野はジェンダー学、倫理学(主にケアの倫理)、労働法。大学卒業後はコンサルティングファームなどを経て独立し、現在は予備校講師やライター、個人コンサルタントとして活動中。書店と映画館と美術館と歌舞伎座をこよなく愛し、芸術文化全般に関心を持っている。