藤原道長は天皇の外戚を嫁が権力を得て、藤原氏の全盛期を築き上げた人物です。藤原道長を中心として描かれた歴史書に『大鏡』や『栄花物語』があります。道長が著した日記が『御堂関白記』です。
しかし、道長は内覧、摂政、太政大臣にはなりましたが、関白にはなっていません。そのため『御堂関白記』というのは誤りではあるのですが、江戸時代の諸本に用いられて以来『御堂関白記』と呼ばれています。
また、道長の有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、藤原実資[i]の日記『小右記』に書かれています。『小右記』には、藤原道長・頼通親子の政治や当時の宮廷の実情が描かれた貴重な資料となっています。
今回は藤原道長の政治を年代ごとに見ていきましょう。
藤原氏の台頭
藤原氏の祖となったのは中臣鎌足(614-669)です。中大兄皇子(のちに天智天皇)と共に権力を誇っていた蘇我氏を倒し、新たな政権に貢献しました。内大臣になった際に藤原の姓を賜ります。
鎌足の子、藤原不比等[ii](659-720)は、天皇家の外戚となり政界で大きな発言力を持つようになりました。不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4子が藤原四家を分立し、それぞれ南家、北家、式家、京家といいます。
南家、北家、式家、京家に分かれ、権力争いを始めます。権力を得ても長く続かない中、北家の藤原冬嗣[iii](775-826)は、嵯峨天皇[iv]の蔵人頭となり、左大臣にまでなります。冬嗣の子、藤原良房[v](804-872)は摂政、良房の子、藤原基経[vi](836-891)は関白となり北家から摂政、関白が台頭する礎を築き上げました。
康保3年(966年)道長生まれる
良房・基経の時代から摂関政治が始まり、藤原氏は権力を強大なものにしてきました。
藤原兼家の5男として生まれた道長。母は、藤原中正の女時姫。兼家には藤原中正の女時姫の他に9人の妻がおり、その一人は『蜻蛉日記』を著した藤原道綱の母でした。藤原道綱の道長は異母兄弟となりますが、道綱は政治的能力に欠け、道長と権力争いをすることはありませんでした。
兼家の時代になると摂関家の中から摂政・関白のくらいに就くものが藤原氏の「氏長者」となりました。「氏長者」をめぐって道長の父・兼家は兼通(兼家の実兄)と争いました。
長徳元年(995)兄である道隆、次いで道兼死去
関白であった道隆は病により関白を辞しますが、その後死去します。兄・道隆の後を継いで関白になった道兼もわずか7日ほどで病に倒れ死去します。その年は疫病が流行し、2人とも病に倒れたのです。同年、道長は右大臣になります。
その後道長の甥にあたる、道隆の子・藤原伊周と権力争いの末勝利した道長は着々と自分の地位を確立していきます。
天皇の外戚へ
長保元年(999年)、道長は長女彰子を一条天皇の中宮(天皇の妃)として後宮に入れ、寛弘5年(1008年)敦成親王が誕生し、外戚としての礎ができます。
長和元年(1012年)三条天皇に次女の妍子を入内させます。長和5年(1016年)三条天皇が譲位し、敦成親王が幼年で後一条天皇として即位し、とうとう道長は天皇の外戚(祖父)として政治の実権を握りはじめます。
長和6年(1017年)に、関白を辞した道長は太政大臣となります。
寛仁2年(1018年)に三女威子を後一条天皇の中宮となったことで、彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮と道長は三后の父となります。
道長の息子である頼通は寛仁2年(1018年)に摂政となり、息子に引き継いだ道長は寛仁3年(1019年)に出家します。
まとめ
