【社会・歴史】日本と中国・朝鮮半島の交流史をおさえよう④〜鎌倉時代・蒙古襲来編〜

894年に遣唐使を廃止して以降、正式な国同士の国交は行われていませんが、私的な交易は平安時代、鎌倉時代を通して行われていました。今回は鎌倉時代の蒙古襲来についてくわしくみていきます。 

モンゴル帝国

東アジアの情勢からみていきましょう。 

10世紀頃から、中国大陸北部の遊牧民の活動が活発になっていきます。内モンゴルから中国北部にかけて支配していた遊牧民、契丹[i]が遼[ii]を建国し、北満州には女真[iii]が金[iv]を建国します。勢力争いを繰り広げていた遼と金でしたが1125年に金が遼を滅ぼします。 

モンゴル民族は諸民族が存在していましたが、部族の長の子として生まれたテムジンが諸部族を統一し、チンギス=ハーンと称するようになります。その後も勢力を拡大させ、中央アジアや北西インド、南ロシアにまで広がる広大なモンゴル帝国となっていきます。 

チンギス=ハーンの孫であるフビライ=ハーンはモンゴル帝国の五代目となった1271年に、国号をと称し、都を大都(現:北京)に遷都します。 

蒙古襲来(元寇

フビライ=ハーン率いるモンゴル帝国は中国大陸にも勢力を伸ばし、南宋[v]に侵攻し、1276年に滅ぼします。そして南宋と朝貢外国の使者が中国の朝廷に貢物をし、その地域を統治することを承認してもらうこと)関係にあった地域にも派兵して支配下に入れていきました。 

朝鮮半島高麗を支配した、フビライ=ハーンは、高麗を仲介として日本に国書を送り、朝貢を求めました。その当時、鎌倉幕府の実権を握っていたのは第8代執権の北条時宗[vi]でした。時宗は返書を送らず、朝貢を拒絶しました。 

文永の役

拒絶されたため、フビライ=ハーンは、1274年に元・高麗の連合軍で上陸します。九州の御家人らがこれを迎え撃ちますが、元軍の集団戦法てつはうと呼ばれる火薬の武器に苦戦します。しかし、暴雨風により元軍の兵船が沈没し、大きな損害が出た結果、元軍は退却します。 

弘安の役

退却したものの日本への侵攻を諦めないフビライ=ハーンは、1275年に更に使いを送りますが、時宗は応じないどころか、使いを切り殺してしまいます。そして御家人に九州を警備する異国警固番役を設け、襲来に備えます。 

フビライ=ハーンは、1281年に二度目の兵を日本に派遣します。準備をしていた御家人らは奮闘しますが、今回も暴風雨に見舞われ、元軍の兵船の大半が沈没し、損害をこうむってしまいます。 

三度目の襲来が来るのかどうかもわからない状況のため、鎌倉幕府は引き続き、九州の警備を続けていました。 しかし、三回目の元の襲来はありませんでした。

【注】

[i] 内モンゴルのシラムレン川流域からおこり,遼 (りよう) を建国したモンゴル種族の一分派。北アジアの遊牧民の間ではキタイ(Kitai)またはその複数形のキタン(Kitan)で呼ばれた。10世紀初め耶律阿保機 (やりつあぼき) がこの部族を統一して中国北部を領有,契丹国(のちに遼,916〜1125)を建国した。領土は満州・モンゴル・華北にまたがる。女真族の金に滅ぼされたが,耶律大石 (やりつたいせき) は西走して中央アジアに西遼(黒契丹・カラ−キタイ,1132〜1211)を建てた。(旺文社『世界史事典』)

[ii] 916〜1125 契丹 (きつたん族の建てた国。東モンゴルのシラ−ムレン川流域からおこった遊牧民国家で,太祖耶律阿保機 (やりつあぼきのとき建国。東は中国東北部,西は内モンゴルまでを領土とし,臨潢府 (りんこうふ) に都した。926年に渤海を滅ぼし,936年に後晋の建国支援の代償として華北の燕雲十六州を領有。諸制度が整い中央集権的体制が確立するとともに,北宋とは淵淵 (せんえん) の盟を結んで優位にたち,平和を維持した。契丹人らには部族制を,漢人らには州県制を適用する二重統治体制をとり,独特の契丹文字を作成する一方,漢文化も吸収した。女真人の金に滅ぼされたが,一族の耶律大石は中央アジアに西遼を建てた。(旺文社『世界史事典』) 

[iii] 10世紀以来,中国東北地方の北東部から沿海州方面に住んだ半農半猟のツングース系民族。女直 (じよちよく) とも書く。ジュルチンの音訳で,粛慎 (しゆくしん) ・靺鞨 (まつかつ) もこれと同系。10世紀以後,遼 (りよう) に支配され,12世紀初めに完顔 (ワンヤン) 部の族長阿骨打 (アグダ) が諸部族を統一して金を建てた。さらに第2代太宗のときに遼を滅ぼし華北に侵入,南宋と対立した。1234年金がモンゴルに滅ぼされたのち,分裂して元・明の支配を受けた。16世紀の末,日本による朝鮮出兵によって明の女真に対する統制がゆるみ,17世紀建州女直の族長ヌルハチが諸族を統一して後金国を建国,満州族と称し,清(後金を改称)の基礎をつくった。(旺文社『世界史事典』)

[iv] 1115〜1234 中国を支配した北方民族の王朝。女真族の完顔阿骨打 (ワンヤンアグダ) (太祖)が会寧を都に建国,2代太宗は1125年遼 (りよう) を,27年北宋を滅ぼした。3代熙宗 (きそう) は南宋に臣礼をとらせ,4代海陵王は燕京(現在の北京)に都した。6代世宗は国制を整え,全盛期を迎えた。8代宣宗のとき,開封に遷都しやがて滅亡。金は猛安 (もうあん) ・謀克 (ぼうこく) 制や女真文字の創始など,民族の独自性を固守しようとしたが,中国文化に同化され,13世紀モンゴルによって滅ぼされた。(旺文社『世界史事典』) 

[v] 1127〜1279 宋の後半期の呼称。金の侵入(靖康の変,1126〜27)によって北宋の一族(高宋)が江南の杭州(臨安)に都を移した以後をいう。その後も金の圧迫に悩むが,主戦派を抑え,和平の道を選び,金と金君宋臣の和議を結ぶ(1142)。淮水が国境となって国土は半減したが,江南を開発し,経済的には繁栄した。1279年,侵攻してきたフビライの元軍に厓山の戦いで破れ,南宋は滅んだ。(旺文社『世界史事典』) 

[vi] 1251〜84 鎌倉幕府第8代執権(在職1268〜84)時頼の長子。相模太郎と称す。1264年連署,翌年相模守に任ぜられ,’68年18歳で執権となる。元寇に際し,元使を斬り西国の防備を固め積極的に対外強硬策をとり,元軍来襲に際しては在九州の非御家人をも動員し国難に対処した。国内政治においては武家社会の動揺の中で得宗専制への動きをみせた。また禅宗を信じ,無学祖元を宋より招き円覚寺を建立した。(旺文社『世界史事典』) 

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