鎌倉幕府とは一味違う室町幕府!個性豊かな将軍にお家騒動、室町時代についてまとめておこう

鎌倉時代、鎌倉幕府と御家人の関係は「御恩と奉公」でした。御家人が一生懸命働き、それに対して幕府が御恩という形で報いるのが基本です。ただ働きは誰でも嫌なものですから、御家人が働いた分だけ当然御恩を与えるのはいわば当然の話だったのです。

しかし、2回の元寇では、元が攻めてきたのを撃退しただけであり、日本の領地が増えたわけではありませんでした。そこで、御恩として御家人に報いたくてもその分の土地を得ることができなかったのです。2度も幕府のために頑張ったのに何ももらえないなんて・・・と御家人は当然不満に思います。そして、経済状態が苦しくなったため、商人から借金をし、それがかさんでしまいます。

そこで鎌倉幕府が出したのが「永仁の徳政令」です。徳政令とは、つまり借金を帳消しにするための命令です。お金を貸したのに返してもらえないなんて、と今度は商人が不満を感じます。そうすると、生活が苦しい御家人が再度借金を申し込んでも、どうせ返してもらえないのなら貸すもんか、と思っても仕方がありません。そのため、御家人の生活は苦しいままだったのです。

このようにして、鎌倉幕府と御家人、つまり武士との関係は悪化の一途をたどることになりました。そのような時代背景の中で登場したのが「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)です。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとしますが、2度も失敗し、隠岐(おき)に流されてしまいました。しかし、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)など武士たちの協力や、天皇にしては珍しいほどの負けん気の強さも手伝って、ついに1333年、鎌倉幕府を倒したのです。

建武の新政を経て、室町幕府が成立します。室町幕府の全盛期を築いたのは3代将軍の「足利義満」(あしかがよしみつ)です。一方で、いわゆる「ダメ将軍」という烙印をおされてしまったのは8代将軍の「足利義政」(あしかがよしまさです。お家騒動から応仁の乱が勃発し、当時の世に大混乱を巻き起こしてしまいました。

今回は、鎌倉幕府が滅亡してから室町幕府が成立する経緯や、室町幕府のキーマンと重要なできごと、室町時代の2つの文化などについてまとめます。室町時代と言えば!の知識をしっかりまとめておきましょう。

後醍醐天皇による建武の新政のはじまり

後醍醐天皇は、足利尊氏など武士の力を借りて隠岐を抜け出し、鎌倉幕府を倒します。鎌倉幕府が滅亡した1333年は重要年号なのでしっかり覚えておきましょう。

そして、後醍醐天皇は「建武」(けんむ)という元号を定めるとともに、鎌倉幕府が滅亡した1333年、「建武の新政」(けんむのしんせい)という新しい政治をスタートさせました。建武の新政とは、簡単に言うと、天皇や公家、貴族を中心とした政治のことです。

いわば武士から政治の実権を取り上げることになった建武の新政ですが、たった3年で終わってしまいます。建武の新政がなぜ失敗したかというと、武士への恩賞が不十分だったことが理由です。鎌倉時代の御恩と奉公に見られるように、武士とその主人との間は働く代わりに見返りが不可欠でした。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すために足利尊氏や新田義貞をはじめとした武士の力を借りました。それがなければ鎌倉幕府を倒すことはできなかったでしょう。

それなのに十分なご褒美がもらえなければ、せっかく手を貸したのに十分な見返りがない、と武士は不満に思いますよね。鎌倉幕府に不満を持っていた武士が後醍醐天皇に力を貸したのは、十分な御恩を与えなかった鎌倉幕府に見切りをつけて、新しい時代においてたくさんの恩賞をもらいたいという思いがあったはずです。そこで鎌倉幕府が滅亡し、いよいよ恩賞をもらえる、と思ったのにもらえないとあっては、建武の新政に期待するどころか、鎌倉幕府のときと一緒ですよね。そこで、武士たちの不満は日に日に募っていき、ついには後醍醐天皇に反旗を翻すことになったのです。

後醍醐天皇、吉野に逃れる

武士たちは建武の新政に不満を抱いていました。そこで台頭したのが、鎌倉幕府の打倒に尽力した足利尊氏です。十分な恩賞をもらえず不満に思っていた武士たちは、足利尊氏ならなんとかしてくれるのではないか、と考えて、討幕で活躍した足利尊氏のもとに集まっていったのです。

