現在の中国となっているユーラシア大陸東部、「東アジア」と呼ばれる地域では、古くからメソポタミア文明やエジプト文明、インダス文明に並ぶ大文明が築かれていました。長江や黄河といった大河の流域で築かれた文明は後の大国形成の元となり、今日に及ぶ中国の文化の礎となっています。
また中国社会の形成においては、多種多様な周辺民族、ヨーロッパとの関わりにも注目する必要があります。国内外の歴史の流れをしっかりと整理して、古代中国を得意分野にしましょう!
古代中国文明の誕生と春秋戦国時代
Contents
東アジアの風土
ユーラシア大陸に属するアジアは非常に広大な範囲を占めるものであるが、一般にアジアは中国を中心とする東アジア、インド文化を中心とする南アジア、イランやイスラームの影響下にあった西アジア、砂漠・ステップ地帯の遊牧民による社会が築かれた北アジア、現在のロシアにあたるアジア最北部であるシベリア、そして海上交易によって発展した東南アジアの6地域に大きく分けられる。東アジアの社会も他地域と同様、このように多様な民族・社会との交流を経て発展してきたのである。
〔中国地図〕
中国は淮河と南嶺山脈を境に大きく3つの地域に分けられており、淮河以北を華北、南嶺以南を華南、これらの間の地域を華中と呼ぶ。中国を流れる二つの大河、長江と黄河はそれぞれ華中、華南に位置するが、とりわけ華南を流れる長江の中・下流域は江南と呼ばれる。
中国東部はモンスーン気候に属し、農耕が盛んに行われ人口の集まる地域であるが、農耕に向かない北方の草原や砂漠地帯では人々は牧畜を行い、家畜と共に移住を繰り返す遊牧生活が発展した。こうした遊牧民は「絹の道」や「草原の道」といった交易路を通じてユーラシア大陸の発展を促した。
新石器時代―中国文明の誕生
黄河文明
黄河の流れる華北では降雨が少なく、畑作が中心的に行われていた。この地域では石器時代にあたる前5000年頃に中国最初の文明である、仰韶文化が開かれた。黄河流域で興った文明としては、この仰韶文化とその影響を受けて約2000年後に開かれた竜山文化が代表的である。
<仰韶文化 (前5000年~前3000年頃)>
特徴
- 黄河中流域で発展。
- 1921年、スウェーデン人地質学者アンダーソンによって発見された。
- 人々は集落(邑)を作り、竪穴(式)住居で生活していたとされている。
集落遺跡としては半坡遺跡が代表的。 - 赤褐色の土器、彩陶(彩文土器)によって特徴づけられる。
〔彩文土器〕
<竜山文化 (前3000年~前2000年頃)>
特徴
- 黄河中・下流域で発展。
- 祭祀などに用いられた黒陶という新石器時代を象徴する土器が見つかる。
- 大規模な城壁を持つ集落が形成された。
- 前2000年前後には、二里頭文化、二里崗文化へと発展し殷王朝の文化の基礎となる。
長江文明
黄河流域の文明と並んで、長江流域でも河姆渡文化や良渚文化、三星堆文化が築かれ、人々は稲作を中心に行っていた。これらの地域では、殷王朝へとつながる黄河文明とは性質の異なる土器や祭祀施設が出土したことから、長江特有の文明が形成されていたと考えられる。
殷・周時代
殷王朝
殷王朝は甲骨文字によって記された史料により実在が確認されている中で最古の王朝として知られるが、一部では中国最古の王朝を夏王朝とする説もあり、一般に殷は夏王朝を放伐して前16世紀頃に建てられた王朝であると考えられている。
殷は規模の異なる城郭都市である大邑、族邑、属邑(小邑)が連合した国家(邑制国家)であった。国が殷墟を中心として祭政一致の神権政治によって治められていたことが殷王朝の特徴である。そのため、邑は軍事・祭祀を通じて連合し、祭祀は王の最重要任務とされていた。また、獣骨や甲骨を使用した占卜も盛んに行われ、それによって明らかになった天帝の意志に基づいて政治が行われた。
殷時代には様々な面で文化的発展を遂げたが、漢字の起源となる甲骨文字の発達、十干十二支による紀日法の使用、青銅器(祭器)の発展などがその主な功績である。
〔甲骨文字〕
殷は前11世紀頃まで繁栄するが、暴君紂王の時代に周の武王によって倒され滅亡する。この王朝交代は、王朝の徳の断絶によって天が新たな王朝をたてる易姓革命と呼ばれる思想に基づいたもので、周による殷の放伐という形でなされた。易姓革命という思想は中国において王朝交代を正当化する理論として考えられている。
周王朝
牧野の戦いで殷の紂王を破った武王は、前11世紀鎬京に新都を据えて周という王朝を開いた。殷王朝では占卜による神権政治が行われたが、周代になると邑の統治体制は変化を遂げることとなった。周の政治で最も特徴的であるのが、封建制と呼ばれる政治体制である。この時代には封建制の下、血族に基づく統治が行われた。
<封建とは?>
武王は自らの師尚父と兄弟などの功臣を各地に配置し、諸侯として軍事要衝の族邑を治めさせた。ほとんどの場合、これらの支配層は世襲身分であり、血縁関係にあった。
武王の死後、周公旦という王族補佐により諸侯の他に卿・大夫・士といった身分が設置され、身分秩序が整えられた。周公は殷代からの政治制度を集大成させ、長子制度や宗法といった宗族に関する制度を作るなどの功績を残した。
封建制によって華北から華中にかけて広い範囲を治めた周であったが、成立後200年頃には、血族による統治も綻びを見せ始め、権力の分割が行われるようになった。王は諸侯や貴族によって追放され、もはや王権の回復は不可能になる中、周は幽王の時代に犬戎の侵入により滅亡した。
ここで滅びた周は西周と呼ばれ、春秋戦国時代以降の東周と区別される。
春秋戦国時代