道長は大きな政策などに携わることはなく、政治家としての実績はあまり多くありません。また、摂政を務めていた期間も短いですが、三后の父として藤原氏最大の権力を誇った人物です。また、道長の長女彰子に仕えたのが、『源氏物語』の作者と言われている紫式部でした。
康保3年(966年) |
道長生まれる |
長徳元年(995) |
道長右大臣になる。 |
長保元年(999年) |
長女彰子、一条天皇の中宮に。 |
長和元年(1012年) |
次女妍子、三条天皇の中宮に。 |
長和5年(1016年) |
敦成親王が幼年で後一条天皇として即位。道長、摂政になる。 |
長和6年(1017年) |
道長、太政大臣になる。 |
寛仁2年(1018年) |
三女威子、後一条天皇の中宮に。頼通、摂政になる。 |
寛仁3年(1019年) |
道長出家。 |
【注】
[i]藤原実質…957〜1046 平安中期の公卿。斉敏の子。祖父関白実頼の養子。右大臣。三条天皇の信任を得,道長の権勢に屈することなく娍子 (せいし) (斉時の娘)を三条天皇の皇后とした。また1019年刀伊の入寇のとき戦功のあった大宰権帥 (ごんのそち) 藤原隆家に対し,道長を恐れず論功行賞を行った。世に賢人右府と称された。『小右記 (しようゆうき) 』は彼の日記で,この時期の最重要資料。(旺文社『日本史事典』)
[ii]藤原不比等…659〜720 奈良時代の公卿。鎌足の2男。父のあとをうけ藤原氏の地位を安定させた。大宝律令撰修に参画し,養老律令編修の中心ともなった。大納言・右大臣を歴任し,律令政治の実施に尽力した。710年平城京遷都に際し,氏寺山階寺を新都に移し興福寺と改称。娘宮子を文武天皇の夫人とし(その間に生まれたのが聖武天皇),のち妻橘三千代との間に生まれた光明子が729年聖武天皇の皇后となった。また,武智麻呂 (むちまろ) ・房前 (ふささき) ・宇合 (うまかい) ・麻呂の4子が藤原四家を分立した。死後淡海公の称を贈られた。(旺文社『日本史事典』)
[iii]藤原冬嗣…775〜826 平安初期の公卿。北家の内麻呂の2男。嵯峨天皇の信任を得,810年薬子の変のとき蔵人頭 (くろうどのとう) となった。昇進して左大臣となり,娘順子を皇太子正良親王(仁明 (にんみよう) 天皇)の妃となって道康親王(文徳天皇)をうみ,北家隆盛の基礎を築いた。『弘仁格式』を編纂,勧学院をつくって子弟を教育し,興福寺南円堂を建立した。また漢詩が『文華秀麗集』『経国集』におさめられている。(旺文社『日本史事典』)
[iv]嵯峨天皇…786〜842 平安初期の天皇(在位809〜823)桓武天皇第2皇子。その治世は桓武天皇以来の律令政治再建の努力がいちおうの成果を生んだ時期。宮廷を中心に唐風文化が栄え,『弘仁格式』『新撰姓氏録 (しようじろく) 』などが編纂され,天皇も『凌雲集 (りよううんしゆう) 』に漢詩を残し,三筆の一人に数えられた。薬子 (くすこ) の変を平定し,蔵人頭・検非違使 (けびいし) などの令外官 (りようげのかん) を設け,律令の官制に変革を加えた。(旺文社『日本史事典』)
[v]藤原良房…804〜872 平安前期の公卿。摂政。冬嗣の2男。承和の変(842)ののち,大納言・右大臣・太政大臣を経て,858年清和天皇の即位とともに実質的に皇族以外で最初の摂政となった。866年応天門の変で大納言伴善男らを政界から追放。その直後正式に摂政となり,摂関政治の基礎を確立した。(旺文社『日本史事典』)
[vi]藤原基経…836〜891 平安前期の公卿。摂政・関白。通称堀河太政大臣。長良 (ながら) の子。叔父良房の養子となってしだいに昇進。884年陽成天皇に代えて光孝天皇を立て,事実上最初の関白となり,887年阿衡事件以後名実ともに関白となった。『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰。(旺文社『日本史事典』)