もちろん、天皇に反旗を翻して負けてしまうと朝敵になってしまいますから、足利尊氏も二つ返事で引き受けたわけではありません。しかし、武士たちが窮状を訴え、何とかしてほしいと説得された結果、足利尊氏は後醍醐天皇と対立することを決めます。

足利尊氏らは、後醍醐天皇側の最も優秀な武将とよばれ、「悪党」としても有名な「楠木正成」(くすのきまさしげ)を倒し、京都を占領します。楠木正成の必死の攻防によって守られていた後醍醐天皇は身の危険を感じて京の都から脱出します。そして、現在の奈良県の「吉野」(よしの)に逃れました。この脱出劇の際、後醍醐天皇は、自分の姿が見つからないように、女装して逃げたとも言われています。

南北朝時代のはじまり

京都から後醍醐天皇が逃げたので、新しい天皇を建てる必要がありました。そこで足利尊氏は1336年、後醍醐天皇に代わって「光明天皇」(こうみょうてんのう)という新しい天皇をたてました。

しかし、後醍醐天皇も黙っていません。奈良の吉野に逃げていたので、吉野の地で自らを天皇と名乗ったのです。そうすると、京の都、奈良の吉野にそれぞれ天皇が立つことになり、2人の天皇が誕生することになったのです。そうすると、当然のことながら天皇のおひざもとの朝廷も2つに分かれることになりますね。天皇が2人、朝廷も2つとあって、世の中は大混乱に陥ったのです。

この状態を「南北朝」と呼びます。北に位置する京都の朝廷は「北朝」、南に位置していた奈良の吉野の朝廷は「南朝」と呼ばれ、この2つの朝廷が存在した、いわば分裂していた時代を「南北朝時代」と呼びます。1392年に足利義満により「南北朝合一」(なんぼくちょうごういつ)がなされるまでの56年間もの間、こうした分裂状態が続いたのです。

室町幕府の成立 !初代将軍は足利尊氏

後醍醐天皇が奈良の吉野に逃れて南朝を建てたために起こった南北朝時代の初期の1338年に、足利尊氏は自ら擁立した光明天皇から「征夷大将軍」に任命されました。征夷大将軍は、もともと坂上田村麻呂が蝦夷を討伐する際に授けられた役職ですが、鎌倉時代以降の武家政権では、武士の最高の位として征夷大将軍という役職が設けられていました。

足利尊氏が征夷大将軍になった1338年が室町幕府成立の年と言われていますが、足利尊氏が「建武式目」(けんむしきもく)という名前の基本的な法律を制定した1336年が室町幕府のはじまりだという説もあります。

管領が置かれたのが特徴

室町幕府のトップである征夷大将軍の補佐としておかれた役職が「管領」(かんれい)です。管領とは、いわば鎌倉時代の「執権」のように、実際の政治を取り仕切る役職です。鎌倉時代の執権を担当したのは北条氏一族でしたね。管領は独占ではなく、細川氏・斯波氏(しばし)・畠山氏(はたけやまし)の3氏が交代して担当しました。この点が管領と執権の大きな違いなので覚えておきましょう。なぜ管領を3氏交代にしたかというと、鎌倉幕府のように執権という政治の最高権力をひとつの一族が独占してしまわないようにするためだったのです。

室町時代はお金がなかった?

また、室町幕府は、財政面で非常に苦労した幕府でもあったのです。幕府の中心となったのは、武士たちです。武士たちと言えば、鎌倉時代にお金に困っていましたね。そうした武士たちに十分に恩賞を与えようとすると、幕府の財政は非常に厳しいものになってしまったのです。

また、人の結束や戦力といった点でもあまり強い幕府とは言えませんでした。例えば、鎌倉幕府では「封建制度」という主従関係が一般的でしたが、室町幕府ではそういった制度はあまり機能することがなかったのです。一方で、地方の守護たちは、多くの土地をもち、人々を従えて、「守護大名」(しゅごだいみょう)と呼ばれるほど地位も上がり、実力をつけていたのです。

