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新たな時代の始まり!!でも…??
大宝律令が制定されて、天皇を中心とする中央集権国家が完成し、さらに都が新たに平城京に遷都され、ここから奈良時代の政治がはじまります。
当時の人たちはおそらく、新しい時代の訪れに期待感を寄せていたことと思います。日本という「国家」が、形を整えてスタートしていくわけですからね。
しかし、実際には奈良時代というのは非常に不安定で、人々が天災や戦乱などに悩まされる苦しい時代となりました。
そうした時代の中で、当時の政権担当者たちはどのような政治を行っていったのか、そのあたりの歴史をこの章ではみていきたいと思います。
奈良時代は政権が何度も移り変わる!!
奈良時代の政治は、当時の政権担当者がだれであったのかをまず抑えることがポイントです。
奈良時代は、全部で7人の人物が移り変わりで政権を担当していきました。まずは、この7人の政権担当者を覚えることが重要です。
その7人の人物は、順番に、「藤原不比等」→「長屋王」→「藤原四子」→「橘諸兄」→「藤原仲麻呂」→「道鏡」→「藤原百川」です。
なんども唱えて覚えてくださいね。
年代でおさえておくと、710年代は藤原不比等、720年代は長屋王、730年代は藤原四子、740年代は橘諸兄、750年代は藤原仲麻呂、760年代は道鏡、770年代は藤原百川と、だいたい10年ごとに政権が移り変わっていきます。
さて、ここで気づくことは、7人の移り変わりの中で、ある法則があるということです。
それは、皇族の人間が政権担当者になった次は、必ず「藤原氏」が政権を担当し、「藤原氏」→「それ以外」→「藤原氏」→「それ以外」…、と交互に政権担当者が移り変わっている点です。
ここからわかることは、律令体制で天皇を中心とする政治体制を築いたのにも関わらず、さっそく藤原氏が政界に進出しはじめ、強い影響を与え始めているということです。
このずっとあとの平安時代中期に藤原氏が政権を独占する、「藤原摂関政治」という時代が到来するのですが、その先駆け・きっかけとなるのが、この奈良時代なのです。
では、いったいなぜ、藤原氏が政界での影響力を強めるようになってきたのでしょうか。まずは、その辺りの歴史からみていきたいと思います。
恐るべき藤原氏の権力掌握術!!
みなさん、大化の改新で中大兄皇子と共に二人三脚で蘇我氏を滅ぼし、改新政治を推進していった人物を覚えていますか。そうです、「中臣鎌足」ですね。
彼は、死ぬ間際に天智天皇(中大兄皇子)から「藤原」の姓を賜り、「藤原鎌足」となりました。そして、その子どもが、大宝律令の完成にも携わり、奈良時代はじめの政権担当者となった「藤原不比等」なのです。
藤原不比等が勢力を伸ばし始めたのが、持統天皇の頃です。中大兄皇子(天智天皇)の死後に次期天皇の位をめぐって壬申の乱が起こり、それに勝利した天武天皇が即位しました。
その妻が持統天皇で、天武天皇の死後に天皇に就任しました。しかし、本来なら持統天皇は天皇に就任する予定ではありませんでした。
というのも、本来なら持統天皇と天武天皇の間の子の草壁皇子が次の天皇を継ぐはずでした。しかし、彼が天武天皇の死と時をほぼ同じくして亡くなってしまいます。
そこで、持統天皇は、草壁皇子の子ども、つまり自分の孫を天皇にしようと考えます。しかし、その孫がまだ幼かったため、孫が成長するまでは自分がワンポイントで天皇をやろうということになり、持統天皇が女帝として天皇に就任しました。
しかし、持統天皇はもともと天皇になるつもりのなかった天皇ですし、めったにない女性の天皇ですし、政治面には少し不安な面がありました。
そこで、持統天皇はある人物に政治のサポートを頼みます。その人物こそが、藤原不比等なのですね。
彼は持統天皇からの厚い信頼を獲得し、次の文武天皇の時代でも力を伸ばしていくことになりました。
ちなみに、持統天皇が遷都した「藤原京」という都の名前は、「藤原氏」と関係があったとか、なかったとか。それほどまでに、藤原氏は少しずつ権力を伸ばしていきました。
さらに、藤原不比等は巧妙な手を使って、最大の権力者である天皇との結びつきを強めていきます。それが、日本史ではこれからも超おなじみになります、「外戚政治」というやつです。
「外戚」というのは、天皇の母親の家族のことで、儒教道徳の中では、家族の中でも特に母方の家族を重んじるようにというきまりがありました。
つまり、天皇家と外戚関係になれば、それだけで強い権力を獲得することができたのです。
そこで、藤原不比等は自分の娘を天皇と結婚させて、さらにその娘と天皇との間に生まれた子どもを、次の天皇にするという手段を使い、政界での権力を急激に伸ばしていきました。
