日本人なら知っておきたい文学作品!藤原道長の栄華を描く『栄華物語』

平安後期の歴史物語である『栄華物語』は、初めの30巻から成る“正編”と終わりの10巻から成る“続編”という構成でできています。宇多天皇[i](59代天皇)から堀河天皇[ii](73代天皇)の1092年(寛治6年)2月まで、つまり、15代にわたる200余年間の宮廷貴族社会の歴史を編年体で記述しています。「編年体とは歴史の記述形式の一つで、年代ごとに事績を書き記す形式です。これは中国の歴史書の形式に倣ったものであり他には『日本書紀』なども編年体が使われています。

『栄華物語』は、養老4年頃 (720年) 成立したとされる『日本書紀[iii]』や『日本書紀』含む六国史[iv]などと同じような歴史書ではなく、歴史物語であるので創作、物語性はかなり強いものとなっています。また、初の仮名書きの歴史物語でもあります。そのような物語性、栄華を極めた藤原道長に対する賛美の側面が大きいことなどから正編の作者は藤原道長の妻倫子[v]に仕えた赤染衛門、続編の作者は藤原道長と倫子の娘である中宮威子[vi]に仕えた出羽の弁をはじめとした女房らではないかと考えられています。

では、『栄花物語』の内容に入る前に作者とされている赤染衛門出羽の弁の2人の女房について解説したいと思います。

赤染衛門平安時代の歌人であり、三十六歌仙[vii]の一人です。藤原道長の妻である倫子に仕え、その後藤原道長と倫子の娘である彰子に仕えました。父は赤染時用だとされていますが、母の前夫平兼盛[viii]が父ではないかとも言われます。大江匡衡[ix]と結婚し、二度の尾張(現在の愛知県の西半分に当たる)への赴任に同行しています。良妻賢母としての逸話が多く、歌人として歌合[x]屏風歌[xi]などを得意とし、『後十五番歌合』『鷹司殿倫子七十賀屏風歌』の作者とされています。大江匡房[xii]は曾孫にあたり、大江匡房が生まれた頃まで長生きした(80歳余りで没か?)とされています。同じく彰子に仕えていた、紫式部や和泉式部などとも交流があり、『紫式部日記』内で赤染衛門の和歌の才を評価されている記述もあります。

出羽の弁も同じく平安時代の歌人であり、父は平季信、夫は源資定です。中宮彰子に続き中宮威子に仕え、その後はその娘である章子[xiii]馨子内親王[xiv]にも仕えました。『栄花物語』の本文中に出羽の弁について「いとをかしうすき者なるものから、有心なる」[xv]と評する記述があり、信頼される女房であったことがうかがえます。

 

では、内容を簡単に見てみたいと思います。
正編では、主に藤原道長が政権争いに勝って栄華を極めるまでを詠嘆的に捉え、賛美しています。また、賛美しつつも、藤原道長の仏事や子女の出家など人生の悲哀も描かれます。

藤原道長の栄華を描きながらも政治色はあまり強くなく、その内容は貴族社会の華麗な行事や風俗が中心となっています。続編は、正編における藤原道長のように主体となるテーマがないため、正編よりもさらに一般的な宮廷生活の日常に筆が割かれています。

『栄華物語』以降、『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』と歴史物語が編纂されていきます。『栄華物語』が女房らによる優美な歴史物語だったのに対し、以降の歴史物語は男性の手による政治色の強い歴史物語になっていきました。

最後に『栄華物語』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 『栄華物語』のジャンルは何ですか。
  2. 『栄華物語』はどんな形式で記述されていますか。
  3. 『栄華物語』は何天皇から何天皇までの時代を収録していますか。
  4. 『栄華物語』の作者とされる女房を2人こたえなさい。
  5. 『英華物語』は誰の英華について描いていますか。

→次回は堤中納言物語について解説します!

