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日本人と言えば、米!!
日本人の主食と言えば、米ですね。
ほっかほっかのご飯がない食卓というのは日本人にとっては何か物寂しい感じを受けるのではないでしょうか。それぐらい日本人にはお米というのが生活に強く根付いています。
そのお米を日本人が食べ始めるようになった時代こそが、弥生時代なのです。
縄文時代までは、狩猟・採取生活を中心とする食料採取経済でしたが、弥生時代になって自分たちで農業を行って自ら食料を生産する食料生産経済へと移行していきます。
そしてそのことが社会を大きく変革させることにつながりました。
農業がおこなわれると、貧富の差が拡大します。それは、土地によって生産性の高さが違い、生産力の高い土地を持っている者は富を貯えられるようになり、逆に生産力の低い土地を有する者は当然富を貯えることができません。
そこで貧富の差が生まれます。さらに、貧富の差が生まれるだけではありません。
当然人々はより生産性の高い土地を獲得したいと思うわけですから、その土地をめぐって争いが起こることになります。
これが戦争の始まりです。古今東西、戦争が起こる原因というのは土地や富をめぐる争いです。そのきっかけとなるのが農耕の始まりなわけです。
しかし、その反面で農業によって食料の生産をコントロールできるようになったことで、安定して人口を増やしていくことを可能にしました。
そのため、縄文時代までに比べて人口がかなり増えていきました。たくさん人類が繁殖し、食に困らなくなった一方で、戦争という悲惨な出来事を招くことにもなるという、まさに歴史というのは皮肉なものです。
今回は、そんな人口を安定的に支えることができるようになった、一方で、戦争のはじまりを招くことにもなった農耕が開始する弥生時代について学んでいきたいと思います。
弥生時代はどんな時代??
弥生時代が始まったのは、紀元前6世紀から5世紀ごろに北九州地方から始まったといわれています。
弥生時代の弥生というのは、この時代の土器が見つかった現在の東京の本郷弥生町という地名に由来しています。
弥生時代の特徴は、稲作が始まったこと、金属器が使われるようになったこと、弥生土器が使われるようになったこと、の3つが大きなものとして挙げられます。
この中でも特に重要なのが、稲作の開始と金属器の使用です。
もともと農耕は紀元前3000年ごろにオリエントと呼ばれるエジプトやメソポタミア文明、また中国文明の中から発達していきました。
これらの文明は周辺の大河川に支えられて発展していったわけですが、これらの文明の技術がまわりまわって日本にも波及されて、紀元前6世紀から5世紀ごろに、朝鮮半島から北九州の地に伝わったといわれています。
ただ、オリエントや中国などの古代文明と日本とでは、稲作の発展のしかたで少し異なる点があります。
オリエントや中国では、紀元前3000年ころに農耕が発達するとまずは青銅器の農具を使って行う農業が一般的になりました。青銅器というのは銅とスズを合わせて作った金属のことです。
それが、次第に農具が発展していき、オリエントでは紀元前2000年頃、中国では紀元前600年頃に、より深く土地を耕すことができる鉄製の農具を使うようになり、これによって農業の生産性が著しく向上していきました。
このように一般的に農耕が始まるとまずは青銅器の文化が始まり、その後文明の発達によりより農業の生産性が高くなる鉄器の文化がおこるという流れが世界の歴史の中にはあります。
しかし、日本が他の世界と異なるのは、朝鮮半島から紀元前6世紀から5世紀ごろに農耕が伝わった時に、同時に青銅器と鉄器が入ってきて、青銅器の農具を使うことなくいきなり鉄器の農具を使って農業を行うようになったという点があります。
そのため、農具として使わない青銅器は、祭祀や宝物として用いる儀式的・宝器的なものとして使用されるようになりました。ちなみに、青銅器と鉄器を両方合わせて金属器と呼びます。
ここまでをまとめますと、農耕が行われ、同時に鉄器が使われるようになって青銅器はお祭り用の道具として使われており、食料を煮たり焼いたりするのには弥生土器が使われていた時代、これが弥生時代という時代です。
全国に稲作が広まっていたわけではない??