娘を天皇と結婚させて権力獲得だ!!~ 710年代/藤原不比等~
藤原不比等は、日本の国家体制の根幹となる「大宝律令」の完成に大きく貢献し、また、自分の娘の宮子を文武天皇に嫁がせて権力地盤を固めていきました。
さらに、宮子と文武天皇との間に生まれた子どもを後に聖武天皇として即位させ、その聖武天皇のもとに、不比等はさらに県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)との間に生まれた、宮子とは異母妹である「光明子」を嫁がせました。ここから藤原氏の表舞台での政界進出の歴史が始まります。
誇り高き純粋な皇族政治家 ~720年代/長屋王~
720年に藤原不比等が亡くなった後、権力を握ったのは天武天皇の孫で当時右大臣であった長屋王でした。彼は、天皇家の血筋に他の貴族の血が入ることをひどく嫌っていました。
それほど、純潔な皇族の血筋と権威をたいへんに重んじる誇り高き人物でした。そのため、長屋王は藤原氏の政界進出に対してあまり快く思っていませんでした。
長屋王は、農民の負担を軽減するために、722年に良田百万町歩の開墾計画を実施したり、723年に三世一身法を制定したりしました。
これらの内容に関しては、別の章で詳しくお話ししますが、このように長屋王は当時進行していた口分田の荒廃した状況に対して対応する政策を行っていきました。その過程で長屋王は、右大臣から左大臣の地位に出世も果たしました。
しかし、藤原氏側が元正天皇の次の天皇に、不比等の孫の聖武天皇を即位させ、さらにその皇后に不比等と県犬養橘三千代の間に生まれた光明子を就任させようと画策すると、長屋王は「これは皇族の血に穢れをもたらす行為である」として、これを阻止し、藤原氏との対立を深めていくようになりました。
藤原氏側はこの状況をかんがみて、自らの地位が危ういとみると、729年に長屋王に謀反の疑いをかけ、軍を長屋王の邸宅に送り、ここを包囲し、長屋王を自殺に追い込みました。これを長屋王の変といいます。
この事件の直後に、藤原氏は光明子を皇后にすることに成功し(光明子立后)、次に藤原不比等の4人の子どもがそろって政界で権力を握るようになります。この4人の子どもを合わせて、藤原四子といいます。
天に見放された不比等の4人の子どもたち ~730年代/藤原四子~
藤原四子とは、藤原不比等の4人の息子の、武智麻呂・房前・宇合・麻呂のことです。彼らは、武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家と4つの家に分かれ、藤原家の権力を固めていきました。
これで政権内の藤原家の権力は確立したものと、思われましたが、しかし、長屋王を自殺に追い込んだことが祟ったのか、4人はあいついで、当時の流行病であった天然痘にかかって、737年に4人とも一気に亡くなってしまいます。
こんなことってあるのですね。これにより、藤原氏の権力は一時弱体化していきました。
学者もお坊さんも大切にして政治をするぞ!! ~740年代/橘諸兄~
その後、政権は皇族の橘諸兄が担いました。橘諸兄は、自分の政治を支える側近として、遣唐使として派遣されていて帰国した、学者の吉備真備と僧の玄昉を登用し、中国の先進的な政治思想を取り入れながら政治を行っていきました。
しかし、これに対して反発する人間がいました。そうです、藤原氏の人間ですね。橘諸兄の台頭に対して反発していた、藤原宇合[式家]の子の藤原広嗣が、740年に反乱を起こしました。これを藤原広嗣の乱と言います。
藤原広嗣は、学者やお坊さんが政治の表舞台に立っているせいで、世の中が乱れ、飢饉や疫病が流行しているという言い分で、吉備真備や玄昉を政治の世界から排除するために九州で反乱を起こしたのです。
これに対し橘諸兄は、大野東人を将軍とする約1万人の兵を動員して、藤原広嗣の乱を鎮圧し、広嗣を斬殺しました。
この時の天皇は聖武天皇でした。聖武天皇は、世の中が飢饉や疫病で沈んでいることに対して、非常に責任感を感じ、心を痛めていました。
当時の思想では、世の中の乱れはその時の為政者のせいであるという考えがあり、飢饉や疫病が起こっているのは政治のトップに君臨している聖武天皇の責任であるという見方が一般的でした。
聖武天皇はかなり心労であったことだろうと思います。そのような中にあって、藤原広嗣による反乱が起こりました。この出来事に聖武天皇は大変にショックを受け、ここから聖武天皇は平城京を離れ、都を転々とするようになります。
聖武天皇が動いた都を順番に覚えておきましょう。
平城京→恭仁京(741年/山背)→難波宮(744年/摂津)→紫香楽宮(744年/近江)の順です。
