江戸時代、幕府は儒学を推奨し、各藩の武士の子が勉強する藩校や、百姓や町人の子が学べる寺子屋などが出来ました。
また、江戸時代中期は徳川吉宗が洋書の輸入の規制を緩めたことからヨーロッパの進んだ学問を学ぶ蘭学が盛んになりました。同時に日本古来の文学を学ぶ国学も盛んになりました。
今回は様々な江戸時代の学問から儒学、蘭学、国学について説明していきたいと思います。
儒学
【補足】そもそも儒学とは?
中国の孔子[i]に始まる政治・倫理思想であり、主に士大夫[ii]が己を修めて人を治める学問でした。『日本書紀[iii]』によると百済[iv]から王仁[v]が孔子がとなえた内容を記した『論語』を伝え、日本にも儒学が伝来したとされています。
忠義・礼儀を尊ぶ儒学の教えを江戸幕府は推奨していました。幕藩体制が安定すると儒学の学問研究が盛んになり、様々な儒学者が現れ、朱子学派、陽明学派、古学派に分かれていきました。それぞれの学派と主な儒学者を説明していきます。
朱子学派
朱子学は中国、南宋の朱熹(朱子)によって築き上げられた儒学の一派です。敬を忘れず行を慎んで外界の事物の理を窮めて知を磨き、人格・学問を完成する実践道徳が後世官学として重用されました。江戸時代においても、幕府や藩に積極的に導入されました。
朱子学は元禄・享保の時代に全盛期を迎え、幕府の朱子学を中心に担っていたのは林家でした。徳川家康に登用された林羅山[vi]の孫である林鳳岡(信篤)は徳川綱吉によって大学頭に任じられます。以降大学頭は林家が世襲で就きました。大学頭を中心に湯島聖堂[vii]で学問研究を進め、幕府の文教政策に寄与しました。
一方、木下順庵[viii]が民間に向け朱子学を教え、新井白石[ix]などの門人を育てました。
陽明学派
中国、明の王陽明が唱えた儒学の一派。日本では中江藤樹[x]や熊沢蕃山[xi]が説いた。
古学派
朱子学、陽明学は宋代・明代に創始された学問ですが、古学派が重んじたのは孔子・孟子の古典的な儒学でした。主な古学派の儒学者は山鹿素行[xii]、伊藤仁斎などです。
蘭学
キリスト教を禁じ、鎖国状態であったため洋書が入ってくることは困難でしたが、徳川吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入制限を緩め、オランダを通じてヨーロッパの進んだ学問が入ってくるようになりました。幕府は積極的にオランダ語を学ばせました。
いち早く取り入れたのは、実学である医学でした。1774年(安永3年)前野良沢[xiii]、杉田玄白[xiv]らが解剖書『ターヘル=アナトミア』を翻訳した『解体新書』を出版した。仙台藩の大槻玄沢[xv]も西洋医学を学び、芝蘭堂という蘭学の塾を開き多くの門人を輩出しました。
国学
元禄期に『万葉集』の研究が始まり、その後『古事記』や『日本書紀』の研究へと発展した学問を国学といいます。古典の研究から日本古来の精神や古道を明らかにしようとしました。
国学の中心的な研究者が本居宣長です。本居宣長は『源氏物語』を研究し、「もののあはれ」を主張しました。本居宣長が著した『源氏物語』の注釈書、『源氏物語玉の小櫛』(1793年(寛政5年))の文中で「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心を知りて感ずるを、もののあはれを知るとはいふ」と記し、平安時代の文芸理念を「もののあはれ」と表現しました。
他には復古神道を大成した平田篤胤、『群書類従』を著した塙保己一がいます。
[註]
- [i] [前552~前479]中国、春秋時代の学者・思想家。魯(ろ)の陬邑(すうゆう)(山東省曲阜(きょくふ))に生まれる。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(おくりな)は文宣王。早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。弟子の編纂(へんさん)になる言行録「論語」がある。くじ。(小学館『大辞泉』)
- [ii] 中国で、士と大夫。のち、知識階級や科挙に合格して官職にある者をさした。(小学館『大辞泉』)
- [iii] 奈良時代の歴史書。最初の勅撰正史。六国史(りっこくし)の第一。30巻。舎人(とねり)親王らの編。養老4年(720)成立。資料として、帝紀・旧辞のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを広く用い、神代から持統天皇までを漢文の編年体で記したもの。日本紀(にほんぎ)。(小学館『大辞泉』)