室町幕府の全盛期は 3代将軍・足利義満の時代

そんな弱弱しい状態からはじまった室町幕府ですが、室町幕府を全盛期へと導いたのが、3代将軍の「足利義満」です。1378年、足利義満は京都の室町に「花の御所」(はなのごしょ)という屋敷をつくり、そこを幕府の拠点にしました、室町幕府と呼ばれるのは、室町に足利義満が御所を作ったからだとも言われています。

そして、足利義満は室町幕府の財政面に大きな弱点があるということをよく理解していました。そこで、次々と政策を打ち出していったのです。

1392年:南北朝合一

室町幕府の弱体化をなんとかしようと考えた足利義満は、まず1392年に南北朝をひとつにまとめます。足利義満は京都にある北朝に属していたわけですが、北朝は武士に支持されていました、一方、奈良の吉野の南朝を支持する武士は少なく、ひっそりと政治をおこなっていたのです。

そこで、足利義満は南朝に対して「朝廷をひとつにして、北朝と南朝から交代で天皇を出しませんか」「まずは北朝から天皇を出します」と提案しました。また、「天皇の位の証拠である三種の神器も渡してください」と伝えて、結果として南北朝合一に成功したのです。足利義満は、朝廷をも思い通りに動かせるほど知略に長けた力のある政治家だったと言えるでしょう。

日明貿易(勘合貿易)をはじめて経済政策

足利義満は、財政立て直しのために貿易を始めます。それが「日明貿易」(にちみんぼうえき)です。当時の室町幕府の財政状態をなんとか豊かにしたいと考えていた足利義満は、1368年に誕生した当時の中国の王朝である「明」に注目しました。明は誕生して間もない国であったため、政治が不安定であっただけでなく、明や陸続きの挑戦を襲う「倭寇」(わこう)と呼ばれる海賊にも困っていたのです。そこで、足利義満は明に対して「倭寇を取り締まってあげるので、日本と貿易しませんか」と持ち掛けます。明はその提案を受け入れたので、日明貿易が誕生したのです。足利義満は交渉もうまかったんですね。

日明貿易では、本物の貿易船と倭寇の船を区別するために、「勘合」(かんごう)または「勘合符」という合い札が用いられました。本物の貿易船かどうかを証明するために勘合が使われたことから、日明貿易は「勘合貿易」(かんごうぼうえき)とも呼ばれているのです。模試では、日明貿易、勘合貿易のどちらでも正解ですが、もし「合い札を使ったことから何貿易と呼ばれますか」といった問の場合は、「勘合貿易」が正解なので注意しましょう。

足利義満は、貢物(みつぎもの)を中国王朝にもっていき、その返礼品として品々を受け取るといった「朝貢貿易」(ちょうこうぼうえき)という方式を取っていました。朝貢というのは、目上の国に対して貢物を持っていく、ということですから、形式的には明のほうが室町幕府より上、ということになります、しかし、足利義満は貿易でお金がもうかって財政が良くなるのであれば、形式上日本のほうが立場が下になったとしても構わない、と考えていたのです。肝が据わっていたのですね。

さまざまな税の徴収もおこなう

足利義満は、財政状態をよくするために、日明貿易に加え、人々からさまざまな税金を徴収しました。「関所」(せきしょ)を設けて、そこを通る際には「関銭」(せきせん)という通行料を貸したのもその税金のひとつです。関所とは、国境などに置かれており、通行人の持ち物などをチェックしていた場所のことです。

当時、淀川(よどがわ)の流域だけでも600近い関所があったと言われています。それだけ足利義満の「お金をなんとか集めよう」という意欲がうかがえますね。そのほか、田畑を多く持っている人からは「段銭」(たんせん)を、現在の質屋のように金銭を貸し出す仕事をしていた「土倉」(どそう)からは「土倉役」など、さまざまな税金をとったのです。アイデアマンであった足利義満の姿が目に浮かぶようですね。

足利義満が求め続けたのは豊かな財政

日明貿易、税の徴収など、室町幕府の財政状態を豊かにするためにいろいろなアイデアを出し、次々に実行していった足利義満は、間違いなく室町幕府の最盛期を作り出した将軍だったと言えるでしょう。足利義満と言えば「金閣」が有名ですが、金閣とはもともと足利義満の別荘でした。金閣には名前の通り「金」がふんだんに使われていました。

