『更級日記』は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による仮名日記文学です。康平2年(1059年)ごろに成立したと考えられています。
『更級日記』の内容に入る前に、作者である菅原孝標女について見ていきたいと思います。
作者の父・菅原孝標[i]は菅原道真[ii]の5世孫ですが、かつての栄光は影もなく、彼の時代には上総・常陸の受領[iii]を歴任し功績を残した程度の中流階級でした。作者の実母は藤原倫寧[iv]の娘であり、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母[v]の異母妹にあたります。よって菅原孝標女は藤原道綱母の姪になります。作者に文学的素質に影響を与えたのは、上総へ菅原孝標が任ぜられた際に同行した継母・高階成行娘[vi]でした。(※後に宮仕えし、上総大輔と呼ばれる。)高階成行娘は作者に物語への好奇心を育みんだとされます。
今回のテーマである『更級日記』は、このような東国の田舎の文学少女が上京するところから始まります。
では、『更級日記』の内容を見ていきましょう。
『更級日記』は、『源氏物語[vii]』の世界に憧れを抱く作者が上京する東海道の旅から始まり、念願だった『源氏物語』全巻を手に入れると、作中女性の境遇への憧れを語ります。その後、祐子内親王[viii]家への宮仕えの経験や橘俊通との結婚、長男仲俊の出産・子育てなどを経て、夢みがちな文学少女が現実を目の当たりにしつつも安定した生活を送りますが、夫がなくなってからの晩年は不幸に見舞われます。『更級日記』は、このような内容を懐古的に綴った日記文学になっています。
次に、冒頭の部分を本文を引用して更に詳しく見ていきたいと思います。
一 上洛の旅
あづま路の道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなるひるま、よひゐなどに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるようなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、我思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身をすてて額をつき祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日かどでして、いまたちといふ所にうつる。
年ごろあそび馴れつる所を、あらはにこほちらして、立ちさわぎて、日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車にのるとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見すてたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。<訳>
「東路の道のはてなる常陸……」などいわれるけれど、その常陸よりも、もっと奥深い土地で育った人、そんな私はどんなにかみすぼらしく鄙びてもいたろうに、どういう料簡を起こしたものか、「世間には物語というものがあるそうな。なんとかしてそれを読みたいものだ」と、しきりに思うようになった。そんな折から、所在もなく退屈な昼間とか、宵の団欒などに、姉、継母などの大人たちが、あの物語だの、この物語だの、はては光源氏の暮らしぶりなどを、ところどころ話すのを聞いていると、私の物語へのあこがれはつのるいっぽうだった。けれども、大人たちだって、その一部始終をそらんじて、私の心ゆくまで、どうして話してくれたりしようか。私はもう、あまりのもどかしさに、薬師如来の等身像を造ってもらい手を洗いきよめたりして、誰も見ていない隙にこっそりその仏間にこもっては、「一刻も早く上京させ、都にはたくさんあるとか申しますその物語を、ありったけお見せくださいませ」と、一心不乱にぬかずいてお祈り申し上げるのだった。とこうするうち、それは十三になる年だった、当時、上総の介だった父の任期が無事に終わり、いよいよ上京することとなり、九月三日、ひとまず門出をして、「いまたち」といふ所にうつる。
ながの年月、遊びなじんできた部屋を、外からまる見えになるほど、御簾、几帳などを乱雑に取りはずし、人々はその荷造りに大わらわである。やがて日も入りぎわになり、あたり一面にたいそうひどく霧の立ちこめるころ、車に乗ろうとしてわが家の方を眺めてみると、今まで人のいない折には足しげくお参りして礼拝した、あの薬師如来がつくねんと立っておいでになる。それをお見捨て申し上げて旅立つのが悲しくて、私は人知れず泣かずにはいられなかった。
(日本古典文学全集『更級日記』より参照)
以上が冒頭の場面です。
『源氏物語』の美しく、雅な京の都に純粋なほどまでに憧れる少女の姿が描かれています。また、作者である菅原孝標女の生まれた頃は寛弘5年(1008年)とされており、紫式部が亡くなったと考えられる年は長和3年(1014年) です。このことから察するに、紫式部の晩年には既に『源氏物語』は京の都だけでなく地方でも読まれていたのでしょう。このように、『更級日記』は『源氏物語』の読書層、受領などの中流階級の生活などを知るのに良い文献だともいえます。
では最後に『更級日記』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)
- 『更級日記』の作者とされるのは誰ですか。
- 問1の人物の叔母にあたるのは誰ですか。
- 『更級日記』の主人公が憧れていた文学作品は何ですか。
- 『更級日記』の主人公は宮仕えしますか。
- 『更級日記』の主人公の父親は何という役職でしたか。
→次回は後拾遺和歌集について解説します!
