以下は、本ブログのライター志望の私が、選考で課せられた課題「あなたが今までの人生の中で、説明が最も上手いと思ったエピソードについて書きなさい」というものについて答えるために書いた文章です。
Contents
「人生で最も上手い説明」とは?
「上手い説明」とは「わかりやすい説明」ではない
記事のお題は、「あなたが今までの人生の中で、説明が最も上手いと思ったエピソードについて」というものでした。私自身が最も上手くいった説明か、他人のした説明に「人生で最も上手い」と思った経験について書くことが求められています。
お題の中で2点重要な箇所があるといえます。1点目は「今までの人生の中で[…]最も」という箇所であり、2点目は、「説明が[…]上手い」という箇所です。
どうしてこの二つが重要なのか。2点目からいきましょう。ある説明が「上手い」ということはある説明が「わかりやすい」ということとは違います。例えば知らない人に道を聞かれて説明するとする。「ここから三つ目の信号を右に曲がって、少し歩くと看板が見えますよ」……この説明はとてもわかりやすいけど、上手いわけではないですね。どうしてでしょう。
それはこの説明が、たまたま片方の人がわからないある情報について教えているだけだからです。もう片方の人はその情報を持っている。持っているものを渡す。ものを渡すことには「丁寧さ」(これが「わかりやすい」です)はあるとしても「上手さ」はない(オリンピックとかで競えないですからね)。
「上手い」とはそれまでの理解が破壊されることである
「わかりやすい」と区別されて「上手い」が使われる場面としては、演技を評価するときが思いつきます。「あの女優さん演技上手いよね」と「あの女優さん演技わかりやすいよね」とは別物です。例えば「男の人に裏切られて泣く女」を演じるとして、わかりやすく演じるのならば「ああ、なんで私を捨てたの……」などと言いながら泣けばいいわけです。しかし、それではアマチュアでしょう。プロは、本当に上手い人は、そのようにわかりやすくはやりません。名女優ならば、むしろ「これが泣く女というものなのか!」と僕たちの理解が更新されるような仕方で泣くのです。「上手い」という言葉が漏れ出るのはその時です。
「上手い」という言葉が表しているのは、そこで、「自分は説明されている事柄について全く知らなかったのだ」ということが知らされると共に、その知らなかったもの、言葉にできない何ものか、感動するような何かを相手が示しているように見える瞬間の経験の質です。
しかし、お題を出した人が「上手い」という言葉をここまで考えて使っているのかはわかりません。僕が「上手い」と「わかりやすい」をわざわざ区別してきたのは、普段はそれがごちゃ混ぜに使われているからです。そのようにごちゃ混ぜに使ったかもしれない。それでも、お題の文章で使われている「上手い」が「わかりやすい」と区別したうえでのものなのかどうかは、何を書けばよいかということに関して決定的です。というのは、先の「上手い」女優さんのように、「上手い」説明は「わかりやすい」わけではないということがあるからです。そこでこの区別の有無を考えるのに、お題のもう一つの注目すべき点を見ましょう。
「人生で最も上手い説明」とは何か
「今までの人生の中で[…]最も」という点がそこでした。「上手い」=「わかりやすい」の場合、「人生で最も上手い説明」というのはありふれてしまうのではないでしょうか。先の道案内だって「上手い説明」になるでしょうし、ハンバーグの作り方をパソコンで調べたって「上手い説明」は出てくるでしょう。「人生で最も」……。ハンバーグの作り方とお店への行き方とをどう比べればいいのでしょう!
