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軍記物語の覚え方は?おさえるべきポイント!
今回は軍記物語の中から鎌倉時代に成立した『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』の内容をまとめて紹介します。中でも『平家物語』は頻出です。しっかりおさえておきましょう。
『保元物語』
保元の乱を題材にした軍記物語。源為朝の活躍を中心に、保元の乱のいきさつを和漢混交文で書かれています。3巻からなり、作者、成立共に未詳。承久年間(1219~1222年)に成立したと考えられています。作者についても藤原時長、中原師梁、源瑜などの説もありますが、琵琶法師によって語られたため、成立後の改変が著しく、作者を特定するのは難しいと考えられています。
【補足】和漢混淆文とは?
日本語の文語体の一種で漢文訓読・変体漢文の語彙語法と仮名日記物語など和文の語彙語法とが混用されて成り立った文体です。
【補足】保元の乱とは?
平安時代末期、保元元年(1156年)京都に起こった内乱です。鳥羽院[i]崩御後の皇位継承巡って崇徳上皇[ii]と後白河天皇[iii]の対立が激化します。摂関家では藤原忠通[iv]・頼長[v]兄弟が摂関の地位をめぐって対立していました。崇徳・頼長側は源為義[vi]・平忠正[vii]の軍を招き、後白河・忠通側は源義朝[viii]・平清盛[ix]の軍を招いて交戦し、崇徳側が敗れました。保元の乱で武士が活躍し、武士の政界進出を促していくことになりました。
【補足】琵琶法師とは?
平安時代ごろから現れた琵琶を弾き語ることを業とした盲目の僧。中世、『保元物語』『平治物語』『平家物語』などを弾き語り、物語の創作・形成に貢献しました。
『平治物語』
平治の乱(1159)を題材にした軍記物語。作者・成立共に未詳。鎌倉時代前期に原本が成立し、琵琶法師に語られ変容していったと考えられています。平治の乱の顛末を源平両武門の戦闘を中心に描き、います。戦闘だけにとどまらず、腹心の部下に暗殺された源義朝の悲劇や、義朝の妻常葉御前が3人の遺児を抱えて都落ちする哀話など源氏一族の悲劇文学としての特色を持ちます。3巻からなり和漢混淆文で書かれています。
【補足】平治の乱とは?
平安時代末期、平治1年(1159年)に起こった内乱です。保元の乱の後、後白河法皇をめぐって藤原通憲[x](信西)と藤原信頼[xi]とが対立しました。通憲は平清盛、信頼は源義朝と結び、信頼らは清盛の熊野参詣中挙兵、法皇を幽閉し、通憲を殺しました。しかし、帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で殺されました。義朝の子頼朝も伊豆に流され源氏は一時衰退する一方、清盛は1167年太政大臣となり平氏は全盛をきわめました。
『平家物語』
源平争乱を描く軍記物語。作者、成立共に未詳。平清盛を中心とする平家一門の興亡を軸としてとらえ、仏教的無常観を主題として、叙事詩的に描いています。作者については『徒然草』に記されている信濃前司行長説が有力とされてきましたが、諸説あります。
原作は鎌倉時代前期の承久の乱 (1221年) 以前の成立で3巻と推定、琵琶法師によって語られ、次々と増補していったと考えられています。現在に伝えられている異本も多く、6巻 (延慶本) 、12巻 (八坂本) 、20巻(長門本)などの異本があります。48巻からなる『源平盛衰記[xii]』も『平家物語』の異本の一つと考えられています。 流布本 (覚一本系) は12巻からなり、最後に「灌頂巻」という別巻が加えられています。「灌頂巻」は悲劇を味わい、大原寂光院で晩年を過ごす建礼門院平徳子[xiii]の様子が描かれています。
(註)
- [i]1103〜56・平安後期の天皇(在位1107〜23)
堀河天皇第1皇子。4歳で即位。1123年崇徳天皇に譲位し,’29年白河法皇の死後院政をとった。仏教の信仰が厚く,法皇となり盛んに造寺・造仏を行った。崇徳上皇を冷遇し,近衛天皇についで後白河天皇を寵愛,保元の乱の原因をつくった。(旺文社『日本史事典』) - [ii]1119〜64・平安後期の天皇(在位1123〜41)
鳥羽天皇第1皇子。1141年鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り,その弟の近衛天皇を即位させ,近衛天皇の死後は崇徳の弟後白河天皇を立てた。これが不満で,’56年鳥羽上皇の死後,保元の乱をおこしたが,敗れて讃岐(香川県)に流された。(旺文社『日本史事典』) - [iii]1127〜92・平安末期の天皇(在位1155〜58)