先ほども述べましたように、水稲耕作は北九州から伝わったわけですが、最初は西日本から広がっていき、その後東日本にも広まっていき、日本列島の大部分で稲作文化が浸透していきました。
ちなみに水稲耕作は弥生時代に入ってから伝わったのではなく、近年では水稲耕作は縄文時代の終わりごろから伝わっていたとする説が濃厚になっています。
これは、佐賀県の菜畑遺跡や福岡県の板付遺跡などの西日本各地で縄文晩期の水田跡が発見されたことからわかっています。
いずれにせよ、弥生時代に成って本格的に稲作文化が発展することになるわけですが、しかし日本全国津々浦々に伝わっていたわけではありません。
稲作文化・弥生文化がこの時代に伝わっていなかった例外の地域もありました。その地域とその文化をしっかりと覚えておきましょう。
それが、北海道と南西諸島です。これらの地域では、相変わらず狩猟・漁労・採取生活を基盤とする食料採取経済が続いていきました。
この時代の北海道の文化を「続縄文文化」といい、南西諸島の文化を「貝塚文化」と呼んでいます。
北海道のほうでは、7世紀になると擦文土器をともなう擦文文化やオホーツク式土器を伴うオホーツク文化が後に成立していますが、依然として漁労や狩猟に重きを置いた文化が続いていくことになりました。
北海道で農業が本格的に開始するのは明治時代に開拓使が派遣されてからです。今や広大な農業地域である北海道であるのにちょっと意外に思うかもしれませんね。
一方で西南諸島のほうでは、2世紀ごろからグスク時代と呼ばれる稲作・畑作を中心とした農耕を基盤とする社会が誕生していきます。
ただ、弥生時代は、日本列島の弥生文化と、北海道の続縄文文化、南西諸島の貝塚文化が併存する社会となっていました。
どうやって農業をやっていたの??
弥生時代の稲作のやり方を、順を追って説明していきます。
まず、設備として灌漑・排水路をしっかりと整え、稲作に必要な水のやりくりをうまく調整できるようにします。そして水田を耕します。
ちなみに水田は弥生時代の前期は地下水位が高くて生産性の低い湿田が一般的でしたが、後期になると、地下水位が低く灌漑・排水を繰り返すことで土壌の栄養分が高くなり生産性が向上する乾田での耕作が行われるようになっていきました。
水田を、耕す際に用いる道具が、木製の鋤や鍬です。
これらの木製農具は、磨製石器を使って作ったり、しだいに斧・刀子などといった鉄製工具を使って作ったりしていました。しかし、農具そのものが後に鉄製の鋤や鍬に代わっていき、これで水田を耕すようになっていきます。
稲の苗は、じかに種をまいて育てる直播きの方法をとっていました。種をまいた後も、田下駄と呼ばれる木の下駄をはいて水田の雑草を取ったりして稲を育てます。
そしていよいよ稲が実ります。稲が実ったら、石包丁で一つずつ根元からではなく穂首刈りで稲を刈っていきます。
その後、蓄えておく分は弥生土器に入れて高床式倉庫に貯蔵しておき、消費する分は、木臼や竪杵で脱穀し、弥生土器で煮ておかゆとして食べたり、甑で蒸して食べたりしました。
弥生時代のこうした水田跡は、静岡県にある登呂遺跡などからうかがい知ることができます。登呂遺跡からは、水田跡や用水路跡が発見されており、多数の木製農具も発掘されています。
弥生時代の人々はこのような農耕だけでなく、それと併行して、狩猟や漁労を行ったり、ブタの飼育を行ったりもしていました。食事に多様性があったということがわかりますね。
弥生土器はどんな土器??
さて、食の多様化が進み、食べ物を煮たり・焼いたり・持ったりする実用性のために、縄文土器に代わって新しく弥生土器がつくられるようになります。
弥生土器はその用途に応じて、食べ物を煮たり焼いたりするのに用いる甕、食べ物を蒸すのに用いる甑、食べ物を貯蔵するための壺、食べ物を盛り付けるための鉢や高坏、に分類されています。
弥生土器は1200度の高温で焼いた土器で、文様がなく、薄くて、赤褐色をした硬質な土器です。この土器の名称は、1884年に東京都本郷区向ヶ岡弥生町(現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で発見されたということにちなんでいます。
縄文土器に比べて、実用性が高く、質も堅くて丈夫というのが弥生土器の特徴ですね。
戦いが起こる!!
農業が開始すると、集落が形成されるというのも一つの特徴としてあります。
なぜ農業の発達が集落の発展につながるのかといいますと、農業というのは一人や少ない人数で行うのはかなりきつい仕事です。狩猟も中小動物を射止めるぐらいなら数人いればできるかもしれませんし、植物を摘み取るのも一人でできます。
しかし、農業となるとそうはいきません。みんなで集まって協力して田畑を耕したり田植えしたり収穫しなければかなりきつい重労働です。
さらに農作物がたくさん収穫できることでたくさんの人間を養うこともできるようになるため、必然的に一つの村に多くの人が密集するようになります。
こうしてできあがったのが集落です。
そして今度は、その集落同士でより良い土地をめぐって争いが起こり、弱い集落は強い集落に飲み込まれ、またさらに強い集落に吸収され、ということを繰り返していくうちに、いくつかの集落のまとまりが生まれてきます。
これが「クニ」の誕生です。
中国の歴史書である『漢書』地理誌という書物によりますと、日本は当時、百余国の「クニ」に分かれていたそうです。その「クニ」同士が争う時代が弥生時代には起こっていたのですね。
それを証明するように、かれらの集落にはある特徴があります。それは、周囲を深い濠で巡らせた環濠集落を築いていたり、海抜100メートルを超える山地や丘陵上といった高いところに集落を形成する高地性集落を築いていたりと、軍事的・防御的な性質を持った集落を形成していたという特徴です。
このことが、当時戦乱の世であったことを物語っているのです。
お祭りのはじまり!