(註)
- [i] 973(天延1)‐?。平安時代の漢学者。菅原道真の5世孫。曾祖父高視は大学頭,祖父雅規は文章博士,父資忠は大学頭文章博士となり,またその子定義も氏長者で大学頭文章博士となって,それぞれ大学寮の要職にあったが,孝標ひとり上総介(1017‐20),常陸介(1032‐36)に任ぜられるにとどまった。20歳代の孝標は文章生出身の若手官人としてかなり目だった存在であり,必ずしも凡庸な人ではなかったが,若くして父に先立たれたため官途もはかばかしくなかったと思われる。平凡社『世界大百科事典』
- [ii] (845~903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公かんこう・菅丞相しようじようと称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴ざんそで大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂へんさん参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」『三省堂 大辞林 第三版』
- [iii] 平安中期以降、実際に任地に赴いた国司の最上席のもの。遥任ようにんの国司に対する語。任国での徴税権を利用して富を築き、成功じようごう・重任ちようにんを行なって勢力をもった。じゅりょう。ずろう。 『三省堂 大辞林 第三版』
- [iv] 没年は貞元2(977)。生年不詳。平安中期の官人。正四位下。左馬頭惟岳と源経基の娘の子。京官にもついたが地方官の歴任が多い。天暦8(954)年に赴任した陸奥守在任中には毎年特産の金を貢進したことが知られ,天禄1(970)年,丹波守のとき家司を務めた関白藤原実頼の葬送にかかわり,貞元1(976)年には伊勢守のとき石清水祭の祭使を務めている。受領歴任で得た財力で左京の一条と五条に邸宅を構え,娘や身内を住まわせた。娘(『蜻蛉日記』の作者)を藤原兼家(のちに摂政)に嫁がせ,道綱が生まれている。またもうひとりの娘(妹)は菅原孝標に嫁ぎ,生まれた娘は『更級日記』を書いた。おじの源満仲(経基の子),その子頼光も一条に邸宅を所有したからこの一族は高級住宅地に顔を揃えていたことになる。『朝日日本歴史人物事典』
- [v] (936頃~995) 平安中期の歌人。菅原孝標女の伯母。藤原兼家に嫁し、右大将道綱を生む。拾遺和歌集以下の勅撰集に三六首入集。著「蜻蛉日記」、家集「道綱母家集」『三省堂 大辞林 第三版』
- [vi] 平安時代中期の女性。高階成行の娘。菅原孝標女(たかすえの-むすめ)の継母。孝標の任地上総(かずさ)(千葉県)で生活をともにしたため,上総とよばれた。寛仁4年(1020)京都にもどると孝標とわかれ,後一条天皇の中宮(藤原威子)の女房となった。『三省堂 大辞林 第三版』
- [vii] 平安中期の代表的物語文学。作者は紫式部。11世紀初め完成。全54帖。前半は光源氏を主人公に当時の貴族の華やかな生活を,後半はその子薫大将のひたむきな恋を描く。確かな構想と精緻な心理的手法により,藤原氏全盛時代の貴族社会を虚構化しつつ人間性の真実を描き出した名作。『旺文社日本史事典 』
- [viii] 1038-1105 平安時代中期-後期,後朱雀(ごすざく)天皇の第3皇女。長暦(ちょうりゃく)2年4月21日生まれ。母は藤原嫄子(げんし)。母の養父藤原頼通(よりみち)の後見をうけ,准三宮(じゅさんぐう)となった。高倉殿宮とよばれる。永承5年(1050)の「祐子内親王家歌合」など,しばしば歌合わせが邸宅でもよおされた。長治(ちょうじ)2年11月7日死去。68歳。『日本人名大辞典』
- アイキャッチは いらすとやHP を参照。
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参考文献
- 朝日新聞出版『朝日 日本歴史人物事典』
- 『三省堂 大辞林 第三版』
- 大修館書店『新国語要覧』
- 山川出版社『日本史研究』
- 小学館『日本国語大辞典』
- 『改訂新版・世界大百科事典』平凡社
- 『日本人名大辞典』
- 『旺文社 日本史事典』
- 小学館『新編 日本古典文学全集26 更級日記』