『土佐日記』は作者である紀貫之が女性のふりをして土佐守(現在の高知県周辺)の任期を終えて帰京するまでの様子が綴られている日記文学です。冒頭の、
「をとこもすなるにきといふものを、をむなもしてみむとするなり」
訳:男もするという日記というものを女である私もしてみようと思う
(山川出版社『日本史研究』)
というフレーズをご存じの方も多いのではないでしょうか?
当時男性は日々の行事など、公的な記録として日記をつけていました。一方で、女性は現在で言う日記に近い私的な内容を綴っていました。『土佐日記』は後者のように公的な内容ではなく私的な内容が書かれています。主な日記文学として『土佐日記』の他に、『蜻蛉日記』(藤原道綱母[i])、『紫式部日記』(紫式部[ii])、『和泉式部日記』(和泉式部[iii])、『更級日記』(菅原孝標女[iv])、『讃岐典侍日記』(讃岐典侍藤原長子[v])など女性による書き手の日記文学をはじめ、『小右記』(藤原実資[vi])、『御堂関白記』(藤原道長[vii])など男性の書き手による日記文学もあります。
『土佐日記』が書かれた時代について軽く触れておきます。
寛平6年(894年)に菅原道真[viii]の提言により遣唐使が廃止されました。遣唐使廃止以後、それまでの唐風文化から国風文化へと変遷していきました。その過程で漢字を崩した草書体である平仮名(またはかな文字とも)が普及していき、主に女性が書く文字として使われました。漢字のごく一部を取り出し、漢文を訓読するために作り出されたのが片仮名です。貴族社会において公的な文書では漢文が主流でしたが、先に述べた『御堂関白記』のような日記においては漢文と片仮名を組み合わせた文章が使われています。『土佐日記』は先に述べた通り、女性が書いた体で書かれているため、使われている文字は平仮名なのです。
内容に触れる前に、紀貫之について説明していきます。平安時代の歌人であり、三十六歌仙[ix]の一人。紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑と共に『古今和歌集』の撰者となり、仮名序を記したことでも有名です。土佐守だけでなく大内記も歴任しています。『小倉百人一首[x]』に掲載されている紀貫之の歌は以下の通りです。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香に匂ひける」
訳:人の心が変わってしまったかどうかわからないが 故郷の花は昔のまま香っていることです。
紀貫之が土佐守に任命が発令されたのは延長8年(930年)正月29日、後任者が任命されたのは承平4年(934年)4月29日、帰京したのが翌年承平5年(935年)だとされています。よって『土佐日記』の成立は承平5年(935年)頃と考えられています。土佐守とは「律令制の国家において中央から派遣され諸国の政務を執り行う地方官」のことです。土佐の国府(国ごとにおかれた地方行政府のこと)を出発し、京の都へと向かう道程は主に船でしたが当時の船旅はかなり危険であり、命がけのものでした。紀貫之一行は京の都に着くまでに55日程かかったといいます。『土佐日記』の内容を元に主な旅の日程を以下の表にまとめました。
月日 | 出発地 | 到着地 |
12月21日 | 国府 | 大津 |
25日 | 大津 | 国府 |
26日 | 国府 | 大津 |
27日 | 大津 | 浦戸 |
28日 | 浦戸 | 大湊 |
1月9日 | 大湊 | 奈半 |
11日 | 奈半 | 室津 |
17日 | 室津 | 室津 |
21日 | 室津 | 不明 |
22日 | 不明 | 不明 |
26日 | 不明 | 不明 |
29日 | 不明 | 土佐泊 |
30日 | 土佐泊 | 和泉の灘 |
2月1日 | 和泉の灘 | 和泉の灘 |
5日 | 和泉の灘 | 難波 |
6日 | 難波(澪標) | 河尻 |
7日 | 河尻 | 不明 |
8日 | 不明 | 鳥飼の御牧 |
9日 | 鳥飼の御牧 | 鵜殿 |
11日 | 鵜殿 | 山崎 |
16日 | 山崎 | 京 |
表のような土地を経由して京の都に帰った紀貫之ですが、その間に起こった知人との交流や離別、各地の土地の様子、船中の出来事などが『土佐日記』の中には描かれていますが、その内容は虚構も十分にあると考えられています。
そのような話の中から、やっとのことで京にたどり着いた場面である『帰京』を紹介したいと思います。京に帰り着いた喜びと共に、任務地土佐で亡くなった女児に思いを馳せ悲しんでいる場面です。
京に入り立ちてうれし。家に至りて、門に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。
中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。今宵、
「かかること。」
と、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。
さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。今生ひたるぞ交じれる。おほかたのみな荒れにたれば、
「あはれ。」
とぞ人々言ふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人もみな、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、生まれしも 帰らぬものを わが宿に 小松のあるを 見るが悲しさ
とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、また、かくなむ。
見し人の 松の千年に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや
忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾く破りてむ。
訳:
京都に入って嬉しい。家について、問に入ると、月が明るいので、とてもよく(家の)様子が見える。聞いていたよりもさらに、どうしようもない程壊れ破れている。家を預けた人の心も、荒んでいる。
垣根はあるけれど、一軒の家のようであるので、望んで(隣の家の人が)預かったのだ。それなのに、便りも(お礼の)物もあげる機会がなかった。今夜
「こんなひどいことを」
と、大声で文句をいうこともせず。とても辛いと思ったが、贈り物はしようと思う。
さて、(庭には)池のように窪み、水たまりができているところがある。ほとりには松もあった。5、6年のうちに千年でもすぎたのだろうか、(松の)一部分がなくなっていた。今生えてきた物も混じっている。大方皆荒れてしまっているので、
「ああ」
と人々は言う。思い出さないことがなく、思い恋しい中でも、この家でうまれた女児の、一緒に帰ることができなかったことが、どんなに悲しいことだろうか。船員も皆、子供が集まって騒いでいる。こうしているうちに、いっそう悲しみが耐えられないので、こっそりと気持ちを知っている人(妻)と詠んだ歌、この家で生まれた(子である)のに 帰らないという 私の家に 小松が生えているのを見るのが悲しい
と言う。それでも飽きないのであろうか、また、このように詠んだ。
(以前)会った人松が千年生きるのを見ることができるなら、悲しい別れなどしただろうか。忘れられず、残念なことも多いが、(書き)尽くすことができない。いずれにしても早く(日記を)破り捨てよう。
最後に『土佐日記』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと振り返っておこう!)