鳥羽天皇第4皇子。兄崇徳上皇と対立,これが保元の乱の一因となった。乱後譲位して二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年間にわたり院政を行った。源平の争乱,鎌倉幕府の成立など激動期にあって貴族勢力維持のため武家勢力と対抗。1169年法皇となり,多くの寺仏を造った。また『梁塵秘抄』の撰者としても有名である。(旺文社『日本史事典』) - [iv]1097〜1164・平安後期の公卿
摂政・関白。通称法性寺殿。忠実の長男。氏長者の地位をめぐって父や弟頼長と不和になり,保元の乱(1156)では後白河上皇方で勝利。頼長は戦死した。晩年は法性寺に隠退。日記に『法性寺関白記』。(旺文社『日本史事典』) - [v]1120〜56・平安後期の公卿
左大臣。忠実の2男。博識多才で,父の寵愛を得て兄の忠通から氏長者の地位を奪った。のち鳥羽法皇の信任を失ったため,1156年保元の乱をおこしたが敗死。日記に『台記』。(旺文社『日本史事典』) - [vi]1096〜1156・平安後期の武将
義親の子。義朝の父。1156年保元の乱のとき,崇徳上皇方につき,その子義朝や平清盛と戦って敗北。乱後,義朝が助命嘆願したが許されず,斬られた。(旺文社『日本史事典』) - [vii]?〜1156・平安後期の武将
正盛の子で,清盛の叔父。保元の乱のとき藤原頼長・源為義らと崇徳上皇を支持。後白河天皇支持勢力の平清盛・源義朝らに敗れ,降伏したが斬首された。(旺文社『日本史事典』) - [viii]1123〜60・平安末期の武将
為義の長男。頼朝の父。1156年保元の乱に後白河天皇方につき,功により左馬頭 (さまのかみ) となった。乱後平清盛と対立し,’59年平治の乱をおこしたが敗れ,東国への敗走中,尾張で家人の長田忠致 (おさだただむね) に殺された。(旺文社『日本史事典』) - [ix]1118〜81・平安末期の武将
忠盛の子。保元・平治の乱で源氏を圧倒し,藤原氏に代わって政権を掌握。1167年太政大臣となり,娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ,その子安徳天皇を皇位につけ,一門の公卿16人,知行国30余国に及ぶ平氏の全盛期を現出した。また大輪田泊(現神戸港)を修築して日宋貿易を行い,厳島 (いつくしま) 神社を尊崇した。晩年後白河法皇を幽閉したり,福原遷都を強行したが,以仁王 (もちひとおう) の令旨 (りようじ) をうけた諸国の源氏の挙兵にあい,失意のうちに病死した。(旺文社『日本史事典』) - [x]1106〜59・平安末期の公卿・学者
出家して信西と称した。実兼の子。保元の乱(1156)後,平清盛と結んで後白河上皇の側近として活躍。藤原信頼・源義朝に対抗したため,’59年平治の乱で殺された。著書に『本朝世紀』『法曹類林』『日本紀註』など。(旺文社『日本史事典』) - [xi]1133〜59・平安末期の公卿
中納言。忠隆の3男。後白河法皇に信任され院庁の別当(長官)となった。権勢をふるっていた藤原通憲 (みちのり) (信西)と対立,源義朝と結んで1159年平治の乱をおこしたが敗れ,斬殺された。(旺文社『日本史事典』) - [xii]鎌倉中期の軍記物語・48巻。作者不詳。内容は『平家物語』を増補したもので,異本の一種とされる。『平家物語』の「語りもの」に対し読み本としたもの。文学的価値は『平家物語』に及ばないが,謡曲・浄瑠璃など後世への影響は大きい。(旺文社『日本史事典』)
- [xiii]1155〜1213・平安末期,高倉天皇の中宮
平清盛の娘で名は徳子。安徳天皇の生母。1171年入内し,翌年高倉天皇の中宮となった。安徳天皇を生み,’81年院号宣下により建礼門院と称した。’85年平氏滅亡に際し,壇の浦で安徳天皇とともに入水したが,源氏の兵に救われ,出家して京都郊外大原の寂光院 (じやつこういん) に入り,余生を送った。『平家物語』の〈大原御幸〉で有名。(旺文社『日本史事典』)
問題
問1、『保元物語』はどのような文体で書かれていますか。
問2、『平治物語』は源氏、平氏どちらの悲劇が書かれていますか。
問3、軍記物語を琵琶を弾いて語り伝えたのは誰ですか。
問4、『平家物語』は誰を中心とした平家一族の興亡が描かれていますか。
問5、『平家物語』覚一本の最後「灌頂巻」は誰の晩年が描かれていますか。
解答
問1、和漢混淆文
問2、源氏
問3、琵琶法師
問4、平清盛
問5、建礼門院平徳子(平徳子、建礼門院でも可)
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