日清戦争前後の情勢
日本は、1876年に朝鮮側が不平等である日朝修好条規[i](江華島条約)を結び、列強が朝鮮半島に進出するのを危険視していました。そこに、朝鮮に対し、宗主権[ii]を主張する清と対立し、日清戦争が起きました。
日清戦争を勝利した日本は、1895年下関条約[iii]で、清の朝鮮に対する宗主権を放棄させ、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲させます。
しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により日本は遼東半島を清に返還します。1897年には、朝鮮が国号を大韓民国と改め、独立国であることを主張しました。
日露戦争へ
1898年〜1901年かけて清国で、帝国主義の進出により困窮したとして農民を中心に反帝国主義の民衆運動である義和団事件が起きます。山東省で蜂起し、1900年には北京にはいり各国公使館区域を包囲し、ドイツ公使を殺害してしまいます。日本・イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリアの8国が出兵し、暴動をおさえます。1901年北京議定書に李鴻章[iv]が調印します。その後もロシアは満州に兵を駐在させたまま、清国へ進出しようとします。
ロシアの南下を警戒するイギリスは、同じくロシアのアジア進出を警戒する日本と結びつき1902年に軍事同盟である日英同盟を締結します。イギリスという後ろ盾を得た日本はロシアとの戦争に踏み切ります。
勝利をあげていた日本軍ですが、次第に戦況は膠着し、日本の経済にも打撃が生じ始めます。一方、ロシアにおいても帝政に対するストライキが起き、情勢が不安定になっていきました(ロシア革命[v])。日本海海戦で日本軍はバルチック艦隊を壊滅し勝利をあげます。
ロシア国内情勢の悪化もあり、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト[vi]を調停役として講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれました。日本は遼東半島と東支鉄道の一部の支配権を獲得し、ロシアは南満州の返還を同意しました。
韓国併合へ
日清、日露戦争により、朝鮮での優位性を認められた日本は、日韓協約を改訂し朝鮮を統治する土台を作り上げていきました。1905年、第二次日韓協約により、韓国総督府を置きます。初代統監は、伊藤博文[vii]でした。しかし、日本の台頭に対し反日運動も高まっていました。1909年伊藤博文は安重根[viii]によってハルビンで暗殺されます。
日本政府は暗殺事件を口実にさらに朝鮮への支配権を強め、1910年に併合に関する条約である韓国併合条約を調印し、韓国併合に至りました。
台湾総督府は、日清戦争後の下関条約により、日本の台湾領有決定とともに台北に台湾総督府が置かれました。日本への同化政策を進める一方で、台湾の近代化を推進していきました。
【注】
[i] 江華島事件後、明治9年(1876)に日本が朝鮮の開国を求め、締結させた条約。日本の一方的な領事裁判権を定め、朝鮮の関税自主権を認めないなど、不平等なものであった。江華条約。(小学館『大辞泉』)
[ii] 他国に対し,内政・外交を管理する権限。この権限をもつ国を宗主国,権限を行使される国を従属国という。(旺文社『世界史事典』)
[iii] 1895年4月に調印された日清戦争の講和条約。日清講和条約ともいう。清国は李鴻章,日本は伊藤博文・陸奥宗光 (むつむねみつ) を全権として,山口県下関で調印,1895年5月批准。内容は,(1)朝鮮の独立の確認,(2)清国の遼東半島,台湾・澎湖列島の割譲,(3)賠償金庫平銀2億両 (テール) (約3億円)の支払い,(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市,などを規定している。のち三国干渉によって日本は遼東半島を清国に還付した。(旺文社『日本史事典』)
[iv] 1823〜1901 中国,清末期の政治家。淮 (わい) 軍を率いて太平天国の乱を鎮圧。以後,淮軍の軍事力,洋務運動の推進,外交の独占によって清末の最有力政治家となる。日清修好条規締結(1871)以来,日本との外交問題の多くに関係した。天津条約をはじめ日清戦争後の下関条約・露清同盟密約,義和団事件後の北京議定書にもたずさわった。(旺文社『日本史事典』)
[v] 917年3月,帝政ロシアが廃され,11月共産党の指導のもとに,社会主義政権が樹立された革命。1917年3月,兵士・労働者たちがツァーリズム打倒を叫び市民革命をおこしロマノフ王朝を滅ぼした。かわって臨時政府に社会革命党のケレンスキーが加わり立憲政体を樹立(三月〈二月〉革命)。しかし,しだいに独裁的となったケレンスキー政権に対し,11月レーニンらの率いるボルシェビキ(多数派)が弾圧をうけながらも武装蜂起し,社会主義政権を成立させた(十一月〈十月〉革命)。このロシアでの革命が成功すると,翌’18年,日本はイギリス・アメリカ・フランスとともにこれに干渉し,シベリア出兵を行った。また革命は日本の社会・労働運動を刺激し,第一次世界大戦後,社会主義運動の隆盛の一原因をなした。(旺文社『日本史事典』)
[vi] (Theodore Roosevelt セオドア━) アメリカ合衆国第二六代大統領(在任一九〇一‐〇九)。トラストを規制し、国家資源保存など革新的政策を進め、海軍軍備拡張、パナマ運河敷設権の獲得、対中国門戸開放政策宣言、日露戦争の講和の斡旋、モロッコ問題の解決など積極的な対外政策を展開した。一九一二年、共和党から分離した革新党を率いて大統領選に出馬したが、ウィルソンに敗れた。一九〇六年ノーベル平和賞受賞。(一八五八‐一九一九)(『日本国語大辞典』)
[vii] 1841〜1909 明治時代の政治家。元老。長州藩出身。松下村塾に学び,尊王攘夷運動に参加。1871年岩倉遣外使節の副使として欧米を視察。帰国後征韓論に反対し,参議兼工部卿となり,大久保利通の死後は内務卿に就任。’82年憲法調査のため渡欧し,帰国後華族制度・内閣制度の創設,枢密院の設置,大日本帝国憲法・皇室典範の制定に指導的役割を果たした。その間,内閣総理大臣・枢密院議長を歴任。1900年立憲政友会を組織し,その総裁に就任。日露戦争後,初代韓国統監として韓国併合の基礎をつくり,’09年ハルビンで暗殺された。(旺文社『日本史事典』)
[viii] [1879~1910]朝鮮の独立運動家。黄海道海州の出身。日本の朝鮮侵略の動きに対し、1907年ごろから義兵運動を展開。09年、ハルビン駅頭で初代韓国統監伊藤博文を暗殺、翌年処刑された。アン=ジュングン。(小学館『大辞泉』)
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