日本人なら知っておきたい文学作品!第3の勅撰和歌集『拾遺和歌集』を徹底解説

拾遺和歌集』は20巻からなる勅選和歌集であり、勅撰和歌集としては『古今和歌集』『新古今和歌集』に続き3冊目となります。おおよそ1300首の和歌が収載されている『拾遺和歌集』ですが、この題にある「拾遺」選びされた歌をう集”を意味します。成立や撰者に関しては未詳ですが、編纂を命じたのは花山院だと考えられ、撰者には花山院自身藤原公任[i]が挙げられています。また藤原公任撰だと考えられている私家集[ii]に『拾遺抄』があります。『拾遺和歌集』は『拾遺抄』をもとに増補されたものではないかと考える説もありますが、『拾遺和歌集』と『拾遺抄』どちらが先に成立したかは議論が分かれています。『拾遺和歌集』の成立は1005~1007年(寛弘2~4年)だと考えられています。

部立は春、夏、秋、冬、賀、別、物名、雑(上・下)、神楽歌、恋(1~5)、雑春、雑秋、雑賀、雑恋、哀傷からなります。『古今和歌集』の部立を継承しつつも、『拾遺抄』の部立をなぞった構成になっています。更に、連歌釈教歌が含まれており、『古今和歌集』、『新古今和歌集』と勅撰集が編纂されていく中で和歌の形態が変化してゆく様子を見て取ることができます。「連歌」は和歌から派生した詩歌の形態の一つで、上の句と下の句とを複数名で交互に詠み連ねるものです。院政期頃から長・短句を交互に連ねる長連歌が興隆し、鎌倉時代以後は百韻を定型とするようになりました。ほかにも歌仙・五十韻・世吉などの形式が増え、室町時代に最盛期を迎えました。「釈教歌」は仏教信仰を表した歌などの仏教にまつわる歌を指します。
『拾遺和歌集』においては部立として連歌や釈教歌があるわけではありません。しかし、『千載和歌集』で釈教歌が部立として一巻にまとめられます。連歌は部立にはなりませんが、連歌の勅選和歌集である『菟玖波集』が南北朝時代に成立したことから、その勃興ぶりが窺えます。

それでは、『拾遺和歌集』に入集した行基の釈教歌をいくつか挙げたいと思います。
(『新編 日本古典文学全集 拾遺和歌集』より参照。)

「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水くみつかへてぞ得し」
訳:法華経[iii]の教えを私が得たのは、(前世において)薪をわり、菜をつみ、水を汲んで得たのである

「百くさに八十くさそへて賜ひてし乳房のむくい今日ぞ我がする」
訳:百石に八十石を添えて(お乳を)与えてくださった(母の)乳房の報いを今度は私が(恩返し)しよう(※)

※解説
報恩についての教えを解いた『父母恩重経』[iv]に「計るに、人々母の乳を飲むこと、一百八十斛となす。父母の恩重きこと天の極まり無きが如し」[v]とあり、赤子は一百八十斛の乳を飲むと言われていることから“百くさに八十くさ”乳を与えてくださった母にという意味合いで和歌の中では表現されています。

「霊山の釈迦のみまへに契りてし真如[vi]くちせずあひみつるかな」
訳:霊山の説法で釈迦の御前で誓った約束がくちることなくまた逢うことができたな

以上に述べたように釈教歌は仏教の教えや、行事ごとにまつわるものが多くみられます。
次に、『拾遺和歌集』に入集している歌人を多い順に和歌と共に紹介していきたいと思います。

  • 紀貫之[vii]

    「桜ちる木の下風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける」
    訳:桜が散る木下に吹く風は寒くはなく、天のあずかり知らぬ雪が降っているのだ。解釈:桜の花びらを“空にしられぬ雪”と粋な表現で詠んでいる。

  • 柿本人麻呂[viii]

    「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」
    訳:林の奧深く、木の枝にとまり、独り夜を明かすという山鳥の垂れた尾のように長い長い夜を私は一人で寝るのだろう。

  • 大中臣能宣[ix]

    「千とせまでかぎれる松もけふよりは君にひかれて万代やへむ」
    訳:千年までと(寿命が)限られる松も今日からは君にひかれて万年の命となるでしょう。

  • 清原元輔[x]

    「物も言はでながめてぞふる山吹の花に心ぞうつろひぬらん」
    訳:物も言わずにぼんやりと物思いに耽っている。山吹の花(の色)に私の心がうつってしまったのだろうか。

  • 平兼盛[xi]

    「わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる」
    訳:我が家の梅の高く伸びた枝が見えたのだろうか、思いがけず君が来てくれた。

  • 凡河内躬恒[xii]

    「手もふれで惜しむかひなく藤の花そこにうつれば波ぞ折りける」
    訳:手も触れずに(散るのを)惜しむ甲斐もなく、藤の花は(水に)映ると、波が折ってしまった。

  • 源順[xiii]

    「氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬ鶯の声」
    訳:氷さえ留まっていない春の谷風にまだ打ち解けない鶯は声も聞かせてくれない。

  • 伊勢[xiv]

