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激動の奈良時代!国民は土地を守れるか??
前回は奈良時代の政治が非常に乱れ、政権がコロコロと移り変わっていく様子を見ていきましたが、この章では奈良時代の土地制度についてみていきます。
701年に大宝律令が制定されて、すべての土地は国家(政府)のものであるということが決められました。その中で、班田収授法が制定され、6歳以上の男女に国家から土地(口分田)が与えられました。
また、土地を与えられた国民は国家に対して、「租」「調」「庸」などの税金を払うということが定められました。
さて、こうして定められた国家の土地制度はうまく機能していいたのでしょうか。そのあたりから、今回は話を進めていきたいと思います。
きつすぎる、農民の税負担!!
政府が安定した財源を確保し、また様々な制度を整えていくために、農民からの税金はとても大切なものでした。そのため、国家の繁栄は農民からの安定した税の確保にあるといっても過言ではありませんでした。
しかし、農民からすると、この税負担が生活に非常に重くのしかかっている状況でした。
例えば、「租」は田んぼ1段につき、2束2把と定められていて、これは収穫の約3%でした。数字だけ見るとそんなに大きな負担に見えないかもしれませんが、しかし、当時の田んぼの生産量はそれほど多くなく、口分田で収穫した米だけではとても生活できるものではなかったのです。
そこに3%の税負担が来るというのは非常に酷なものですね。さらに、自分の土地だけでは生活できない農民は、国家から口分田以外の土地(乗田)を借りたり、または貴族や寺社から土地を借りて、耕作をするということも行っていました。
しかし、これらの土地は原則1年間の有期で借りるもので、返還する際には収穫の5分の1を地子として、国家や貴族・寺社に納めなければなりませんでした。
この、税といいますか利子のことを「賃租」といいます。これらも農民にとっては当然ながら重い負担となっていました。さらに農民にとって最も重い負担になっていたのは、肉体労働で国に奉仕する徭役労働だったそうです。
雑徭は農業が忙しい時期であるとかないとか関係なく負担を強いられ、また年間60日間という定めがあったのにもかかわらずそれが無視されて長期で働かされることもしばしばあったそうです。
そのほかにも兵役の義務など、口分田をもつ農民にとっては非常に重い負担が、彼らを日々泣かせる状況が続いていました。
これらの負担がピークに達したのが、奈良時代でした。というのも、奈良時代は飢饉が起こり、天然痘という流行病が起こり、政府内部では政権をめぐって争いが起こり、非常に世の中が荒れて乱れている時代でした。
そのような中で、乱れた世の中に心を痛めた聖武天皇が、国分寺を全国に造ることや東大寺に大仏を建造することなどを決定しました。
聖武天皇からすれば、これらを造立することによって世の中に平安をもたらそうとしたわけですが、しかし農民にとっては、かえって労役の負担がさらに増えることになり、より苦しい生活を強いられることになってしまいました。
きついんだったら、その場から逃げてしまおう!!
さて、みなさんがこうした税負担に耐えられなくなった農民の立場だったらどうするでしょうか。なんとか税負担から逃れようとしてあらゆる手段を講じようとしますよね。
当時の農民たちは、税負担から逃れるために、勝手に出家してお坊さんになったり、土地を勝手に手放して逃亡したり、戸籍を偽って本当は男なのに女と記載して税負担を軽減しようとしたりしました。
勝手にお坊さんになった者のことを私度僧といいます。僧や尼になると税負担が免除されます。また、口分田を捨てて身を隠したり放浪したりすることを、浮浪・逃亡といいます。
彼らの中には、貴族や寺社に身を寄せて、その配下に入って働いて生計を立てる者もいました。
さらに、男が女と戸籍を偽ることを、偽籍といいます。女性は男性に比べて税負担が軽かったので、生まれた男の子の多くが女性として戸籍登録されたそうです。
ちなみに当時の人口のなんと8割が女性だったそうです。ありえないですね。これでは、少数の男性の取り合いになってしまいます。
これだけ偽った戸籍がごく普通に作成されていたということなのですね。このようにして農民が税負担を逃れようと本来の口分田を手放してしまったことで、律令体制のもとで築き上げてきた班田収受法の体制が揺らいでいってしまいました。
奈良時代の為政者にとっては、こうして崩れかかってしまった土地制度を再建することが一つの政治課題となっていました。
急ピッチで進められる、土地制度の再建政策!!
