戦乱の世を経て、徳川家康が江戸(現:東京都)に幕府を開いた1603年(慶長8年)から、大政奉還される1867年(慶応3年)までの200年余り続いた江戸時代。徳川家康はどのようにして幕府を開き、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光とどのように幕藩体制が整えられていったのかを説明します。
江戸幕府が開かれるまで
戦国の世で全国統一を目指し、実行にうつした織田信長でしたが、本能寺の変により明智光秀に討たれます。明智光秀を討ち、織田信長の後を継いで天下統一に乗り出したのは豊臣秀吉でした。徳川家康は織田信長と同盟し、東海地方を治めていましたが、豊臣秀吉政権下で北条氏滅亡後の関東に移封[i]されました。
598年(慶長3年)豊臣秀吉亡き後、豊臣政権を支えてきた家臣らで東西に分かれ争いました。(関ヶ原の戦い)西軍は石田三成、小西行長、毛利輝元ら。対する東軍は徳川家康、福島正則、加藤清正、黒田長政ら。小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返りなどもあり天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いは東軍の勝利となりました。
1603年(慶長8年)徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。しかし、依然として豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼は大阪城におり、脅威を感じていた家康は1605年(慶長10年)将軍職を息子秀忠に譲り、将軍は徳川家の世襲で行っていくことを明確にしました。家康は駿府(現・静岡県)に隠居しましたが、大御所として実権を握っていました。
家康は1614(慶長14年)10月に、秀吉が創建した方広寺の巨鐘に「国家安康」「君臣豊楽、子孫殷昌」と銘があり、家康の名を2つに分断していると糾弾し、大坂冬の陣を起こしました。同年12月に和議を結びますが、翌年1615年(慶長11年)大坂夏の陣を起こし、大阪城は陥落、淀君と秀頼は自害しました。
幕藩体制の成立
幕藩体制とは?⇨諸大名(藩)が土地と民を統治し、更にその上に諸大名を統治する将軍(幕府)がある政治体制です。
徳川家康の政治
一国一城令(1615年/元和元年)…大名の居城を一つに限定する法令。幕府に対する軍事拠点を作らせないようにしました。
武家諸法度(1615年/元和元年)…大名に向け幕府が制定した基本法令。徳川家康が金地院崇伝らに命じて法案を起草させましたが、公布は家康ではなく、息子であり2代将軍の徳川秀忠の名で公布されました。内容は城郭修理の報告や無届婚姻の禁止など。幕府による諸大名への統制の役割を果たしています。
2代将軍 徳川秀忠の政治
先に述べた武家諸法度の公布も秀忠が行ったことの一つです。
大名配置…全国の大名をそれぞれ親藩・譜代・外様に分け配置しました。親藩は徳川家の直系及び分家をさします。親藩のうち尾張・紀伊・水戸の3藩を御三家といいます。譜代は関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えており、近しい関係になった大名をさし、外様は関ヶ原の戦い以後徳川に使える大名をさします。主要都市を幕府直轄領したり、親藩を配置したりして円滑に統治できるよう大名を配置しました。
3代将軍 徳川家光の政治
武家諸法度…秀忠の名で公布された武家諸法度の改訂を行い、林羅山が起草し1635年(寛永12年)家光によって公布されました。この時公布された武家諸法度の大きな特徴として参勤交代の義務づけがあります。他には500石積み以上の大船の禁止など具体的な要項を追加しました。
⇨参勤交代とは?…大名は江戸に妻子を住まわせ、一定期間交代で江戸に参勤する義務。大勢の家臣を連れ江戸に参勤するため、諸藩の大名の経済を圧迫することにもなりました。
まとめ
江戸幕府をひらいた徳川家康から始まり、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光の3代で、江戸幕府の幕藩体制の基礎が整いました。以後江戸幕府は200年余り続き、徳川も15代まで続きました。
[註]
[i]…諸侯の領地を他へ移すこと。転封(てんぽう)。国替(くにがえ)。(『日本国語大辞典』)
おすすめ記事
参考