遺跡とは過去の人間の活動の跡が残されていることが確認できる場所などを指します。今回は弥生時代の主な遺跡についてみていきましょう。
遺跡についてみていく前に、弥生時代についておさえておきましょう。紀元前1万年前から紀元前3世紀まで続いた縄文時代の後、朝鮮半島など大陸から移り住んだ人々によって、稲作が伝わり、稲作がさかんになり始めた紀元前4世紀ごろから始まるのが弥生時代です。
大陸から移り住んだ人々は、稲作だけでなく、青銅器や鉄器などの金属器や土器の製造法なども伝えます。縄目が特徴的で厚手で黒褐色であった縄文土器とは違い、弥生土器は薄手で、赤褐色であることが特徴です。
銅鐸や銅鏡などの青銅器は主に祭祀に使われ、鉄器は武具や農具などに使われました。そのような道具の技術の発達は、集落における人々の役割や貧富の格差を生み出し、次第に集落のリーダー格が出現するようになり、次第に国を形成していくようになります。
国が形成され、各地に集落を支配する王や豪族が現れ、大陸との交易を始めます。弥生時代の遺跡には、稲作などの当時の人々の生活の様子や祭祀の道具のほか、交易の様子がわかる出土品が数多くあります。
では、弥生時代の有名な遺跡についてみていきましょう。
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集落の暮らし
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
佐賀県神埼郡の旧神埼町・旧三田川町・旧東脊振村の3つの町村にまたがる吉野ヶ里遺跡は弥生時代の遺跡の中でも最大規模を誇る遺跡です。上の写真の左側にあるのは高床式倉庫で右にあるのが住居です。このような集落の集まった「ムラ」や「クニ」の様子が遺跡の中に残っています。
更に当時の人々の生活の知ることができる農具などの道具も遺跡から出土しています。(写真下)
登呂遺跡(静岡県)
吉野ヶ里遺跡とともに有名な弥生時代の遺跡が登呂遺跡です。安倍川と藁科川がつくった扇状地にある登呂遺跡では、住居や倉庫が広がる区域のほかに水田の跡が残る区域が存在しています。大量の土器や木製品が出土され、弥生時代は稲作がさかんであったことを象徴づけたのがこの登呂遺跡でした。
板付遺跡(福岡県)
(板付遺跡)
弥生時代初期の水田跡の下の層に縄文時代晩期の水田跡が発見されたことから日本最古の稲作集落跡といわれています。
青銅器
荒神谷遺跡(島根県)
古墳時代の須恵器の一片が出土したことからきっかけで発掘された遺跡です。1984〜85年の発掘調査で、弥生時代の銅剣358本、銅鐸6個と銅矛16本と大量の青銅器が発掘されました。弥生時代の青銅製の祭祀具を研究する上で重要な遺跡となっています。
交易
「漢委奴国王」の金印
江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島で金印が地元の農民によって偶然見つかります。その金印には、「漢委奴国王」の刻印があり、そのことから漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かりました。中国の歴史書『後漢書』に、建武中元2年(57年)に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれています。この「印綬」が志賀島で見つかった金印だと考えられています。
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参考