金閣を建造し、金を豊富に使えるほどにまで室町幕府の財政が回復して豊かになっていたことがうかがえます。豪華な別荘を建造するにまで至った足利義満はさまざまな努力をしていたのです。金閣は修復され、現在は金ぴかと言ってもいいほど輝いています。有名ですがまだ見たことはないという受験生の方もいらっしゃるでしょう。資料集などでしっかり確認しておいてくださいね。

天下のダメ将軍?8代将軍の足利義政

足利義満の時代に最盛期を迎えた室町幕府ですが、8代将軍の足利義政によって大混乱に陥ります。足利義政が悪いとは一口に言えませんが、その優柔不断な性格によって当時の政治を大混乱に巻き込んでしまった将軍だと言えるでしょう。そのため後世でも「ダメ将軍」と呼ばれることが多いです。

足利義政は、政治に興味がありませんでした。一方で、恋愛には熱心で、母親代わりに自分を育ててくれた乳母(うば)を愛してしまうほど情熱的だったようです。そんな足利義政は、正妻として「日野富子」(ひのとみこ)を迎えます。この日野富子が非常に強気な性格だったのも、足利義政の時代に幕府が混乱した原因のひとつです。

日野富子は政治にも口を出すだけでなく、わいろを要求して金儲けをするような勝気な女性でした。当時の将軍の足利義政も、妻の日野富子にまったく頭が上がらなかったほどです。そんな妻の姿を見てさらに政治に対するやる気を失ってしまった足利義政は、早く将軍の地位を跡継ぎに譲りたい・・・と考えるようになったのです。

気の弱い足利義政と気の強い日野富子夫婦の間には、息子がいませんでした。そこで、足利義政は弟の「足利義視」(あしかがよしみ)に将軍の座を譲ることを決めます。足利義視は出家していたのですが、還俗(出家している人が再び一般の人に戻ること)させて将軍の跡継ぎにしたのです。

これで次の将軍は決まり、と足利義政も一安心だったのですが、なんとその翌年、日野富子は足利義政との間に義尚(よしひさ)という男の子を産んだのです。次の将軍はすでに足利義視に決まっています。しかし、せっかく生まれた我が子を将軍の座につけたい日野富子は黙っていません。義尚を腕に抱きながら夫の足利義政に「わかっているでしょうね、次の将軍はこの子、義尚ですからね!」と迫ったと言われています。

しかし、還俗までさせて後継者を弟に決めた足利義政は、どちらの顔を立てたらいいのかわからず、困ってしまいました。それでも日野富子はぐいぐい迫ってきます。このような状況になったときに、日野富子を止められる人は誰もいなかったそうです。

そこで、足利義政はどうしたのでしょうか?弟の足利義視の時期将軍の座を取り消すか、わがままを言う日野富子を離縁するか・・・どちらも違うのです。なんと足利義政は跡継ぎを決めないという暴挙に出て、御所から飛び出してしまったと言われています。以下に気が弱く優柔不断だったかが分かりますね。

足利義政の跡継ぎ争いから応仁の乱へ発展

このようにあまりにも政治に無関心、無責任な足利義政をよそに、残された人々は跡継ぎ問題を話し合います。足利義政の次の将軍をだれにするか、この議論には「細川勝元」(ほそかわかつもと)と「山名宗全」(やまなそうぜん)という守護大名も加わっていました。細川勝元は「東軍」として足利義視側につき、山名壮前は「西軍」として息子の義尚側について対立しました。

このようにして、将軍・足利義政の跡継ぎ争いは、守護大名も巻き込んだ大きな戦いを発展していったのです。これが1467年空11年もの長い間続いた「応仁の乱」(おうにんのらん)です。

義政は趣味に没頭していた

応仁の乱は、京の都を焼き尽くしたと言われるほど激しい戦いでした。そんな中、元凶となった足利義政はどうしていたのでしょうか?実は息子の義尚に将軍の座を譲り、自分は隠居していたのです。無責任ですね。

応仁の乱で大混乱であったこともあり、人々は足利義政のことなどすっかり忘れていたようですが、応仁の乱からしばらくたったある日、焼け野原となった京都で足利義政が何か作業に打ち込んでいました。足利義政のそばには建造中の建物がありました。

