ここでは漢王朝崩壊後の中国がどのような歴史を辿ったのか、そして東アジアから黒海周辺までの地域に広がる遊牧民や定住民が、どのようにアジア世界の形成に関わってきたのかを確認します。今回学習する魏晋南北朝時代は、隋による統一までの400年足らずの間に数々の王朝が興亡する中国の分裂期を指しますが、中国社会の多元化を背景とするこうした分裂を学ぶにあたっては、南北王朝の関係や周辺民族との間の国際関係をしっかりと整理しておく必要があります。
ここで中国分裂の流れとそれぞれの時代の要点を押さえて、今後の学習に役立てていただければ幸いです。それでは、最後の確認テストで高得点を取れるよう頑張りましょう!
中国の分裂と内陸アジア・東アジア世界の形成
Contents
漢帝国から魏晋南北朝時代へ
中国分裂の背景
184年、張角によって起こされた黄巾の乱をもって漢帝国が崩壊すると、中国は長い分裂の時代へと向かってゆくが、その背景に挙げられるのが中国社会の多元化・多様化である。これまで文化や政治の中心となっていた長安や洛陽といった黄河周辺の地域に限らず、他の地方でも発展が遂げられるようになったこと、匈奴や鮮卑といった漢王朝の周辺民族が自立し、新たな中国文化の発展に一役買うようになったこと、そして宗教や文化の発展といった中国社会の拡がりは、漢王朝滅亡後の約370年間の分裂時代の要因と考えられている。
群雄割拠の時代へ
後漢王朝の衰退とともに豪族勢力が力を持つようになった。特に、その力を軍閥勢力にまで発展させ、洛陽に乗り込んでたくさんの宦官を殺害した豪族の一人、袁紹は強い力を誇っていたが、この袁紹を破って覇者となり、華北を統一したのが曹操であった。曹操は208年の赤壁の戦いで孫権と劉備に敗れたため天下統一とはならなかったが、曹操の死後、220年には子である曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝(220~265年)を創設した。続いて蜀の劉備、呉の孫権もそれぞれの国の皇帝として即位し、280年の晋による中国再統一まで三国時代と呼ばれる群雄割拠の時代が続いた。
※禅譲とは:
血統によらず、天子の位を有徳者に譲り、平和裏に王朝が交代すること。このような君主交代の方法は儒家によって理想視された。
〔劉備(蜀初代皇帝 在位221年~223年)〕
晋の中国統一と北方民族
三国時代を平定し、新たに興った王朝が晋である。司馬炎(武帝)は、蜀を滅ぼした魏を倒し、晋を建てると、280年には呉を滅ぼして中国を再統一した。しかし、統一してからわずか10年後に始まる皇室諸王の反乱、八王の乱によって晋は内乱状態となる。
群雄割拠の時代にはすでに、各軍閥と関係を結ぶようになっていた匈奴や鮮卑、氐や羌といった周辺民族も、晋の時代以降の中国史においては、より一層の活躍を見せるようになる。匈奴の劉淵は自ら漢王を名乗り、311年に永嘉の乱を起こして洛陽に侵攻するなどして晋王朝を滅ぼした。
しかし、一旦滅んだ晋は318年に司馬睿(元帝)によって再建された。晋王朝は司馬炎によるものと司馬睿によるものを区別するため、洛陽・長安に都がある晋を西晋(265~316年)、建康(現在の南京)に都が置かれた晋を東晋(317~420年)と呼ぶ。司馬睿による晋の再統一以降は、南部を東晋が占める一方で、永嘉の乱で晋の支配下ではなくなった華北では諸民族による相次ぐ自立がみられるようになり、この時代は五胡十六国と呼ばれている。
アジアの遊牧民と定住民
<遊牧民>
黒海北岸からモンゴル高原にかけて東西に広がる大草原の地域は、古くから遊牧民の国家が興亡する場所であり、こうした騎馬遊牧民は世界史において重要な役割を持っていた。草原や砂漠がほとんどを占める内陸アジアでは、人々は羊や馬、ラクダなどの家畜とともに草と水を求めて季節的移動を繰り返し、遊牧と狩猟により生活を営んだ。
馬具や武器の登場とともに、周辺民族への略奪・征服をも行えるほどの軍事力を持つようになった遊牧民国家は、部族の連合体としての性質を持つがゆえに急速に拡大・縮小するという特徴を持つ。また、こうした遊牧民は「草原の道」と呼ばれるルートによるユーラシア大陸の東西交易や文化交流に貢献した。
◎まとめ 覚えておきたい遊牧民
- スキタイ: 前7世紀ごろに黒海北岸地域を支配したイラン系遊牧国家。