- 『土佐日記』の作者は誰ですか。
- 『土佐日記』の土佐は現在の何県あたりですか。
- 『土佐日記』は土佐からどこへと帰る出来事が描かれていますか。
- 帰る手段は何でしたか。
- 『土佐日記』は平仮名、片仮名どちらで書かれていますか。
→次回は後撰和歌集について解説します!
(註)
- [i] (936頃~995) 平安中期の歌人。菅原孝標女の伯母。藤原兼家に嫁し、右大将道綱を生む。拾遺和歌集以下の勅撰集に三六首入集。著「蜻蛉日記」、家集「道綱母家集」『三省堂 大辞林 第三版』
- [ii] (973頃~1014頃) 平安中期の女流作家・歌人。藤原為時の女むすめ。はじめ藤式部と呼ばれる。藤原宣孝と結婚、大弐三位を生むがまもなく夫と死別。その後、源氏物語の執筆を始める。才媛のほまれ高く、一条天皇中宮彰子(上東門院)に仕え、「白氏文集」を進講。藤原道長や藤原公任らとの交流もあった。ほかに「紫式部日記」「紫式部集」などの著がある。『三省堂 大辞林 第三版』
- [iii] 平安中期の女流歌人。大江雅致まさむねの女むすめ。和泉守橘道貞と結婚、小式部内侍を生む。冷泉院の皇子為尊親王(977~1002)・敦道親王(981~1007)の寵を受け、両親王薨御後は、一条天皇中宮彰子に出仕。のち、藤原保昌(958~1036)と再婚、夫の任地で没。恋の哀歓を直截ちよくせつに詠んだ女性として名高い。生没年未詳。著「和泉式部日記」、家集「和泉式部集」『三省堂 大辞林 第三版』
- [iv] (1008?~?) 平安中期の歌人。母は、藤原道綱母の異母妹。一〇歳の時、父と共に任地上総国に下向、のち上京し、三〇歳頃祐子内親王に出仕。橘俊通と結婚。死別後「更級日記」を著す。「夜半の寝覚」「浜松中納言物語」の作者ともいわれる。『三省堂 大辞林 第三版』
- [v] 平安時代後期の日記作者。歌人の讃岐入道藤原顕綱の娘。本名,長子。康和2 (1100) 年堀河天皇に出仕し,翌年典侍 (てんじ) となる。以後,嘉承2 (07) 年天皇が崩御されるまで側近に仕え,寵愛を受けた。同年 10月,白河上皇の懇請により5歳の新帝鳥羽天皇に仕え,即位式にはけん帳をつとめた。元永1 (18) 年精神障害をきたし,兄道経に預けられた。以後の消息は不明。『讃岐典侍日記』は堀河天皇の崩御の前後,および鳥羽天皇に仕えた1年余のことを記した回想記。『ブリタニカ国際大百科事典』
- [vi] (957~1046) 平安中期の廷臣。右大臣。祖父実頼の養子。性剛直で全盛期の道長と対立、批判的立場に立つ。また、有職小野宮流を大成。著「小野宮年中行事」、日記「小右記」など。『三省堂 大辞林 第三版』
- [vii] (966~1027) 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
- [viii] (845~903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公かんこう・菅丞相しようじようと称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴ざんそで大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂へんさん参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」『三省堂 大辞林 第三版』
- [ix] 藤原公任の「三十六人撰」に名をあげられた歌人。『三省堂 大辞林 第三版』
- [x] 歌集。藤原定家撰と伝えるが撰者・成立年とも未詳。天智天皇から順徳天皇に至る各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ撰し、京都嵯峨の小倉山荘の障子に張ったと伝えるところからこの名がある。歌ガルタとして近世以降庶民の間にも流布した。小倉山荘色紙和歌。小倉百首。単に「百人一首」とも。『三省堂 大辞林 第三版』