実は、足利義政は、応仁の乱の大混乱の中、趣味の一環として「銀閣」を造っていたのです。銀閣は室町時代を代表する趣味の良い建造物なのですが、世の中の大混乱に見向きもせず、将軍の座も放り出して自分の趣味に没頭する足利義政に対して、当時の武士たちは大きな怒りを感じていたのです。

応仁の乱の影響

11年もの長きにわたって続いた応仁の乱ですが、結果としてはっきりとした勝敗がつかなかったのです。しかし、当時の世の中には非常に大きな影響を与えました。

<応仁の乱の影響>
・京都が焼け野原になった
・身分が下の者が上の者を実力で倒していく「下剋上」(げこくじょう)の世の中が訪れた
・京都の戦乱から逃げた貴族などにより、地方にも「文化」が広がった

応仁の乱がもたらした最も大きな影響と言えば、やはり下克上の世の中が訪れたことです。各地にいた守護大名は「戦国大名」となり、天下統一を目指してさまざまな争いを繰り広げていきます。応仁の乱のあと、江戸幕府が成立するまでの紆余曲折の時代を「戦国時代」と呼びます。

応仁の乱は、身分に関係なく、武士ならば全員にチャンスが回ってきた戦いでもありました。

室町幕府の2つの文化~北山文化・東山文化

応仁の乱によって京都は焼け野原になりましたが、室町幕府には2つの文化が花開きました。これは非常に重要なので、しっかり区別を含め押さえておきましょう。

室町幕府を代表する2つの文化
・北山文化(代表的な人物:足利義満/代表的な建造物:金閣)
・東山文化(代表的な人物:足利義政/代表的な建造物:銀閣)

室町幕府の最盛期を築いた足利義満の時代に花開いた「北山文化」、そして応仁の乱を招いた足利義政の時代の「東山文化」が室町時代の2大文化です。それぞれの代表的な建造物と言えば金閣と銀閣ですが、見た目もつくりも全く異なります。資料集などの写真で見た方も多いのではないでしょうか。金閣と銀閣は、その見た目からも当時の幕府の財政状態がどうだったのかわかりやすく反映されている建造物としても知られているのです。

足利義満の時代~北山文化

足利義満の時代の文化がなぜ北山文化と言うかというと、足利義満が3代将軍として活躍していた時代に、京都の北山を中心に栄えたからです。

何といっても北山文化は金閣が有名

北山文化の代表的な建造物というとやはり金閣ですよね。ここで注意したいポイントとして、「金閣寺」と書くと模試では0点になってしまうので気を付けましょう。正式には「鹿苑寺」(ろくおんじ)と呼ばれるお寺にある「金閣」という建物なので、金閣寺というお寺ではないのです。そのため、「鹿苑寺」あるいは「金閣」が正解です。また、「鹿苑寺金閣」でも良いでしょう。

金閣は3階建てで、非常にたくさんの金がつかわれています。建立した当時、足利義満の日明貿易や税収などによって室町幕府は全盛期でした。財政的にも豊かだったので、大量の金を用意することができたため、金閣を建てることができたのです。

「能」が大成した時代

北山文化では、建造物だけでなく伝統芸能も盛んになりました。足利義満の保護をうけた「観阿弥」(かんあみ)と「世阿弥」(ぜあみ)親子が大成したのが「能」です。

能とは、もともと「猿楽」8さるがく)という踊りに、田植え踊りを取り入れたお芝居のことです。その際に「能面」という面をつけて演じていたのです。脳は、緊張感のある神秘的なお芝居ですが、脳の合間には、観客がリラックスできるように、「狂言」(きょうげん)が演じられたのです。狂言も今では伝統芸能として受け継がれていますね。狂言とは、笑いやユーモアにあふれたお芝居です。能と狂言は、テレビドラマの本編と、合間に流れるコマーシャルのような関係だとイメージすると分かりやすいでしょう。

足利義政の時代~東山文化

東山文化は、8代将軍の足利義政の時代に、京都の東山で栄えた文化です。

東山文化と言えば!銀閣を押さえておこう

東山文化で代表的な建造物と言えば「銀閣」ですね。足利義満の建造した「金閣」と混乱しないようにしっかり覚えておきましょう。銀閣も菌核と同様、「銀閣寺」と書くと模試では0点です。もともとは「慈照寺」(じしょうじ)にある「銀閣」だからです。「慈照寺」「銀閣」「慈照寺銀閣」が正解です。間違えないように注意してくださいね。