(註)
  • [i] (867~931) 第五九代天皇(在位887~897)。光孝天皇の皇子。名は定省さだみ。親政を行おうとしたが、関白藤原基経に阻まれた(阿衡あこう事件)。基経の死後は菅原道真を起用して摂関政治の弊害を改めるのに努めた(寛平の治)。のち、出家して寛平法皇・亭子院ていじのいんと称した。子の醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」、日記「宇多天皇御記」がある。三省堂『大辞林 第三版』
  • [ii] 1079‐1107(承暦3‐嘉承2)。第73代に数えられる天皇。在位1086‐1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。白河天皇の次の東宮には父後三条院の意志で白河天皇の弟実仁親王が立ったが,後三条院は実仁の次にはその弟輔仁をという意向であったと伝えられる。1085年(応徳2)実仁親王が病没すると白河天皇は輔仁親王を東宮に立てず,翌年8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位して院政を開始した。平凡社『世界大百科事典』
  • [iii] 漢書・後漢書などの中国正史にならって「日本書」を目指した日本最初の勅撰の歴史書。六国史の第一。三〇巻。舎人とねり親王ら撰。720年成立。神代から持統天皇までの歴史を、帝紀・旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して、漢文・編年体で記述したもの。日本紀。三省堂『大辞林 第三版』
  • [iv] 日本古代,律令国家によって編纂された正史の総称。《日本書紀》《続日本紀(しよくにほんぎ)》《日本後紀》《続日本後紀》《日本文徳天皇実録》《日本三代実録》をさし,神代から光孝天皇の仁和3年(887)に至る。編年体の体裁をとるが,死去の個所にその人物の伝を載せるなどのことにより,中国正史の史体である紀伝体の特色をも取り入れている。後になるほど,史書としての体裁や叙述の方法に整備が見られ,また歴代天皇の実録としての性格を強めるが,官府の史書としての性格から,編纂者の個性が歴史叙述の上に現れることはまれである。平凡社『世界大百科事典』
  • [v] 964-1053 平安時代中期,藤原道長の妻。康保(こうほう)元年生まれ。源雅信の娘。母は藤原穆子(ぼくし)。藤原頼通(よりみち),教通(のりみち),彰子(一条天皇中宮),妍子(三条天皇中宮),威子(後一条天皇中宮),嬉子(敦良(あつなが)親王妃)を生む。従一位,准(じゅ)三宮。鷹司殿とよばれた。天喜(てんぎ)元年6月11日死去。90歳。『日本人名大辞典』
  • [vi] 1000*-1036 平安時代中期,後一条天皇の中宮(ちゅうぐう)。長保元年12月23日生まれ。藤原道長の娘。母は源倫子。寛仁(かんにん)2年(1018)入内(じゅだい)。同年女御(にょうご),ついで中宮となる。このとき道長は彰子,妍子とともに一家から3人の后がたった喜びを,有名な望月の歌によんでいる。章子内親王(二条院),馨子(けいし)内親王を生んだ。長元9年9月6日死去。38歳。名は「たけこ」ともよむ。『日本人名大辞典』
  • [vii] 藤原公任きんとうの「三十六人撰」に名をあげられた歌人。三省堂『大辞林 第三版』
  • [viii] (?~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の玄孫。駿河守。後撰集時代有数の歌人。「天徳四年内裏歌合」の詠者。家集に「兼盛集」がある。 三省堂『大辞林 第三版』
  • [ix] (952~1012) 平安中期の学者・歌人。維時の孫。妻は赤染衛門。文章もんじよう博士・東宮学士。一条天皇の侍読。著「江吏部ごうりほう集」、家集「大江匡衡朝臣集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [x] 歌を詠む人が集まって左右に分かれ、一定の題で双方から出した歌を順次つがえて一番ごとに優劣を競う遊び。平安初期に発生し多分に社交的・遊戯的であったが、平安後期頃から歌人の力量を競う真剣なものとなり、歌風・歌論に大きな影響を与えた。左右に分かれる参加者を方人かたうど、優劣の判定を下す人を判者はんじや、その判定の語を判詞はんし・はんじという。うたくらべ。三省堂『大辞林 第三版』
  • [xi] 〘名〙 屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌。屏風にはられた色紙形に書く。 『精選版 日本国語大辞典』
  • [xii] (1041~1111) 平安後期の学者・歌人。江帥ごうのそつ・江都督ととくなどと称される。匡衡まさひらの曽孫。大宰権帥。後三条・白河・堀河三帝の侍読。故実に通じ、文才にすぐれた。著「江家次第」「江帥集」「本朝神仙伝」「江談抄」三省堂『大辞林 第三版』
  • [xiii] 1027*-1105 平安時代中期,後冷泉(ごれいぜい)天皇の中宮(ちゅうぐう)。万寿3年12月9日生まれ。後一条天皇の第1皇女。母は藤原道長の娘威子(いし)。万寿4年内親王,長暦(ちょうりゃく)元年皇太子親仁(ちかひと)親王(のちの後冷泉天皇)の妃,寛徳2年女御(にょうご),永承元年中宮。治暦(じりゃく)4年皇太后,翌年出家,太皇太后。承保(じょうほう)元年院号をうける。長治(ちょうじ)2年9月17日死去。80歳。名は章子。『日本人名大辞典』
  • [xiv] 1029-1093 平安時代中期-後期,後一条天皇の第2皇女。長元2年2月2日生まれ。母は藤原威子(いし)。永承6年(1051)尊仁(たかひと)親王(後三条天皇)の妃となり,延久元年(1069)中宮。5年後三条天皇の出家とともに尼となったが後宮にのこり,6年皇后。西院皇后とよばれた。寛治(かんじ)7年9月4日死去。65歳。『日本人名大辞典』
  • [xv] 『日本古典文学全集 栄華物語』

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参考文献