- [iv] 古代朝鮮の三国の一。朝鮮半島西南部に拠った王国。4世紀半ばに部族国家の馬韓(ばかん)北部の伯済国が建国。都を漢城としたが、のち高句麗(こうくり)に圧迫され、熊津(ゆうしん)・夫余と変えた。建国当初より日本とは友好関係を保ち、日本に仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。(小学館『大辞泉』)
- [v] 古代、百済(くだら)から渡来した学者。応神天皇のときに「論語」「千字文(せんじもん)」を伝えたとされ、西文氏(かわちのふみうじ)の祖といわれる。生没年未詳。(小学館『大辞泉』)
- [vi] 1583〜1657 江戸前期の朱子学者。林家の祖 名は信勝,晩年出家して道春 (どうしゆん) と称した。京都の人。建仁寺で儒仏を学んだが,僧にならず藤原惺窩 (せいか) に師事。徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え,侍講となり,儀式・典礼・法令の調査制定や文書の起草にあたり,儒教的封建教学を樹立した。幕命により『本朝通鑑』を編集,ほかに『羅山文集』『本朝神社考』など。(旺文社『日本史事典』)
- [vii] 江戸中期,幕府が江戸湯島に建てた孔子廟 (びよう)1632年林羅山が上野忍ケ岡に建てた孔子廟を,’90年5代将軍徳川綱吉が湯島に移し,大成殿と称した。これに林家の私塾が付属していたが,寛政の改革の異学の禁で官立の昌平坂学問所となり,聖堂・学問所ともに林家が世襲経営した。現在文京区湯島に残る聖堂の建物は関東大震災後に再建されたもの。(旺文社『日本史事典』)
- [viii] [1621~1699]江戸前期の儒学者。京都の人。名は貞幹(さだまさ)。別号、錦里。松永尺五(まつながせきご)に学び、加賀藩主に仕え、のち将軍綱吉の侍講となった。門下に新井白石・室鳩巣(むろきゅうそう)・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)・祇園南海(ぎおんなんかい)らがいる。詩文集「錦里文集」など。(小学館『大辞泉』)
- [ix] [1657~1725]江戸中期の儒学者・政治家。名は君美(きんみ)。木下順庵の高弟。6代将軍徳川家宣(いえのぶ)に仕えて幕政に参与し、朝鮮通信使の待遇簡素化、貨幣改鋳などに尽力。著に「藩翰譜」「読史余論」「西洋紀聞」「古史通」「折たく柴の記」など。(小学館『大辞泉』)
- [x] [1608~1648]江戸前期の儒学者。近江(おうみ)の人。名は原。字(あざな)は惟命。日本陽明学派の祖。初め朱子学を修め、のち、陽明学を首唱して近江聖人とよばれた。熊沢蕃山・淵岡山(ふちこうざん)はその高弟。著「鑑草」「翁問答」など。(小学館『大辞泉』)
- [xi] [1619~1691]江戸前期の儒学者。山城の人。名は伯継。字(あざな)は了介(りょうかい)。別号、息游軒。中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕えた。晩年、政治批判で幕府に疎まれ、幽囚中に病死。著「大学或問(わくもん)」「集義和書」「集義外書」「源氏外伝」など。(小学館『大辞泉』)
- [xii] [1622~1685]江戸前期の儒学者・兵学者。会津の人。江戸に出て儒学・兵学・神道・仏教・歌学などを修め、古学を提唱した。官学の朱子学を批判して「聖教要録」を著し、播磨(はりま)の赤穂に流されたが、許されて江戸に帰った。著「配所残筆」「中朝事実」「武教全書」など。(小学館『大辞泉』)
- [xiii] 1723〜1803 江戸中期の蘭学者 豊前(大分県)中津藩医。青木昆陽に蘭学を学んだ。1771年杉田玄白らと江戸小塚原で死刑囚の解剖を見て,『ターヘル‐アナトミア』の正確さに驚き,玄白らと翻訳,1774年『解体新書』として刊行した。(旺文社『日本史事典』)
- [xiv] [1733~1817]江戸後期の蘭方医。若狭小浜藩医の子として江戸に生まれる。名は翼、字は子鳳、号は鷧斎・九幸。前野良沢らと「ターヘル‐アナトミア」を訳出し「解体新書」として刊行。西洋医学を広く紹介した。著「蘭学事始」など。(小学館『大辞泉』)
- [xv] [1757~1827]江戸後期の蘭学者。陸奥(むつ)の人。名は茂質(しげかた)、字(あざな)は子煥(しかん)。杉田玄白・前野良沢にオランダ医学とオランダ語を学び、長崎に遊学。著「蘭学階梯」「重訂解体新書」など。(小学館『大辞泉』)
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