銀閣は、2階建ての建物です。建立当時は銀を使う予定だったのですが、応仁の乱のさなか、室町幕府にお金があるわけもなく、実際には銀を用意することができなかったので、銀閣という名前ですが、銀は使われていません。応仁の乱のあとの京都は焼け野原になりましたから、銀を買うだけのお金がないのは当然だったと言えるでしょう。

そんな経緯のある銀閣ですが、実は芸術的な評価としては非常に高いものがあります。政治の上ではダメ将軍として知られている足利義政ですが、芸術の分野ではプロ級の腕前、センスを持っていたそのこだわりにあふれた建物として銀閣は有名なのです。たとえば、この時代以降、日本の住居の基礎となった「書院造」(しょいんづくり)が取り入れられているのが銀閣の特徴のひとつです。また、庭も非常にきれいに整えられているなど、当時の建造物として現在でもなお高い評価を得ており、雰囲気も含めて美しい建物です。その才能を政治にも発揮できれば足利義政も名将軍と呼ばれたのでしょうが、向き不向きがあったということですね。

雪舟により「水墨画」が大成した

東山文化は、銀閣だけではありません。「雪舟」(せっしゅう)により、「水墨画」(すいぼくが)が大成したのも東山文化のころです。水墨画は、墨一色で描かれるのですが、「秋冬山水図」(しゅうとうさんすいず)などは墨一色で描いたとは思えないほどの絵で、有名です。こちらも資料集に載っているので押さえておきましょう。

雪舟は、子どものころにお寺で修業したと言われています。しかし、修業が大嫌いで良くサボっていたそうです。修業をサボったことがばれると、和尚さんは罰として雪舟を柱に縛り付けました。辛くて涙を流した雪舟ですが、柱に縛り付けられた状態のまま、何と足だけでネズミの絵を上手に描いたんだとか。和尚さんもびっくりした僧です。子どものころからたぐいまれなる絵の才能に恵まれていたことが分かるエピソードです。

芸術は得意だった足利義政

足利義政は、将軍でありながら政治が嫌いで苦手だったと言われています。お家騒動も起こり、決して心穏やかではなかったはずです。しかし、こと芸術にかかわる分野については才能を発揮し、非常に大きな功績を遺した将軍だと言えるでしょう。

また、足利義政の時代は、室町幕府が財政的に苦労していた時代だったということが分かります。足利義満の時代の金ぴかの金閣と、質素な、しかしセンスある銀閣を比べてみると、当時の厳しい財政事情の中で何とか趣味を発揮したいという足利義満の思いが伝わってくるような気がしますね。

まとめ

室町時代は、鎌倉幕府打倒から建武の新政を経て、室町幕府で将軍と管領が権力を握るという一連の流れがとても大切です。その背景にあるのが鎌倉時代に確立された「御恩と奉公」の関係です。それだけ武士の力がもはや一大勢力として、天皇や朝廷をも脅かすだけの存在になっていたということが言えます。

室町幕府で必ず押さえておきたいのは3代将軍の足利義満、そして8代将軍の足利義政の時代です。足利義満はアイデアマンで財政を立て直し、足利義政は政治はダメでも文化で功績を遺した、実に対照的な2人です。

そして、日明貿易と応仁の乱は必ず押さえておきたいできごとです。日明貿易で潤った幕府の財政をカラにしてしまったのが応仁の乱です。それだけ足利義満と足利義政の因縁は強いんですね。応仁の乱は京都を焼け野原にしてしまいました。毎年7月におこなわれる祇園祭も、応仁の乱によって中断され、その後再開されたという歴史があります。

武家と天皇・公家が入り交じって権力争いをした室町時代は文化も含め非常に特徴のある時代です。イメージが薄いかもしれませんが、その後の戦国時代に大きく関わってくるので、しっかり整理しておきましょう。

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一橋大学卒。 中学受験では、女子御三家の一角フェリス女学院に合格した実績を持ち、早稲田アカデミーにて長く教育業界に携わる。 得意科目の国語・社会はもちろん、自身の経験を活かした受験生を持つ保護者の心構えについても人気記事を連発。 現在は、高度な分析を必要とする学校別の対策記事を鋭意執筆中。