同じお題で文章を頼まれたある人は「説明が最も上手いと思った」ことなんてないから自分が経験した最も下手な説明について書いたそうです。おそらくその人が書くのに困ったのも「上手い」=「わかりやすい」という理解でいたためでしょう。その上で、文章を丁寧に読み答えようとすると、「上手い」説明はいっぱいあるが「人生で最も」なんてものはないという結論に辿り着くのです(同様の理屈で「人生で最も下手な説明」というものも考えづらいのですが、説明は基本わかりやすいものなので、わかりづらい説明は数が少なく「人生で最も下手」として経験できたのでしょう)。
したがってお題が成立するためには、「わかりやすい」とは異なるものとして上で示した「上手い」を考えなくてはなりません(そしておそらく、お題を出した人が「わかりやすい」ではなく「上手い」と書いたのも「人生で最もわかりやすい」という表現との合わせ方に違和感があったからではないでしょうか)。その「上手さ」は、自分の理解を覆すような仕方で、言葉にできないあるものを示し、その示すことによって感動が生み出されるような質なのでした。その革命性のゆえに「上手い説明」は「人生で最も」ということが考えられるくらい、記憶に残るもの、衝撃的なものであり「エピソード」たりうるのです。
「うまい説明」と僕達はいつ出会えるのだろう?
さて、ここまでは下準備(でも何について書けばいいか考えるために必要なものでした)。ここからは僕が出会った「最も上手い説明」について書きます。その「最も上手い説明」が僕に教えてくれたのは、ちょうど「上手い説明というのがいかにして起きるか」ということなのでした。説明についての説明。だんだんややこしくなってきましたね(ですが、ここまでの内容と以後の内容とは連続しているということも同時に言えるわけです。そういう意味ではわかりやすいかもしれません)。
先生とは査定できないものである
それでは、どうしたら「上手い説明」に——もう一度確認すると、それまでの理解を無に帰すような言葉にしようのないものについての衝撃的出会い——にありつけるのか。僕の出会った「説明」は、一冊の本なのですが、タイトルですでにその答えを示してくれています。『先生はえらい』(内田樹著)。
初めてこの本を見かけた時には、今このタイトルを見たあなたもそうかもしれませんが僕もイライラしました。「先生」にえらいもえらくないもないだろう、代金を払って、その代金に見合う分のサービスを受け取っているだけなんだから……。
しかしこの「先生」観が罠なのです。内田が指摘するように、ここでは「先生」に対する銭勘定、「査定」が起きています。そして「査定」には評価基準が必要です。それは先の道案内の例だったら「自分が知らない道を知っているかどうか」だったりするのですが(知らない人間に道を聞こうとしても時間の無駄なわけです)、「上手い説明」(内田の言い方ならば「本当の意味の学び」)が標的にしているのはそこではありませんでした。
「上手い説明」では、ちょうど、私がわかっていると思っていた事柄の理解(「泣く女」というのはこういうものだろう)が崩される。ですから私は「上手い説明」をくれる先生と出会う時には「この先生からこれを教わろう」というふうには会わないのです。予想しなかったところで、予想しなかった事柄についての先生に会う。したがって「査定」はできません。
「上手い」とは誤解の経験であり、愛の経験である
同時にそれは「えらい先生」がどこかに客観的な仕方でいるわけではないということを意味します。「上手い説明」をしてくれる人と会うためには聞く側の主観的な態度が必要なのです。主観的な態度として「先生はえらい」と思った時に何が起きるか? 内田は、そこで起きることを「誤解」と表現します。
「先生はえらい、この先生の言っていることには何か隠された意味があるに違いない、私にはまだわからないような何かがある」、そうした主観的な誤解からしか「上手い説明」は生じ得ません。それは今問題になっている「上手さ」というのが、言語によって言語外のことを表現するということだからです。そんなことはできるはずがない、それなのに、できるはずのないことがあたかも起こってしまっているかのように私は信じている。この主観性!