    「散り散らず聞かまほしきをふるさとの花見て帰る人も逢はなむ」
    訳:散ったか散っていないか尋ねたいのだが故郷の花を見て帰る人にでも出会いたい。

  • 恵慶[xv]

    「山吹の花のさかりに井手に来てこの里人になりぬべきかな」
    訳:山吹の花が盛りの時に井手にやって来て(あまりの花の美しさに)この里の人になってしまいそうだ。

  • 村上天皇[xvi]

    「秋風になびく草葉の露よりもきえにし人をなににたとへん」
    訳:秋風のたなびく草葉の露よりも儚く消えてしまった人を何にたとえようか。

  • 藤原公任

    「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」
    訳:春になって人がたくさん訪れたこの山里の宿の主人は花であったのだな。

以上に挙げた歌人の中で、歌の数も多かった紀貫之と柿本人麻呂の評価が高く、柿本人麻呂の歌数が『拾遺抄』よりも多いことがこの『拾遺和歌集』の特徴です。また、『拾遺和歌集』の和歌の特徴は優雅でなだらか、余情の美しさがあるとされています。

最後に、『拾遺和歌集』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 『拾遺和歌集』何冊目の勅選和歌集ですか。
  2. 『拾遺和歌集』の編纂を命じたのは誰だとされていますか。
  3. 釈教歌はどのような歌ですか。
  4. 『拾遺和歌集』の部立に釈教歌の部立はありますか。
  5. 『拾遺和歌集』に入集している主な歌人を2人あげなさい。

→次回は和泉式部日記について解説します!

(註)
  • [i] [966~1041]平安中期の歌人・歌学者。通称、四条大納言。故実に詳しく、また、漢詩・和歌・音楽にすぐれた。「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」などを撰。歌論書「新撰髄脳」「和歌九品」、家集「公任集」、有職故実書「北山抄」など。三省堂『大辞林 第三版』
  • [ii] 家(いえ)の集,家集(かしゅう)あるいは単に集ともいった。勅撰集など,多くの歌人の作を総合的に集めたものに対し,一個人の作品を集めたものをいう。平安時代以後おびただしく作られ,有名なものだけでも,三十六歌仙の各家集や,西行の《山家集》,源実朝の《金槐和歌集》,藤原定家の《拾遺愚草》など,枚挙にいとまがない。『平凡社 百科事典』
  • [iii] 代表的な大乗仏教経典。漢訳6種(3種が現存)のうち、二八品より成る鳩摩羅什くまらじゆう訳の「妙法蓮華経」八巻が最も広く流布。三乗が一乗に帰すること、釈迦が永遠の仏であることなどを説く。天台宗・日蓮宗の所依の経典。ほっけきょう。三省堂『大辞林 第三版』
  • [iv] 1巻。偽経とされる書。数種の異本があり、父母の恩の広大なことを儒教的に説き報恩を勧めたもの。三省堂『大辞林 第三版』
  • [v] 大本山妙心寺【随縁】母を憶う(2010/05)より参照
  • [vi] 〘仏〙 あるがままにあること。存在の本質、存在の究極的な姿としての真理そのものをいう。大乗仏教では、法性・実相などとほぼ同義に用いる。実性。三省堂『大辞林 第三版』
  • [vii] (866?~945?) 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが、歌は当代の第一人者で、歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」、家集「貫之集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [viii] 生没年不詳。7世紀後期の代表的歌人。持統・文武両帝(686〜707)の藤原京時代に宮廷歌人として仕えた。民族的伝統への回想と国力の充実期を背景として,重厚で格調高い作品を残した。特に壮麗な長歌は比類がない。『万葉集』第一の歌人として活躍し,後世歌聖と称せられた。旺文社『日本史事典』
  • [ix] (921~991) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。四位祭主。梨壺の五人の一人。万葉集の訓釈および後撰集の撰進に参加。賀歌を得意とし、歌は拾遺集などにみえる。家集「能宣集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [x] (908~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。肥後守。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに後撰和歌集の撰に参加。家集に「元輔集」がある。三省堂『大辞林 第三版』
  • [xi] (?~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の玄孫。駿河守。後撰集時代有数の歌人。「天徳四年内裏歌合」の詠者。家集に「兼盛集」がある 三省堂『大辞林 第三版』
  • [xii] 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [xiii] (911~983) 平安中期の学者・歌人。嵯峨源氏。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに「後撰和歌集」の撰進に参加。漢詩文は「扶桑集」「本朝文粋」などに散見。著「倭名類聚鈔」、家集「源順集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [xiv] 平安前期の女流歌人。三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭つぐかげの女むすめ。中務なかつかさの母。宇多天皇の寵ちようを得て、伊勢の御ごと呼ばれた。歌は古今集・後撰集などに見える。生没年未詳。家集「伊勢集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [xv] 平安中期の歌僧。「えけい」とも。中古三十六歌仙の一人。播磨講師。河原院かわらのいんに出入りして詠んだ歌を多く残す。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に五五首入集。生没年未詳。家集「恵慶法師集」三省堂『大辞林 第三版』
  • [xvi] (926~967) 第六二代天皇(在位946~967)。醍醐天皇第一四皇子。名は成明なりあきら。摂関を置かず親政をしき、後世「天暦の治」と称された。三省堂『大辞林 第三版』

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