恭仁京・難波宮・紫香楽宮を転々とした後、745年に再び平城京に戻ってきました。
都を転々としている中で、聖武天皇は、なんとか仏の力でこの国を平安にしていきたいと強く願っていました。この思想を鎮護国家思想といいます。
そして聖武天皇は鎮護国家を実現していくために、お坊さんの玄昉から意見を聞きながら、いくつかの政策を実施していきました。
まず、741年に恭仁京で、「国分寺建立の詔」を発布しました。国分寺とは、全国各地に五穀豊穣と国家鎮護を願ってつくられるお寺のことで、これにより日本全体を仏の力で守ろうとしました。
国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」といいます。また、国分寺と共に諸国に尼寺として国分尼寺が併せて建立されました。国分尼寺は正式には「法華滅罪之寺」といいます。
国分寺のトップ(総国分寺)は東大寺で、国分尼寺のトップ(総国分尼寺)は法華寺となっています。
次に、743年に紫香楽宮で「大仏造立の詔」を発布しました。これにより建立されたのが、今でも堂々と残る、奈良県の東大寺の大仏なのです。
なお、大仏造立の詔は紫香楽宮で出されていますが、紫香楽宮に遷都はまだされていませんでしたので注意してください。
大仏は仏教の華厳経という宗派のご本尊で、別名「盧舎那仏」といいます。巨大な大仏様の力によって、荒れた世の中を鎮めたいと当時の聖武天皇は思っていたわけです。
この大仏の造立にあたっては、当時民間に仏教を広めることに尽力していた行基が活躍しました。そして、大仏は聖武天皇が政界を引退し、次の孝謙天皇に位を譲ったあとの、752年に完成し、孝謙天皇のもとで、大仏開眼供養が盛大に執り行われました。
聖武天皇が政界を引退し、孝謙天皇が就任した後、再び藤原氏の勢力が台頭してきます。
2人女性に愛されたナルシストの仲麻呂さん ~750年代/藤原仲麻呂~
聖武天皇の後に、女帝の孝謙天皇が就任すると、藤原南家の藤原仲麻呂が政権担当者となりました。
大仏開眼供養が執り行われたその夜に、孝謙天皇は藤原仲麻呂の邸宅に泊ったそうです。おそらく、孝謙天皇と仲麻呂の間には男女の関係があったのでしょう。
さらに、孝謙天皇の母親は皇太后として権力を握っていた光明子であり、そのつながりもあって藤原仲麻呂は政権を握ることになりました。
藤原仲麻呂が政権を握ることに対して良く思わず、757年に反乱を起こした人物がいました。それは、橘諸兄の子どもの橘南良麻呂でした。これを橘南良麻呂の変といいます。
橘南良麻呂は藤原仲麻呂の台頭と同時に、吉備真備らが左遷されたこと、父親の橘諸兄が失意のうちに亡くなったことなどに不満を抱えて反乱を起こしたのです。
しかし、これは藤原仲麻呂によって鎮圧され、藤原仲麻呂の反対勢力はこれで一掃されました。同年に、少し病気がちになった孝謙天皇に代わり、淳仁天皇が擁立されました。
藤原仲麻呂の功績としては、757年に養老律令を施行したこと、年60日の諸国での無償労働である雑徭を半減したこと、公出挙の利息を5割から3割に減らしたことなど、農民の負担軽減策を実施したことがあげられます。
また、官職の呼び方を中国風(唐風)に変更し、太政大臣を大師、左大臣を大傅、右大臣を大保などに改めました。
藤原仲麻呂自らは大師(太政大臣)となり、さらに自分の名前を、「どんな時でも相手に押し勝って、美しい笑みを人に恵む」という意味合いの「恵美押勝」という、ある種ナルシスト的な名前を自称するようになりました。
しかし、恵美押勝(藤原仲麻呂)のおばである、光明子が760年に亡くなってから政権内部の風向きが変わっていきました。
孝謙上皇に見初められたお坊さん ~760年代/道鏡~
天皇の位を淳仁天皇に譲った孝謙上皇は、病気の療養のために近江の保良宮にとどまっていました。そのときに、法相宗という宗派のお坊さんであった道鏡が孝謙上皇の看病にあたりました。
道鏡の看病により、孝謙上皇の病状はみるみるうちに回復していきました。人間、命の回復を与えられると、今まで消えていた欲が再燃していくもので、孝謙上皇は再び政治の中枢で権力を握りたいと考えるようになります。
そして、かつては恵美押勝(藤原仲麻呂)と蜜月の関係にあったものの、今度は自分の病気を治してくれた道鏡に恋をするようになり、「道鏡に政権を持たせて、私がサポートする形で政治を行っていきたいわ」と画策するようになります。
一方の恵美押勝(藤原仲麻呂)のほうは、孝謙上皇は離れ、光明子という後ろ盾も失い、勢力が衰えていっている状況でした。そのような中で、孝謙上皇と道鏡が一気に台頭していきます。
