13世紀初めから14世紀半ばにかけて東アジア世界の中心となったのはモンゴル民族でした。今回はそんな一時代を築いた大帝国であるモンゴル帝国の歴史について学びます。チンギス=ハンが創始した大モンゴル国、その後の元朝、そして中央アジアから西方に広がる諸ハン国が領有する広範囲にわたるこの帝国の築いた時代は、積極的な遠征によるモンゴル支配拡大の時代であるとともに、東西交易の活発化による文化交流の時代でもありました。ここではまず、モンゴル帝国の変遷を大まかに整理した上で、モンゴル帝国の形成と元朝の行政・文化などについて詳しく見ていきます。
Contents
モンゴル人による東アジア支配の歴史
中国の北方に広がるモンゴル高原では、9世紀にウイグルが滅亡して以来3世紀ほどの間、東西にかけて様々な遊牧民族が広がり、主に西部ではトルコ系が、東部では遼(契丹)を始めとするモンゴル系の民族が集団をなして互いに抗争していた。12世紀から13世紀初頭にかけては西夏、金といった大国が中国との緊張関係の中で勢力を伸ばしたが、そうした中で13世紀初めごろから東アジアの広い範囲にわたってその領土を治めることとなったのがモンゴル帝国、そして元である。モンゴル帝国の歴史はまず、モンゴル高原東北部の出身で、のちにチンギス=ハンとして知られるようになるテムジンの登場から始まる。ここでは、チンギス=ハンの大モンゴル国建国からの大まかな流れを略年表で整理したい。
13世紀初頭 | テムジンがナイマン部を破り、モンゴル高原の大半を手に入れる。 |
1206年 |
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1229年 | オゴタイ=ハン(太宗)即位。
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1246年 | グユク=ハン(定宗)即位。 |
1251年 | モンケ=ハン(憲宗)即位。
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1260年 | フビライ=ハン(世祖)即位。
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1351年 | 紅巾の乱→朱元璋が明を樹立。元の滅亡。(1368年) |
このようにチンギス=ハンに始まり、オゴタイ=ハン、モンケ=ハン、フビライ=ハンの活躍の時代を経て東アジアを席巻したモンゴル帝国であったが、14世紀前半にはヨーロッパに続いてアジアでも疫病の流行や飢饉によって不安定な状態となっていた。その中で起きた反乱、紅巾の乱で頭角をあらわした朱元璋が明を建国すると、元は滅亡を余儀なくされ、再び北方のモンゴル高原へと退くこととなった。
モンゴル帝国の形成
チンギス=ハンの政策とモンゴル帝国の拡大
〔チンギス=ハン(1162?~1227年)〕
(故宮博物館蔵 世界の歴史まっぷHPより)
チンギス=ハンは幼少期より貧しい生活を強いられてきたが様々な苦難を乗り越え、抗争の中で頭角をあらわしてモンゴル民族のトップであるハン位にまで上りつめた人物である。彼の功績の一つとしてモンゴル高原に広がる大小さまざまな遊牧集団を統一し、支配下に置いたことが挙げられるが、チンギス=ハンは大モンゴル国建国後、遊牧民集団の再編成をただちに行い、これによりモンゴル帝国の軍事・行政の基盤が形成された。また、対外的には周辺諸国の征服に力を入れ、東西貿易路を支配下に置くことで、モンゴル帝国では東西の物資のみならず文化的交流が盛んに行われることとなった。
※チンギス=ハンの諸国征服
- 1218年、モンゴル高原西南部に位置するナイマン部を破る。のちに、ナイマン部に王位を奪われていた西遼も征服。
- 1220年、イスラームの新興国家ホラズム=シャー朝を滅亡させる。
- 1227年、西夏を征服。
モンゴル帝国の西方地方政権とイスラームの受容
モンゴルの大帝国は東アジアに領域を広げた大モンゴル国・元と、それらの国家との緩い連合関係にあった西方の地方政権から成る。ロシア・東欧方面のキプチャク=ハン国、中央部に位置するチャガタイ=ハン国、イラン・イラク方面を占めるイル=ハン国の3国はいずれもチンギス=ハンの子孫によって建国された国家であり、半独立政権としてモンゴル大帝国の広範な支配地域で樹立された。
これらの地域ではモンゴル人が統治階層についていたが、イスラームの広がりとともにイスラーム化が進み、西方のハン国ではイスラーム教の保護や国教化が行われた。
※諸ハン国とイスラーム化
- チャガタイ=ハン国(1227年~14世紀後半)◎アルマリク
中央アジアに位置し、13世紀にはすでにイスラーム教を保護していた。 - キプチャク=ハン国(1243~1502年)◎サライ
西征軍を率いたバトゥが南ロシアに建国。全盛期であったウズベク=ハンの時代にイスラーム化。 - イル=ハン国(1260年~16世紀頃)◎タブリーズ
西アジア遠征に赴いたフラグによって、モンゴル軍がアッバース朝を滅ぼした後に西アジアに建国された。第7代ガザン=ハンの時代にイスラーム化。
広大な領土を持ち、いくつもの地方政権を抱えるモンゴル帝国では大ハン位をめぐる対立が次第に深まっていったが、特にフビライの即位にあたっては、アクブリケとの抗争やハイドゥの乱などの反発が続いた。
〔モンゴル帝国最大領域〕
(世界の歴史まっぷHPを参照)
元の内政と対外政策
フビライ=ハン(世祖,位1260~1294年)はアクブリケの降伏の後、大ハン位に就くと中都(現在の北京)に遷都したが、中都は1272年に大都と名を改めて冬の都として繁栄した。彼は1271年に国号を元とすると、積極的な対外政策を行って領土を拡げつつ、内政では中国王朝のシステムとモンゴルの軍事制度を融合するような形で広大な国家を発展させた。
<元朝の対外政策>