こうして、農業が始まり、また世が戦乱の世の中になってくると、人々は縄文時代の時以上に自然の神々を信じるようになります。
卜骨と呼ばれる獣の骨などを焼いてその割れ目の形で吉凶を占うという占いも行われるぐらい、呪術的なもの神的なものをより一層信仰するようになります。
もっとたくさん収穫したいとか、他の集落よりもよい土地を獲得したいとか、そういった気持ちを神様にお願いするようになるのですね。
そのような結果、神様や自然に対してお祈りしたり感謝したりするお祭りが各集落で行われるようになりました。
これらのお祭りの際には、青銅器が祭器として使われていました。青銅製祭器には、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸などがあります。弥生時代の人々は、地域ごとに共通の青銅製祭器を使っていたことがわかっています。
例えば、近畿地方では銅鐸が用いられ、瀬戸内海中部では平形銅剣が用いられ、九州北部では銅矛・銅戈が用いられていたといった感じです。
青銅製祭器は普段は土の中に埋葬して、お祭りの時に土の中から取り出して使っていたそうです。
青銅製祭器が大量に見つかった遺跡として2つ代表的な遺跡がありますので、覚えておきましょう。
まず、島根県にある荒神谷遺跡。ここからは358本の銅剣と6個の銅鐸・16本の銅戈が発見されました。
2つめが同じ島根県にある、加茂岩倉遺跡。ここからは39個の銅鐸が見つかっています。
荒神谷遺跡の358本の銅剣、加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸はしっかりとその数字も覚えておきましょう。
偉い人は大きなお墓に!
さて、集落ができてお祭りが行われていく中で、祖先や自然の神と直接対話をし、その意志を集落のメンバーに伝える役割を果たす者が現れてきて、そういう者が宗教的・経済的・政治的な権威をもってその集落の支配者に躍り出るようになります。
そのようななかで集落の中にも権威のある者とそうでない者との間に身分差が生まれ、ピラミッド状の支配階級が生まれるようになります。
そしてしだいに、集落の中の支配者を崇め奉るという風習が生まれ、その支配者の死後に広大な墓をつくるという文化が生まれ始めます。
その代表例として、方形の墳丘の周りに溝をめぐらした方形周溝墓や、直径40メートルの円型の墳丘の両側に突出部を設けた岡山県の楯築墳丘墓や、山陰地方の座布団型をした四隅突出型墳丘墓などが挙げられます。
中には、副葬品として中国鏡や青銅製の祭器を埋葬しているお墓もあり、その広大さや呪術的な特徴は支配者の権威のアピールとなっているわけです。
支配者層でない集落の構成員たちは、土壙墓・木棺墓・箱式石棺墓などの共同墓地に埋葬されていました。
これらの墓が見つかっている福岡県の金隈遺跡は有名です。
また中には特性の大型の甕棺墓に死者を葬ったものもありました。弥生時代の死者の埋葬は、縄文時代と違って手足を伸ばした状態で埋葬する伸展葬が一般的でした。これはおそらく、亡くなった人が死後の世界でも自由に幸せに生きてほしいという願いからなのかもしれません。
縄文時代と弥生時代とでは死生観がちょっと違ってきているのがわかります。これも世の中が戦乱の世になったからなのかもしれませんね。
また九州北部では地上に大きな石を配している支石墓がみられたり、東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓なんかもみられたりしていました。
弥生時代の遺跡
このように、弥生時代は農耕が始まったことをきっかけとして、社会が大きく変わっていきました。
何か一つの要素が加わることで社会が大きく変革することがある、そういうことを私たちに教えてくれる時代なのかもしれません。
最後に、弥生時代の代表的な遺跡をご紹介して終わりたいと思います。
まず、日本列島と朝鮮半島との比較検討で弥生時代の生活や社会を推測できる遺跡として、韓国島南部にある検丹里遺跡があります。
また環濠集落の遺跡としては、
- 最も有名な佐賀県にある吉野ヶ里遺跡
- 日本最大級の環濠集落を誇る奈良県の唐古・鍵遺跡
- 神奈川県横浜市の大塚遺跡
- 愛知県にある朝日遺跡、大阪府にある池曽根遺跡
- 山口県下関市にある土井ヶ浜遺跡
- 長崎県壱岐島にある原の辻遺跡
などがあります。
原の辻遺跡は、『魏志』倭人伝に出てくる一支国の中心と推定されています。
高地性集落の遺跡としては、大阪府高槻市にある古曽部・柴谷遺跡が有名です。
まとめ
弥生時代の戦乱の時代を物語る遺跡を訪れて、当時の様子をうかがい知ってみてはいかがでしょうか。
次回は、弥生時代の戦乱は具体的にどのように進んでいっていたのかを中国の歴史書からひも解いていきたいと思います。
続きはこちらから!
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p29-p37
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p11-p17
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p29-34
- いらすとや