西周滅亡後、平王が都を洛邑(現在の洛陽)に移した前770年より約500年間続く東周の時代が始まった。東周は前770年から前403年、前403年から前256年の前後半に二分され、前半は孔子による歴史書『春秋』に由来して春秋時代、後半は漢の劉向により編纂された『戦国策』に由来して戦国時代と呼ばれる。
この時代に中国は邑制国家から領土国家へと体制を一転させ、それまで1800もの数が存在したとされる国も春秋時代には数十、戦国時代には七国となった。これにより、膨大に存在する各都市は領土国家の一部となることでその自立性を失い、官僚的な支配下に置かれるようになったのである。
春秋時代 (前770年~前403年)
春秋時代は洛邑への遷都から、春秋の五覇の最有力国、晋が韓・魏・趙に三分するまでの時期を指すが、このころは諸侯同士が「尊王攘夷」という標語の下、盟誓することで利害を調節しあう「会盟の時代」であった。そのうちの有力な諸侯は覇者と呼ばれ、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、越の勾践、呉の夫差は春秋の五覇として知られている。(諸説あり)
諸侯の中で標語として使用されていた「尊王攘夷」という言葉は、「君主(周王室)を尊び〔尊王〕、外敵(異民族)を撃退する」という意味を持つが、このような考え方は華夷思想に基づくものである。このように、天下を諸夏(内部)と夷狄(外部)に分けて考えることで、自らが「中国」であるという自意識を持つようになったのも春秋時代のことである。
戦国時代 (前403年~前256年)
戦国時代は晋の三分から秦の始皇帝による平定までの時期である。領土は当初、燕・斉・趙・魏・韓・秦・楚の戦国の七雄と呼ばれる7つの国によって支配されていたが、次第に西方を治める秦、東方を治める斉、そして長江以南を広く治める楚の三国が有力になっていった。
〔戦国時代〕
戦国時代に入ると安定した君主政治の下で都市や商業が発展し、各国は経済力を背景に銅銭(青銅貨幣)をこぞって発行した。こうした社会の発展には春秋時代から普及するようになった鉄製農具の使用による農業効率の向上によるところも大きかったが、このような社会の変化に伴い、次第に血縁の結びつきや身分秩序が乱れ、世は実力本位(下剋上)の時代へと移行してゆく。
そうした状況下で勢力を伸ばしたのが法家であった。従来の慣習法に代わる法制度が求められるなか、魏の李悝は『法経』という中国最初の成文法を作った。法家は各国の王に仕え、国の発展に貢献したが、中でも秦の孝公に仕えた商鞅や、始皇帝が宰相として登用した李斯、彼と共に荀子に学んだ韓非が有名である。
戦国の群雄割拠の時代は秦王である政が六国を平定し、始皇帝として全土を治めるようで終わりを告げた。
諸子百家の登場
春秋の終わりから戦国時代にかけて、中国ではたくさんの思想家が現れるようになり、「どう生きてゆくべきか」といった問いに対する新しい思想が様々に繰り広げられた。また、兵法や農学、天文学、外交学など多様な分野に関する思想家も現れ、戦国時代の政治にも影響を及ぼした。このように、春秋戦国時代に現れた思想家は諸子百家と総称される。
〔孔子 イラスト〕
- 儒家
- 孔子:
孝(親への愛)、悌(兄弟への愛)、仁(社会・国家への愛)を人間の最も自然な道徳心であると説いた。著書としては『春秋』が、弟子との言行録としては『論語』がよく知られている。 - 孟子:
性善説を唱え、孝悌と仁義の同一性を主張。また、政治に対しては、易姓革命の是認を示した。 - 荀子:
性悪説を唱え、礼の習得を重んじた。荀子の思想は法家に影響を与えたとされており、韓非や李斯は荀子に師事したことで知られている。
- 孔子:
- 道家
老子と荘子による思想。万物の根源としての「道」と、道のままに生きる「無為自然」を主張し、礼や道徳などの人為的制約に反対した。彼らの思想を受け継ぐものは道家と呼ばれ、この思想は後の道教へとつながる。 - 墨家
墨子は無差別・平等の愛(兼愛)を説き、儒家による家族愛を別愛として批判した。また、「公利」(利害を共にすること)と「商賢」(賢者を敬うこと)を主張し、国家間での非攻を促した。 - 法家
商鞅や韓非、李斯に代表される法家は、法による秩序形成を主張した。
商鞅は秦の孝公に仕え、郡県制の施行を実現し、李斯は秦の始皇帝の下で焚書・坑儒を行った。 - 陰陽家
鄒衍に代表される陰陽家は宇宙の生成や人間社会の諸現象を陰陽の二原理によって説いた。そこから発展した五行説は陰陽五行説として知識人の間に広まった。 - 縦横家
縦横家は外交の術を説き、戦国の群雄割拠の中で活躍した。中でも、蘇秦と張儀がその代表とされるが、蘇秦は合従策を説いて秦に対抗する六国の同盟を成立させたことで知られている。張儀は連衡策を説き、秦と各国の間の同盟を成立させたことで知られている。
これらの他にも、兵法理論を唱えた兵家や、論理学を説く名家、農業政策について主張した農家など、様々な分野での思想が繰り広げられた。
→続きはこちら 始皇帝の政策と後漢滅亡までの政治と社会
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2014年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/4/14
- いらすとや
- 最終閲覧日2020/4/14
- d-map自由な地図HPより
- 東京冨士美術館HPより
- 連載篆書についてより
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。