- 匈奴: 前4世紀頃からユーラシア大陸東部に現れ、「単于」という統率者の下で強大な力を持った遊牧民。冒頓単于の時代には、西は月氏、東は漢を圧迫した。前1世紀半ばには、前漢の武帝の積極的な領土拡大政策や、他の遊牧民の離反などを経て東西に分裂し、その後南北にも分裂した。
- 烏孫; 内陸アジアの中央部、天山山脈方面で活動した遊牧民。
- 月氏: 甘粛・タリム盆地東部で活動した遊牧民。前漢には、武帝によって大月氏に張騫が派遣された。
- 鮮卑: 中国北部のモンゴル高原で活動した遊牧騎馬民族。五胡十六国、南北朝時代の中国の形成に大きく影響を及ぼした。439年には、鮮卑の有力勢力、拓跋氏が建てた北魏が華北を統一。
- 烏桓: 漢代から3世紀初めまでモンゴル東部で活躍した遊牧民族。魏によって征服された。
その他、4世紀には氐・羌・羯といった遊牧民がユーラシア東部で活躍し、五胡十六国の時代を築いた。
〔モンゴル遊牧民(イメージ)〕
<オアシスの定住民>
内陸アジアから東アジアで生活を営む民族は遊牧民だけではない。草原や砂漠ばかりが広がる乾燥地帯に点在するオアシスでは、人々は雪解け水の河川や地下水を利用した農耕によって都市を築いて定住した。こうした定住民は乾燥地帯の中で河川を求めて移動したが、自然の河川がない地域ではカレーズという地下水路を建設してオアシスを作り、生活した。
オアシスは隊商交易の拠点として重要な役割を担っており、ユーラシア大陸を東西に結ぶ「オアシスの道」(「シルクロード」)を通じて、中国へは金・銀・香辛料などが、中国からは絹・漆器・銅鏡などが運ばれた。
代表的なオアシス都市(地域): 敦煌(タリム盆地周辺)、大宛(フェルガナ)など。
東晋と五胡十六国
五胡十六国時代
3~4世紀にかけて、華北では五胡十六国と呼ばれる諸民族が自立するようになる。五胡は中国周辺地域の非漢民族のことで、一般に鮮卑・匈奴・氐・羯・羌の五つの民族を指す(正式にはどの民族を指すかについて一定の見解はなされていない)。また、304年に興った漢(前趙)に始まり、華北の各地で小国家が分立興亡し、これらはまとめて十六国と呼ばれている。このような分立状態は、北魏の太武帝が439年に敵対勢力を一掃して華北を統一するまで続くこととなる。
東晋
建国当初、まだ華北への影響力を持っていた東晋は、383年淝水の戦いで代(鮮卑)の攻撃に打ち勝つものの次第に力を失い、政治的にも不安定になっていった。399年、五斗米道の孫恩の乱や、402年桓玄の建康入城を経て、ますます情勢が不安定になっていく中、これらの混乱の制圧に功績をあげたのが軍人の劉裕であった。劉裕はその後も、北伐を行って南燕(鮮卑)や後秦(羌)を倒し、洛陽や長安を一時奪還するなどの活躍を見せ、420年ついに皇帝に即位して宋を建てた。こうして晋を滅ぼした劉裕は、宋の初代皇帝武帝となった。
南北朝時代
西晋による全土統一以来、東晋・五胡十六国と南北に分かれて発展してきた中国であったが、589年の隋の中国再統一まで、この南北分裂状態が続く。多様な民族の小国が分立する状態が続いていた華北では北魏が、中国南部では宋がそれぞれの地域を支配するようになった頃から、隋の統一までの時期を南北朝時代と呼ぶ。
このうち華北で興亡した北魏、東魏・北斉、西魏・北周の5王朝を北朝(439~581年)、中国南部で興亡した宋・斉・梁・陳の4王朝を南朝(420~589年)と呼ぶ。
北朝
北魏
- 初代皇帝道武帝:
鮮卑の有力勢力であった拓跋氏は、一度は東晋に滅ぼされた代を復興し続いて後燕(鮮卑)を破ると、都を平城に移して、398年に皇帝として即位した。 - 太武帝:
柔然・北燕・夏といった他の華北勢力を一掃し、439年に華北統一。 - 孝文帝:
摂政の文明太后によって三長制と均田制が行われる。孝文帝自身は鮮卑の制度の漢化政策でよく知られている。また、494年に都を洛陽に移すと積極的な南伐を行った。
北魏は孝文帝の漢化政策を原因として発生した内乱、六鎮の乱(523年)によって東魏と西魏に分裂し、その後6世紀後半には東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられ、577年には北周が北斉を滅ぼした。このようにして北朝の残存勢力となった北周も581年には隋に取って代わられ、ここに北朝の時代は幕を閉じた。
南朝
