『源氏物語』は紫式部によって書かれたとされる平安時代中期の長編文学です。54帖からなり、大きく3部に分けられます。前半の1、2部では光源氏の生涯を描く正篇が、第3部にあたる部分では光源氏の子供である薫と光源氏の孫である匂宮を中心とした続編として描かれています。第3部における主題の変化や語り方の違いから、正篇は紫式部の手によるものだが、続編は別の人物の手によるものではないかという説もあります。
『源氏物語』の内容に入る前に、作者とされる紫式部について見ていきたいと思います。
紫式部は藤原為時[i]の娘であり藤原冬嗣[ii]の流れをくむ名家でしたが、紫式部の頃は受領[iii]階級になっています。しかし、曾祖父の堤中納言兼輔[iv]は三十六歌仙[v]に数えられるほどの有名歌人であり、文芸に優れた家系だったと考えられています。そんな家系に生まれた紫式部は非常に知的で幼い頃、兄(弟の説も)よりも利発であったため女子であることを父・為時が残念がったという逸話があるほどです。紫式部は藤原宣孝[vi]と結婚すると一女を授かりますが結婚3年目にして夫が病気で亡くなり寡婦となりました。その後才華をかわれ、藤原道長[vii]の娘である藤原彰子[viii]の女房[ix]となります。
『源氏物語』の作者が紫式部であるという根拠になった記述は、『紫式部日記』[x]中にあります。それは、寛弘5年(1008年)11月1日、中宮彰子と一条天皇の間に生まれた若宮(後一条天皇)の生後50日を祝う宴での出来事でした。
左衛門の督、「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かのうへは、まいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。
訳:
左衛門の督が、「失礼ですが、このあたりに若紫はおいででしょうか」と、几帳の間からおのぞきになる。源氏物語にかかわりありそうなお方もお見えにならないのに、ましてあの紫の上がどうしてここにいらっしゃるものですか、と思って、聞き流していた。
(『日本古典文学全集 紫式部日記』より参照)
左衛門の督とは藤原公任[xi]のことだと考えられており、彼が宴の席で紫式部に対し「若紫はいらっしゃいますか」とからかった場面が描かれています。その記述から考えられるに、当時貴族の中では『源氏物語』が読まれており、紫式部が作者であると知れていたと思われます。
次に、『源氏物語』のあらすじを第1〜3部と部ごとに見ていきたいと思います。
第1部は桐壺〜藤裏葉巻までで、主人公光源氏が生まれる前から始まり、光源氏が栄華を極めるまでが描かれます。冒頭の場面を少し詳しく見ていきます。
桐壺
いづれの御時か、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の謗りをもえ憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。上達部、上人などもあいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれど、やうやう、天の下にも、あぢきなう人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例もひき出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。
(小学館『日本の古典 源氏物語 一』より参照)
『竹取物語』が「今は昔」で始まっているように、『源氏物語』においても「いづれの御時にか」と物語の設定時代をぼやかす手法を使っています。身分がそれほど高くない更衣[xii]であるにもかかわらず帝から寵愛を受け、他の女性には目もくれない状態である帝に対し、他の女性らは妬み、上達部[xiii]たちは唐の楊貴妃[xiv]の話を引き合いに出し、治世が安泰ではなくなるのではないかと心配する様子が描かれています。その更衣が光源氏の母である桐壺の更衣です。
桐壺の更衣が若くして亡くなると、悲しみにくれる帝は桐壺の更衣に似た藤壺という女性を妻に迎えます。幼い光源氏は若く歳の近い藤壺を慕っていましたが、次第にそれが恋心へと変化していき、ついに光源氏は父である帝の妻と関係を持ってしまいます。藤壺は身篭り、皇子を産みますがその子が実は帝の子ではなく光源氏の子だということを知っているのは当事者だけで、罪の意識を抱えたまま、光源氏はどこかで藤壺と血縁が近い、もしくは似ている女性と恋に落ちていきます。光源氏最愛の妻となった紫の上も藤壺の血縁に当たる血筋でした。
第2部は若菜上~幻巻です。栄華を極めた光源氏の権威性が次第に崩れていく様子が描かれています。そのきっかけの一つと考えられているのは、朱雀院の娘である女三の宮の光源氏への降嫁でした。「降嫁」とは、皇女(天皇の子)が臣下の家へ嫁ぐことです。女三の宮のあまりの幼さに光源氏は幻滅し、かねてから女三の宮に懸想していた柏木と女三の宮は関係を持ってしまいます。かつて自分の犯した罪が巡り巡って光源氏の身に降りかかるという、第2部の終わりに向かうにつれ物語は仏教的な要素が強くなっていくのが特徴です。
そして第3部は匂宮~夢浮橋の巻であり、光源氏死後の世界が展開されていきます。物語の主人公は光源氏と女三の宮の子薫、明石の中宮(光源氏と明石の上の子)、今上帝の皇子である匂宮です。(※薫のみを主人公とする説もあります。)世間体では薫は光源氏の子とされていますが、薫は女三の宮と柏木の間に出来た不義の子であり、薫自身もその事実を後に知ることとなります。薫、匂宮と宇治に住む大君と中君、浮舟の姉妹をめぐる恋が描かれていきます。
以上に述べたように『源氏物語』では雅な恋愛が描かれているのはもちろんのこと、因果応報のような仏教的な要素、貴族の権力争いとその儚さなど恋愛の枠だけにとどまらないスケールの大きな物語なのです。
最後に『源氏物語』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)
- 『源氏物語』の作者とされているのは誰ですか。
- その人物が作者とされる根拠となった記述は何に載っていますか。
- 『源氏物語』は何帖からなりますか。
- 『源氏物語』の第1、2部の主人公は誰ですか。
- 『源氏物語』の第3部の登場人物を一人答えなさい。
→次回は紫式部日記について解説します!