奈良時代は、農民たちが土地から離れてしまうことによる土地の荒廃に加え、平城京がつくられ産業や経済が発展していく中で人口も急激に増加し、新たな口分田を必要としている時期でもありました。
そこで政府は、722年に新たな土地を開墾するために、「良田百万町歩の開墾計画」を立てました。これは、農民に道具を貸して1人10日間働かせて百万町歩の土地を切り拓こうという計画です。
しかし、百万町歩という数字は、実はほぼ不可能な数字でして、10世紀ごろまでに存在していた土地は全国で88万町歩でして、それ以上の土地を新たに開墾するなんて不可能ですよね。
というわけで政府は、とにかく開墾できるだけひたすら開墾し続けてくれということで、この計画を立て、この仕事をさぼった農民に対しては罰則規定も設けました。
しかし、これにより農民の逃亡により一層拍車がかかり、開墾どころか口分田の荒廃がどんどん進んでいき、結局この計画は頓挫してしまいました。
農民が逃亡してしまう状況と土地が足りていない状況の両方を解決するにはどうしたらいいか、政府は考えました。
そこで政府は「今は土地を与えられても死後にその土地を国家に返還しなければいけないことになっているから、なかなか農民の勤労意欲がわかないのだろう。そしたら、開墾してくれたらとの土地の一定期間の私有を認めるという形にしたらどうだろうか」ということになりまして、723年に三世一身法が制定されました。
別名「養老七年の格」といいます。史料を見ておきましょう。現代語訳も載せておきます。
(養老七年四月)辛亥、太政官奏すらく、「頃者、百姓漸く多くして、田池窄狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇を開闢かしめん。其の新たに溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず、給ひて三世に伝へしめん。若し旧き溝池を逐はば、其の一身に給せん」と。奏可す。(続日本紀)
(口語訳)
(養老七〈七二三〉年四月)辛亥(十七日)、太政官は次のように天皇に奏上した。「最近、人口が次第に増加したのに対し、田や池は狭く不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を勧め行わせたいと思います。その場合、新たに溝や池を造って開墾した者があれば、開墾地の多少にかかわらず三代目までの所有を許し、もし旧い溝や池を利用して開墾した時には本人一代のみに所有を許すことにしたいと思います。」天皇はこの奏上を許可した。
というわけで、新たに溝や池をつくって開墾した者には三世代にわたって、また古くからある溝や池を利用して開墾した者は本人一代に限り、私有を認めることにして、国家が政策的に開墾を進めていこうとしました。
しかし、これで開墾が進んでも結局最終的に、それらの土地も国家に収公される時期になると、やはり開墾した土地もまた荒廃していってしまいました。
そこで、政府は新たに、743年に墾田永年私財法を制定しました。別名「天平十五年の格」と言います。
こちらも史料をみておきましょう。現代語訳ものせておきます。
(天平十五年五月)乙丑、詔して曰く、「聞くならく、墾田は養老七年の格に依りて、限満つる後、例に依りて収授す。是に由りて農夫怠して、開ける地復た荒る、と。今より以後は、任に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。其の親王の一品及び一位は五百町、二品及び二位は四百町、三品・四品及び三位は三百町、四位は二百町、五位は百町、六位已下八位已上は五十町、初位已下庶人に至るまでは十町、但し郡司には、大領・少領に三十町、主政・主帳に十町。若し先より地を給ふことの限より過多なるもの有らば、便即ち公に還せ。……」と。(続日本紀)
(口語訳)