- 日本遠征(1274年、1281年)
フビライ=ハンは日本に対して二度にわたる攻撃を実施したが、日本の側から「蒙古襲来」や「元寇」と呼ばれている文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で日本は元軍の集団戦法や火器の攻撃に見舞われた。最終的に日本の幕府が元軍に敗れることはなかったが、元寇は鎌倉幕府滅亡の要因の一つとなったと考えられている。 - 南宋の滅亡(1276年)
- 東南アジア遠征(1270年代~90年代)
ビルマのパガン朝への侵入や、ベトナム遠征、ジャワ遠征などを立て続けに実施したが、そのほとんどが征服には至らず失敗した。一方で、元朝は遠征を通じて南方の海上交易圏との結びつきを強め、その過程でムスリム商人が活躍した。
<元朝の内政>
- 中央官制の変化
元朝の中央官制は、中国の伝統的な仕組みを引き継いだものだったが、元では宋代までのような科挙に基づく官吏登用法ではなく、実務能力重視かつ軍人としての能力も持つ官僚が登用された。 - 地方官制の変化
- 「行省」の設置
宋代に用いられていた路・府・州・県という地方行政機構に加え、元では「行省」という行政単位が置かれた。「行中書省」を略して「行省」と呼ばれるこの機関は、徴税・軍事・屯田・漕運などの重要な役割をすべて統括する権限を持つ、地方行政の最高単位であった。 - ダルガチの設置
元朝では在来の地方行政官に加え、征服地の軍事・一般行政全体を監督するモンゴル人の官職、ダルガチが置かれた。ダルガチや行省が置かれることで、中国の地方行政とモンゴルの軍事支配が混在する元朝の地方官制の仕組みが形成された。
- 「行省」の設置
※元の身分制度
- モンゴル人
- 色目人(主に中央アジアの諸民族)
- 漢人(金の支配下にあった華北の漢民族、契丹人、女真人など)
- 南人(南宋のあった地域の人)
元では以上の四つで身分が定められており、漢人や南人は差別の対象となったとされているが、近年は元朝の官吏登用制度では実力主義的傾向が強く、身分的な差別はあまりなかったという説もある。また、宋代などの中国王朝と比較すると、儒教の教養を持つ科挙合格者よりも実務能力が求められたという点で大きく異なる。しかし、元代は科挙が一時中断されてはいたものの、漢文化への傾倒とともに1313年仁宗の時代に復活した。
〔フビライ=ハン(1215~1294年)〕
(故宮博物館蔵 世界の歴史まっぷHPより)
モンゴル帝国時代の文化
- 交易網の発達と東西交易の活発化
モンゴル帝国最大の特徴は東西貿易路の征服とそれに伴う交易の活発化である。支配地域では駅伝の整備がなされ、東西を結ぶ長距離に及ぶ商業活動も盛んであった。こうした交易には銀が用いられたが、元朝の時代には銀に代わる紙幣として交鈔が発行された。 - モンゴル帝国と宗教
この時代には東西交流の活発化とともに文化的交流も盛んになったが、宗教もその一つである。モンゴル帝国は様々な宗教に触れ、それらを積極的に受容してきたが、その一方で西方からの流入のみならず、東アジア独自の思想も発展させた。- 諸ハン国のイスラーム化
- キリスト教との接触
モンゴル軍の西方遠征や、ヨーロッパ諸国のモンゴルへの関心の高まりによってモンゴル帝国はキリスト教にも触れることとなった。13世紀半ばにはローマ教皇が派遣したイタリアの修道士プラノ=カルピニが、その後のモンケ=ハンの時代にはフランスの修道士ルブルックが大モンゴル国のカラコルムに使節として訪れた。また、13世紀末の元にはモンテ=コルヴィノというイタリアの修道士が大都に派遣され、カトリックの布教を行った。 - チベット仏教の保護とパスパ文字の使用 ※フビライ=ハンの命による
- 全真教の有力化 ※チンギス=ハン治世下
- 朱子学の正統教学化
- 郭守敬による「授時暦」の発明
イスラーム天文学から影響を受けて作られ、元代以降の中国で用いられた暦法。日本の江戸時代に用いられた「貞享暦」の基礎となったと考えられている。 - 青花(染付)の磁器制作の技術
景徳鎮の特産である青花の磁器は東西諸国にも伝えられ、西方の国々でもコレクションされた。
確認問題
- 1220年、チンギス=ハンが征服した新興のトルコ系イスラーム王朝はどこか。
- 元は二度にわたる日本への遠征を行った。これらの遠征はそれぞれ何と呼ばれるか。
- バトゥによって建国されたキプチャク=ハン国の都を答えよ。
- フビライ=ハンが作らせたもので、ウイグル文字とともに元朝の公文書に用いられた文字は何か。
- 元では、征服地に地方行政の監督をするモンゴル人の官職が派遣されたが、これを何と呼ぶか。
- 元代に、銀の不足を補うために大量に発行された紙幣は何か。
- フビライ=ハンが南宋を滅ぼし、中国全土を征服したのは何年のことか。
- 1241年、バトゥ率いる遠征軍がドイツ・ポーランド連合軍を破った戦いは何か。
- イル=ハン国では13世紀末にイスラーム教が国教化された。当時の誰の治世であったか。
- 元代の身分制度において、かつての金支配下の住民や契丹人、女真人らは何と呼ばれたか。
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(解答)
- ホラズム=シャー朝
- 文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)
- サライ
- パスパ文字
- ダルガチ
- 交鈔
- 1279年
- ヴァ―ルシュタット(リーグニッツ)の戦い
- ガザン=ハン
- 漢人
→続きはこちら 中世以降の世界の形成と東西交易の発展
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/8/26
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。