この状況を危惧した恵美押勝(藤原仲麻呂)は、764年に道鏡を政界から排除しようと反乱を起こします。これを「恵美押勝の乱」または「藤原仲麻呂の乱」といいます。
結果的に、恵美押勝(藤原仲麻呂)が敗れ、そのまま殺されてしまいました。さらに、天皇の位についていた淳仁天皇は孝謙上皇によって淡路島に配流され、代わって孝謙上皇が再び「称徳天皇」として天皇に位につきました。
同じ人物が二度天皇になることを「重祚」といいましたね。ここから、道鏡と称徳天皇による政治が始まります。
称徳天皇に寵愛を受けた道鏡は、驚くべきスピードで出世していきます。765年に太政大臣禅師に就任。これは今までにはない官職で、太政大臣と同じレベルの地位であるといわれています。まさに政治のトップということですね。
さらには、766年には法王となり、今度は天皇と同じくらいのレベルの地位まで上り詰めました。どうやら、称徳天皇は道鏡を次期天皇にしたいと考えていたと思われます。
しかし、お坊さんが天皇の位につくなどということは前代未聞のことです。天皇は皇族の人間しかなれないという慣習があるわけですからね。それを破って、称徳天皇は道鏡を天皇に就任させようと画策していました。
しかし、当然この状況にだれもが黙っているというわけにはいきません。
称徳天皇は道鏡を天皇に就任させる口実として、「宇佐八幡宮の神様から、道鏡を次期天皇にするようにとのお告げがあった」ということを言っていました。
宇佐八幡宮は大分県にある応神天皇や神功皇后らを祀っている神社です。この宇佐八幡宮からの神託に対し、「そんなのうそにきまっている」と、その真偽を確認するために、和気清麻呂が宇佐八幡宮に行きました。
その結果、「道鏡を次期天皇にしなさい」という神託はウソであったことが発覚しました。これにより道鏡の天皇就任は見送られることになりました。
しかし、称徳天皇の和気清麻呂に対する怒りは激しく、和気清麻呂は称徳天皇によって、名前を「別部穢麻呂(わかれべのけがろまろ)」とディスリ満点の名前に改名させられたり、「お前なんか顔も見たくないわ」と九州の大隅国に配流されてしまったりと、散々な目にあいました。
この一連の事件を宇佐八幡宮神託事件といいます。しかし、770年に称徳天皇が亡くなって、それに伴って道鏡も失脚し下野薬師寺に配流されると、和気清麻呂は再び京に舞い戻ることができ、彼は後の桓武天皇の時代に、平安京遷都の成果をあげることになります。
激しく感動したおじいちゃん天皇 770年代/藤原百川
さて、称徳天皇が亡くなり、道鏡が失脚すると、再び藤原氏の勢力が盛り返してまいります。770年に藤原式家の藤原百川や藤原永手が中心となって、天智天皇系の光仁天皇を即位させました。
光仁天皇は、高齢の天皇でまさか自分が天皇になれるとは思っていなかったため、たいへんに喜んだそうです。
というのも、光仁天皇は高齢であることに加え、実は672年の壬申の乱以降ずっと天武天皇系の天皇が続いていて、天智天皇系の光仁天皇は自分が生きている間には天皇になることはできないと思っていたのです。
そのため、晴れて天皇に就任することができた光仁天皇は、藤原百川や藤原永手に大変感謝したそうです。ここから藤原家の権力基盤が安定して固まり始めていきました。
まとめ
奈良時代は、藤原氏とそれ以外の皇族・貴族との政争が激しかった時代でした。その過程の中で、藤原氏が徐々に政治権力の基盤を固めていき、これがのちの平安時代中期の藤原摂関政治につながっていきます。
飢饉や飢餓などにより世の中がたいへんに乱れ、国内での血を流す政権争いが激しかった時代に、いかにして藤原氏が力をつけていったのか、その歴史をしっかりと振り返っておきましょう。
さて、ここまでみてきた奈良時代は非常に荒れた時代でありました。そして、その中で農民たちも疲弊し、口分田として民衆に与えられていた土地もどんどん荒廃していく状況が起こっていました。
そのような中で奈良時代の政府は具体的にどのような対策をとっていったのか、そして国の土地制度や律令体制は奈良時代のどのように変化していくのか、次の章ではそこに焦点をあててみていきたいと思います。
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参考
- 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016, p88-p92
- 『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p49-p52
- 向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p84 –p91
- いらすとや