(天平十五〈七四三〉年五月)乙丑(二十七日)、天皇は次のような詔を下した。「聞くところによると、墾田は養老七(七二三)年の格によって、期限が過ぎれば一般の公地と同様に収公してきたが、このため農民が意欲を失い、せっかく開墾した土地が再び荒廃してしまうという。今後は、開墾者の意のままに私有地として認め、三世までとか一身の間とかいわないで悉く永久に収公してはならない。但し私有地の限度は、親王の一品と諸王臣の一位の位階をもつ者は五〇〇町、二品と二位は四〇〇町、三品・四品と三位は三〇〇町、四位は二〇〇町、五位は一〇〇町、六位以下八位以上は五〇町、初位以下と庶民は一〇町とする。但し郡司については、大領・少領は三〇町、主政・主帳は一〇町を限度とする。もし以前から田地を与えられていてこの限度を越えているものがあれば、すみやかに国家に返還させよ。」
というわけで、墾田永年私財法によって、開墾した土地が三世代だけとはいわず、永久に私有を認めるということを定めました。
これにより、大化の改新以降から日本が推し進めてきた、すべての土地と人民は国家のものであるという、公地公民制の原則が崩れました。
ただ、実は無条件に私有が認められていたわけではなく、いくつかの私有が認められるための条件がありました。
それは、
- 身分の高さ(位階)によって私有できる開墾地の面積の制限があること。
- 開墾作業によって普段の農作業に影響が出てはいけないこと。
- 開墾作業を始めてから三か月以内に開墾を終えなければならないこと。
などです。
そのため、一般の農民は、人手もお金も時間もなく、開墾条件の厳しさもあってなかなか開墾を進めることができませんでした。
では、だれが墾田永年私財法の恩恵を受けたのでしょうか。それは、開墾条件が有利に働いて、人手もお金も多く有している、当時の権力者であった、貴族や寺院でした。
彼らが広大な未開地を占有して、そこで大量の浮浪農民を雇って働かせて、どんどん新しい土地を開いていきました。
こうして、貴族や寺社が私有する土地が8世紀に大量につくられました。このような、貴族や寺社の私有する土地のことを荘園といい、特にこの時代の荘園を、日本史史上初めて認められた私有の土地といった意味合いで、初期荘園といいます。
というわけで、墾田永年私財法の成立によって、公地公民制の原則が崩れ、国家の所有する土地と寺社や貴族などの私有の土地である荘園が併存する形へと、土地制度が変化していきました。
765年に政権を担った道鏡は、加墾禁止令をという法令を出し、墾田永年私財法の適用を寺院と少数の農民にしか認めず、貴族の墾田永年私有を否定しました。
これは、藤原氏などの貴族が勢力を拡大していくことに対する抑制策でした。しかし、その後道鏡が左遷されると、加墾禁止令は撤廃され、また墾田永年私財法の、位による開墾面積の制限も撤廃され、より一層寺院や貴族の開墾が進んでいくことになりました。
貴族や寺社は開墾した荘園を農民に貸し付けて賃料を得て、莫大な利益を得ていきました。
まとめ
奈良時代は崩れかかった土地制度を再建させていく時代でもありました。そこで、自ら開墾した土地は私有を認めるという、「三世一身法」や「墾田永年私財法」を制定しました。
しかし、これらの法令が、律令体制で築いてきた公地公民制の原則を崩壊させることにつながり、また貴族や寺社などの経済的基盤を築くことにもつながっていきました。
これがのちに、貴族の藤原氏が圧倒的な力をもって摂関政治へとつながっていく大きな一つの要因ともなっていきます。土地制度が変わることで、国家の政権のありかたも変わってくるということですね。
さて、公地公民制の原則が崩れ、政権をめぐる争いが横行し、藤原氏が権力基盤を固め始めていた奈良時代でしたが、次の平安時代ではどのような時代が待っているのでしょうか。
次の章以降では、その歴史を追いかけてみたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p86-p88
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p50-p54
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p79 –p84
- いらすとや