前回はアッシリアによるオリエント統一までの流れを確認しました。しかしこの統一は長くは続かず、まもなくエジプト・メディア王国・リディア王国・新バビロニア王国の4つの王国に分裂してしまいます。
ここでは、分裂した古代オリエント世界を再統一からイスラーム軍に滅ぼされるまでを取り上げます。オリエント世界は古くから周辺民族の侵入や攻撃を受けやすい地域である一方、ヨーロッパと中国の中間に位置するという地理的特徴があります。今回取り上げるパルティアやササン朝はそうした東西貿易によって栄え、独自の文化を形成してきました。
アケメネス朝のオリエント世界再統一
Contents
アケメネス朝(B.C.550-B.C.330)◎首都:スサ/ペルセポリス
アケメネス朝の成立
4王国に分裂し、一度崩壊したオリエント世界はアケメネス朝によって再び統一された。この王朝はインド=ヨーロッパ語系のイラン人(ペルシア人)によって建てられ、その最盛期には東はインダス川、西はエーゲ海、南はエジプトにまで及ぶ大帝国となった。
<アケメネス朝成立~滅亡までの流れ>
キュロス2世 |
メディアを滅ぼす(B.C.550) →独立王国樹立。 リディア、新バビロニアを滅ぼす(B.C.546、B.C.538) |
カンビュセス2世 | エジプト征服(B.C.525) |
ダレイオス1世 |
帝国は最大版図に及ぶ。 ペルセポリスの宮殿を作り始める。 |
クセルクセス1世 | ギリシア遠征を実行するも失敗。 |
ダレイオス3世 |
イッソスの戦い(B.C.334)でアレクサンドロス大王の遠征軍に敗れる。紀元前4世紀、アケメネス朝滅亡。 |
アケメネス朝はその優れた支配体制により約200年続く大帝国となったが、ギリシアとの攻防を繰り返し、ダレイオス3世の死をもって滅亡した。
〔前6世紀頃のアケメネス朝〕
アケメネス朝の統治体制
アケメネス朝では、アッシリアの統治システムから多くを引き継ぎながら、より優れた支配体制が敷かれた。帝国が最大となったダレイオス1世の時代には、全国が州に分けられ、知事(サトラップ)を各州に置いて、各地に監察官(「王の目」「王の耳」)を巡回させることで中央集権体制を整えた。また、「王の道」と呼ばれる国道を整備し、駅伝制を敷いた。
さらに、税制の整備や貨幣の製造など経済面の改革を行いつつ、フェニキア人やアラム人の海陸通商にも協力的な姿勢をとった。アケメネス朝では中央集権的な政策を取りながら、異民族に対して寛容な政策をとったため、他民族国家としても類まれなる繁栄を遂げた。
アケメネス朝の文化
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ペルセポリスの宮殿 ダレイオス1世の時代から3代かけて完成されたペルセポリスは、新年の儀式などに用いられ、政治の中心スサに次ぐ新都となった。その巨大な宮殿からはアケメネス朝の大帝国としての権威が見て取れる。紀元前330年にアレクサンドロス大王によって破壊された。
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言語 アケメネス朝では、ペルシア語・エラム語・バビロン語に加え、当時国際商業語として用いられていたアラム語が公用語として採用された。
- ゾロアスター教の信仰 人々は、善の神アフラ=マズダと悪の神アーリマンの闘争を説くゾロアスター教(拝火教)を信仰した。ゾロアスター教は古代イランの民族宗教を引き継いだものであり、宗教改革者ゾロアスターが開いたとされている。
パルティア(B.C.248/247-A.D.211)◎首都:クテシフォン
パルティア王国(アルサケス朝)はイラン系遊牧民の族長アルサケスによって建国された王国であり、カスピ海南東のパルティア地方に位置する。隣国バクトリアのセレウコス朝からの独立に刺激され建国したパルティアはセレウコス朝と争いながらも、メソポタミアまで勢力を広げ、ミトラダテス1世の時代に最大の国力を誇った。
パルティアの繁栄を支えたのは、東西交易であった。内陸アジアの陸上交易のみならず、ペルシア湾の海上交易も手中に収めたパルティアは、東西交易の利益を独占できたのである。しかし、西方の大国ローマとの攻防の中で次第に国力を弱め、224年にパルティアはササン朝によって滅ぼされた。
(世界の歴史まっぷより)
ササン朝(224-651年)◎首都:クテシフォン
ササン朝の成立