南朝は東晋の滅亡後建てられた宋からその歴史が始まるが、479年、北魏の南伐に対して成果をあげた軍人簫道成(高帝)が宋の禅譲を受けて、斉(479~502年)を建国した。斉も次第に不安定な状態となってゆき、502年には簫衍(武帝)によって建国された梁(502~557年)に取って代わられる。梁の武帝の時代は比較的安定した時代ではあったが、北魏で起きた六鎮の乱の余波を受けて滅亡へと追いやられ、最終的には江南の陳(557~589年)が建国された。陳は589年隋によって滅ぼされ、南朝の時代もまた終わりを告げた。
魏晋南北朝時代の社会と文化
魏晋南北朝時代の社会制度
- 魏の制度
魏では、兵戸制や戸調制などの制度を打ち出した曹操やその子である曹丕の時代に漢王朝崩壊後の新しい時代の仕組みが形成された。中でも、屯田制と九品中正は魏を代表する制度といえる。- 屯田制:
曹操が採用した土地政策。流民や兵士に土地を与えて耕作させ、その生産物を地代として納めさせた。この制度により、豪族の荘園に対抗した。 - 九品中正:
郷挙里選に代わって、曹丕によって後漢末に始められた官吏登用制度。はじめは、各地の才能や徳行に優れた人物を推薦させる制度であったが、次第に中央高官の意向が反映されやすくなり、個人の才能や徳行よりも家柄が重視されるようになっていった。これにより、貴族(門閥貴族)と呼ばれる同族集団が生まれるようになった。
- 屯田制:
- 占田・課田法:
魏の屯田制を引き継いで西晋の武帝が実施した土地制度。個人の土地所有の最高限度額の規定と、農民に対する一定の土地の割り付けが定められた。 - 北魏孝文帝時代の制度
- 均田制:
国家が人民に土地を分与し、そこで得た生産物の一部を国家に納めさせ、一定期間経つと土地を返却する制度。北魏から唐まで実施され、律令政治の柱となった。 - 三長制:
北魏で採用された村落統治制度。五家を一隣、五隣を一里、五里を一党としてそれぞれに長を置いた。三長は国家に代わって戸籍調査をし、土地の収授と租税徴収を行った。
- 均田制:
魏晋南北朝時代の文化
- 思想・宗教
- 老荘思想・玄学
漢代には儒教があらゆる面で中心的な思想とされていたが、漢王朝崩壊後、老子や荘子といった道家による老荘思想や、『易経』などに基づいた思弁的哲学である玄学などが盛んになった。また、これらに基づいて芸術談義などを行う清談が流行した。
- 老荘思想・玄学
〔老子〕
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- 仏教
仏教は4~5世紀の華北社会において広く浸透した。洛陽に招かれ中国仏教の基礎を築いた仏図澄や、長安へ招かれ仏典の翻訳を行った鳩摩羅什らによって中国に仏教が伝わった。東晋の僧法顕はグプタ朝のチャンドラグプタ2世を訪問し、『仏国記』を著した。敦煌や雲崗、竜門には巨大な石窟寺院が造営された。
- 仏教
- 詩・詩文
- 陶潜(陶淵明) 『帰去来辞』、『桃花源記』
- 謝霊運 『山水詩』
- 昭明太子 『文選』 ※四六駢儷隊という技法が発達。
- 歴史書
- 陳寿 『三国志』
- 絵画
- 顧愷之 「女史箴図」
- 書
- 王羲之 ※芸術としての書を確立し、「書聖」と呼ばれる。
確認問題
- 三国時代と呼ばれる時代には、華北・江南・四川に3つの国が分立していたが、それぞれ何という国か。
- 523年に起こり、北魏が東西に分裂する原因となった内乱を何と呼ぶか。
- 439年に華北を統一した北魏の皇帝は誰か。
- 宋の初代皇帝は誰か。
- 東晋の都はどこか。
- 所有者のいない土地を国有地として人民に分与し、耕作させるという、魏の時代に採用された土地制度を何というか。
- 東晋の僧法顕がグプタ朝へ赴いて著した旅行記は何か。
- 孝文帝は鮮卑族の制度や慣習を禁止する政策を行った。これを何政策というか。
- 匈奴や鮮卑、氐、羌、羯といった民族が華北各地で政権を樹立した時代を何と呼ぶか。
- オアシス都市を結んだ隊商交易が行われたルートは何と呼ばれているか。
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(解答)
- 魏、呉、蜀
- 六鎮の乱
- 太武帝
- 武帝(劉裕)
- 建康
- 屯田制
- 『仏国記』
- 漢化政策
- 五胡十六国
- シルクロード(「絹の道」、「オアシスの道」)
→続きはこちら 隋・唐の社会と東アジア文化圏
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- いらすとや
- 最終閲覧日2020/5/11
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。