(註)
- [i] 生没年未詳。平安中期の文人。中納言(ちゅうなごん)兼輔(かねすけ)の孫、雅正(まさただ)の子で、母は右大臣定方(さだかた)の女(むすめ)。紫式部の父。東宮時代以来近侍した花山(かざん)天皇の出家後不遇をかこち、詩を付した申文(もうしぶみ)を奉って越前守(えちぜんのかみ)に任じられた話(996、『今昔物語』ほか)は有名で、任地ではおりから漂着した宋(そう)人と詩の贈答をした。具平(ともひら)親王(村上帝皇子)邸に出入りする儒者詩人の一人で、和歌もよくした。藤原道長の専権後もしばしば詩歌の宴に列し、三井寺で出家(1016年4月)ののちも詠作を続けたが、18年1月以降没したらしい。その詩は『本朝麗藻(れいそう)』(13首)、『類聚(るいじゅ)句題抄』(五首)ほかに収録され、『後拾遺(ごしゅうい)集』以下の勅撰(ちょくせん)集に四首の和歌をとられている。小学館『日本大百科全書』
- [ii] (775~826) 平安初期の廷臣。通称、閑院左大臣。嵯峨天皇の信頼厚く、蔵人頭くろうどのとう・右大臣・左大臣を歴任、「弘仁格」「内裏式」を撰修。施薬院・勧学院を設置した。娘順子は文徳天皇の生母。三省堂『大辞林 第三版』
- [iii] 平安中期以降、実際に任地に赴いた国司の最上席のもの。遥任ようにんの国司に対する語。任国での徴税権を利用して富を築き、成功じようごう・重任ちようにんを行なって勢力をもった。三省堂『大辞林 第三版』
- [iv] (877~933) 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。従三位中納言兼右衛門督。邸が賀茂川の堤近くにあったので堤中納言と呼ばれる。「古今和歌集」以下の勅撰集に五五首入集。著「聖徳太子伝暦」、家集「兼輔集」三省堂『大辞林 第三版』
- [v] 藤原公任きんとうの「三十六人撰」に名をあげられた歌人。三省堂『大辞林 第三版』
- [vi] ?‐1001(長保3)。平安中期の廷臣。藤原氏北家の高藤系で,右大臣定方の曾孫,為輔の子。紫式部の夫。紫式部の父為時と為輔はいとこであり,宣孝と式部は,またいとこである。正五位下。中宮大進,左衛門尉,蔵人,院判官代,大宰少弐を経て985年(寛和1),丹生社に祈雨の使となっている。990年(正暦1)御嶽精進(みたけそうじ)を行い,その年筑前守となっている。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か翌999年(長保1)のはじめといわれる。平凡社『世界大百科事典』
- [vii] (966~1027) 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。三省堂『大辞林 第三版』
- [viii] (988~1074) 一条天皇の中宮。道長の女むすめ。後一条・後朱雀両天皇を生み、道長による藤原氏全盛を可能にした。紫式部・和泉式部・赤染衛門らの才媛が仕えた。上東門院。三省堂『大辞林 第三版』
- [ix] 宮中に仕え、房(=部屋)を与えられて住む女官の総称。出身階級によって上﨟・中﨟・下﨟に大別される。また、院や諸宮・貴人の家などに仕える女性をもいう。三省堂『大辞林 第三版』
- [x] 日記。二巻。紫式部作。1010年頃成立。一条天皇中宮彰子の出産を中心とした作者の身辺記で、日記的部分と消息文的部分から成る。著者の内面生活をうかがわせる表白、同時代の女流作家の批評などを含む。文学作品としてのみならず、史料としても貴重。三省堂『大辞林 第三版』
- [xi] (966~1041) 平安中期の歌人・歌学者。通称、四条大納言。四納言の一人。実頼の孫。正二位権大納言。故実に明るく、諸芸に秀で、名筆家としても知られる。「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」の撰者。著「新撰髄脳」「和歌九品」「北山抄」、家集「前大納言公任卿集」三省堂『大辞林 第三版』
- [xii] 平安時代、後宮の女官の一。女御にようごに次ぎ、普通五位、まれに四位。もと天皇の衣がえをつかさどったが、のち天皇の御寝に奉仕した。三省堂『大辞林 第三版』
- [xiii] 摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、及び三位以上の人の総称。参議は四位であるがこれに準ぜられた。公卿。雲上人。かんだちべ。三省堂『大辞林 第三版』
- [xiv] (719~756) 中国、唐の玄宗の妃。才色すぐれ歌舞をよくし、初め玄宗の皇子の妃となったが、玄宗の寵愛ちようあいをうけて第二夫人の貴妃とされた。楊氏一族もみな高位にのぼった。安禄山の乱を逃れる途上、官兵に縊死させられた。白居易の「長恨歌ちようごんか」をはじめ多くの詩や小説の題材となった。三省堂『大辞林 第三版』
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