パルティアを滅ぼして生まれた新たな大帝国がササン朝である。ササン朝はペルシア帝国の復興を目指し、中央集権的な強大な国家を形成した。その勢力基盤は農耕イラン人であり、国教はゾロアスター教とされていた。この王朝でもっとも優れた王とされるホスロー1世は外政・内政ともに力を注ぎ最大の国力を誇った。
<ササン朝成立から滅亡まで>
アルダシール1世 |
パルティアを破り、ササン朝を開く。 |
シャープール1世 |
東西に領土を広げ、シリア遠征の際にローマ軍を破る。 →軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜にする(260年) 積極的な東西交易政策をとり、絹の航路をめぐってアクスム商人と争う。 |
ホスロー1世 |
エフタルの侵入とマズダク教の流行で混乱した状況を収める。 →トルコ系遊牧民突厥と同盟を組んでエフタルを滅ぼす。 ササン朝、最盛期となる。 |
ホスロー2世 |
重税や大氾濫で国力が低下。 イスラーム軍の侵略により内乱状態へ。 |
ヤズダギルド3世 |
ニハーヴァンドの戦い(642年)でイスラーム軍に敗れる。 →ササン朝、滅亡(651年) |
〔ホスロー1世〕
ササン朝はアラブのイスラーム勢力の襲来を受けて滅亡する。前9世紀ごろから現れたとされるラクダ遊牧民のアラブは北アラビア~シリアの砂漠地帯から発生し、いくつもの隊商都市のもとで栄えた。4世紀以降勢力を増していったアラブはササン朝のみならず、ローマにとっても脅威となり、帝国を衰退に追いやった。
ササン朝の文化
パルティアでは、ヘレニズム文化からの影響が色濃く見られ、ギリシア語やギリシア文字が公用語として用いられていた。しかし、次第にイラン的要素が強まってゆき、ササン朝ではイランの伝統的な文化的側面と他文化との融合などによる独自の文明が興った。
<宗教>
- ゾロアスター教(拝火教) ササン朝の国教とされ、教典『アヴェスター』が編纂された。一方で、その他の宗教にも寛容であり3世紀にはゾロアスター教・キリスト教・仏教などが組み合わさった独自の宗教である、マニ教が創始された。マニ教は後に国内で弾圧されるが、地中海や中国など東西各方面へと伝わっていった。
- ネストリウス派の受け入れ ローマでは、キリスト教の一派ネストリウス派がエフェソス公会議(431年)で異端とされたが、それを受け、ササン朝ではネストリウス派の受け入れを行った。ネストリウス派は後に唐(中国)まで伝わり、景教と呼ばれるようになった。
<工芸>
工芸や美術の分野では特に発展が目覚ましく、イランの伝統的な様式にギリシアやローマ、インドの要素が加わった、国際色豊かな文化が形成された。こうした文化は次のイスラーム時代に引き継がれただけでなく、地中海方面、南北朝・隋唐代の中国、飛鳥・奈良時代の日本にまで伝来し、影響を与えた。日本では、正倉院の漆胡瓶や白瑠璃碗、法隆寺の獅子狩文錦などがその代表として知られている。
〔漆胡瓶〕
確認問題
- メソポタミアとは二つの川に挟まれた地方を指す。川の名前を二つ答えよ。
- ヒッタイトが最初に利用したとされている武器は何製か。
- 新時代のエジプトで誕生した自由で写実的な様式を持つ美術を何と呼ぶか。
- 「エジプトはナイルのたまもの」という言葉を残した歴史家は誰か。
- ヘブライ人の統一国家は後に南北に分裂することとなるが、北側に国の名前は何か。
- アッシリアの最大版図時代の王は誰か。
- アケメネス朝で信仰されていた宗教は何か。
- パルティアは何によって滅ぼされたか。
- ササン朝時代に編纂されたゾロアスター教の教典は何か。
- アケメネス朝時代に各地を巡回していた監察官を何と呼ぶか。
・・・・・・・
(解答)
- ティグリス川・ユーフラテス川
- 鉄製
- アマルナ美術
- ヘロドトス
- イスラエル王国
- アッシュル・バニパル王
- ゾロアスター教
- ササン朝
- 『アヴェスター』
- 「王の目」「王の耳」
→続きはこちら 共和政ローマの成立とローマの危機
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- いらすとや
- 最終閲覧日2019/12/20
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/1/31
- たいとう文化マルシェ
- 最終閲覧日2020/2/18
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。