織田信長、豊臣秀吉に次いで全国統一を目指し、戦国時代を終わらせ、江戸幕府を開いたのは徳川家康でした。今回は年表をもとに徳川家康の幕藩体制への歩みをみていきましょう。
徳川家康は、天文11年(1542年)に三河(現:愛知県)で生まれます。父は松平広忠。家康の家は今川氏の庇護下にあり、家康は6歳の時に人質として駿府の今川氏に送られます。
駿府で育った家康は、16歳で今川氏一門の娘(築山殿)と婚姻します。
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永禄3年(1560年)桶狭間の戦い
今川義元と織田信長が合戦をし、今川義元はこの戦いで頓死します。今川義元の頓死により、人質を解かれた徳川家康は西三河を支配下に入れ、織田信長と同盟関係になります。
織田信長の徳川家康
信長と同盟関係になった家康は、信長側の勢力として姉川の戦いに出陣し、その後は武田軍の西方進出を防ぐ要となりました。しかし、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは武田信玄に惨敗します。武田軍との戦いは天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍に大勝し終わりを告げ、褒賞として家康は駿河一国を与えられます。
天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が自害した後、家康は信長の後継者争いで豊臣秀吉と対立していきます。
豊臣秀吉と徳川家康
信長の後継者を巡って秀吉は三法師(信長の嫡孫秀信)をたて、柴田勝家は信長の三子神戸信孝をたて、対立します。対立する両者は、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで争い、柴田勝家は戦に負け、自害します。
その後、天正12年(1584年)家康は信孝を支持する連合軍を作り、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦になります。しかし、戦局が拘泥したため、和睦を結びます。
そして秀吉は家康に対し、妹を嫁がせるなど策をろうして天正13年(1586年)家康は秀吉に臣従することとなります。天正18年(1590年)には、北条氏滅亡後の関東に移封されます。関東の地で力を蓄え、文禄・慶長の役でも活躍した家康は、慶長3年(1598年)秀吉の死後とうとう頭角を表していきます。幕藩体制を成立させていく過程を順にみていきましょう。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
秀吉の死後、家康は豊臣政権を支えてきた石田三成、小西行長、毛利輝元らと対立します。石田三成、小西行長、毛利輝元、西国の大名からなる西軍が兵をあげ、徳川家康率いる東軍は福島正則や加藤清正らを味方にし、美濃(現:岐阜県)の関ヶ原で激突しました。この戦を関ヶ原の戦いと言います。戦国時代に終わりを告げることとなったこの戦いは天下分け目の戦いとも言われます。
関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康は、石田三成・小西行長らを京都で処刑し、西軍の諸大名を改易や減封に処しました。改易は領地没収のこと、減封は領地を削減することをさします。
慶長8年(1603年)征夷大将軍の宣下
家康は征夷大将軍の宣下をうけ、江戸に幕府を開きます。そして2年後の慶長10年(1605年)子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせ、世襲制であることを知らしめました。子に譲り駿府(現:静岡県)に引退するも、依然として政府の実権は家康の手中にありました。
江戸幕府を開いた以降も大阪城にいる秀吉の子豊臣秀頼の反逆を恐れた家康は、慶長19年(1614年)の方広寺事件を理由に、同年大阪冬の陣を起こします。一旦和議を結んだ両者でしたが、翌年元和元年(1615年)大阪夏の陣を起こし、豊臣家を滅亡させます。
以降家康は幕藩体制の基礎を築いていきます。
徳川三代将軍と幕藩体制についてはこちら⇨【中学受験】社会・歴史〜徳川将軍三代の政治これだけはおさえておこう!
まとめ
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦い |
天正3年(1575年) |
長篠の戦い |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦い |
天正13年(1586年) |
徳川家康、豊臣秀吉に臣従 |
天正18年(1590年) |
北条氏滅亡後の関東に移封 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い |
慶長8年(1603年) |
征夷大将軍の宣下 |
慶長10年(1605年) |
子に譲り駿府(現:静岡県)に引退 |
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