「上手い」という経験が主観的であり、言語外のことゆえ他の人とは簡単に確かめ合うことができないということからは、その説明の効果を考えることもできます。この言語外の経験を「先生」から真にしてしまった私には、「えらい先生」に真に出会ってしまった私には、それが私にしか起こり得ない経験である以上、「先生」の「えらさ」を証立てる義務がある。自分が出会った、今は言葉にできないものについて言葉にしようとし続ける必要がある。その必要性が人を無限の学びに駆り立てるのです。
内田自身が比較しているように、これは恋愛の経験と似ています。愛する誰かと出会った時に私が経験するのは、言葉にしきれるような何かではない。言葉にならないような何かがあるから、先生を「えらい」と思った瞬間に経験するものと同じ何かをそこでも経験してしまうような「都合のいい」(?)動物だから、人間は、愛する人に語り続けるのですし、愛する人を語る自分の言葉を補うようにその人のことをもっと知ろうとするのです(内田は、「もう、わかったよ」という、コミュニケーションが成立してることを伝える言葉が別れの言葉であることを指摘しています。言葉が足りてしまった、私の中で理解しきれるものになってしまう瞬間に、ある人への愛は終わり、その人は「上手い説明」をくれる「先生」でもなくなるのです)。
「上手い説明」ができる先生になるには?/それに出会える生徒になるには?
「上手い」先生の説明はわかりづらい
ちょうど尽きせぬ愛のように終わることのない学びに駆り立てるものこそ「上手い説明」なのだとすれば、それを与えられるような「先生」になるのにはどうすれば良いのでしょうか。
まず重要なのは、生徒に対してそのような学びの存在を提示することでしょう。往々にして生徒は「道案内」式に勉強を捉えている。つまり知る・知らないの水準、知ったら終わるという水準で勉強を捉えている。ここでは「上手い説明」は成り立ちようがありません。
内田が「先生のえらさ」について考えた人物として挙げているジャック・ラカンは、あえて自分が講義で回りくどい仕方で話していると語っています。自身が簡単な仕方で話してしまったらどうしようもない誤解が生まれてしまうだろうというのです。つまり、自分の言うことだけに寄りかかって出席者が自分で考えるということがなくなってしまう。これは僕たちの基準では「下手」な説明なのです。
わかりやすい説明は「下手」な説明なのです。それはその説明が、本当の意味での学びから生徒を遠ざけてしまうからです。「先生」はむしろ生徒が自分の力で学ぶようにさせなくてはいけない。自分の目標のために(そしてその目標を超えた無限の学びのために)「先生」はもはや不要だという状態にさせなければいけません。意味あるものとして(「えらい」言葉として)謎を与え、それによって、生徒を無限の学びの道に立たせ、そして捨てられる先生こそが「上手い説明」の出来る「先生」といえましょう。
「上手い」生徒とは誤解の天才である
それでは「上手い説明」を誰かからもらうためにはどうすればいいのでしょう。もちろん、「説明」の後にこそ主観的な衝撃や問いが立つのですから、学びの終わりのなさを理解することが重要です。同時に重要なのは、わかりづらい説明にこそ何かがあるかもしれないという予感です。それがない限り、先ほど退けるべきだと語った「査定」の態度に人はどうしてもなってしまいます。むしろわかりづらい仕方で精一杯話そうとする人にこそ、そのどもりの中にこそ、言葉にならない何かが隠されているのではないか。そうした誤解の才能が「上手い説明」に与かるためには欠かせないのです。
衝撃の中で「上手い説明」を経験した人は、その説明の中にある言語化しえないものを言語化しようとし続けるという話を何度もしました。それはちょうど愛の言葉が失敗し続けて、それゆえに終わることがないというのと同様のことでした。だとすれば、僕がいま自身の経験した「上手い説明」について語ろうとするこの文章もまた、言語化しきれず、失敗しているかもしれません。しかし、そのことこそが、私が出会った「説明」が、ありふれた、簡単に反復できてしまうようなものではなく、「今までの人生の中で経験した最も上手い説明」であるということを証しているのではないでしょうか。そして私はこの「説明」についての説明の試みに失敗し続けなければならない。
(ライター:菊池)
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参考
東京大学文科III類出身、現在は哲学系の学科にいます。
数学の記事のほか、専攻に近づけて「勉強論」みたいなこともこれから書いていきたいと思っています。
読書のほか、昔のアメリカ・フランス映画を観たり、料理したりするのが好きです。いつの間にかつまらなくなった勉強の中に、新しいことを知ったり、できるようになった時のうれしい気持ちが戻ってくるような記事を書きたいです!