大久保利通は、西郷隆盛[i]らとともに薩摩藩士として討幕運動に参加し、明治政府の礎を築いた人物です。今回は年表ごとに大久保利通についてみていきましょう。
大久保利通は文政13年(1830年)に鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として生まれます。
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お由羅騒動(嘉永朋党事件・高崎崩れとも)
お由羅騒動とは、幕末に起きた鹿児島藩の御家騒動のことです。藩主島津斉興の後継に世子・島津斉彬[ii]を擁立する一派と斉彬が藩主になれば財政難になると危惧する調所広郷一派が対立しました。調所派は斉彬の異母弟島津久光[iii](側室お由羅の子)の擁立を画策し、お由羅と結びつきを強めました。斉彬擁立派は調所広郷を密貿易露顕一件で自殺させ、さらに久光とお由羅の暗殺を画策しましたが藩主斉興に露見し、首謀者の高崎五郎右衛門温恭らは切腹となりました。
この一連の事件の際、大久保利通の父・大久保次右衛門利世は斉彬擁立派に加わり、嘉永3年(1850)鬼界島に流刑となりました。
嘉永4年(1851年)
お由羅騒動ののち、島津斉彬が藩主となります。大久保利通と西郷隆盛は、斉彬に登用され、安政4年(1857年)には徒目付になります。しかし、翌年斉彬が病死し、藩主は島津久光の長子・忠義[iv]に代わります。忠義を支持している藩内の反対派勢力が藩の政治に携わるようになり、大久保利通と西郷隆盛の立場は不利になっていきます。
しかし、尊王攘夷派の志士らと藩主らの仲介を務めた功績などを買われ、異例の抜擢で文久元年(1861年)勘定方小頭から小納戸役に昇進します。その後、西郷隆盛も藩の政治に復帰し、大久保利通は西郷隆盛とともに藩の政治の中枢を担い、公武合体運動を推進していきます。
【補足】公武合体運動とは?
公=朝廷、武=幕府が提携し、政権の安定をはかろうとする政治運動です。
討幕運動へ
薩摩、長州、土佐藩の尊王攘夷派の志士らの間に討幕の気運が高まり、大久保利通は公家の岩倉具視らと結び朝廷工作に暗躍します。
慶応2年(1866年)薩長同盟
土佐藩出身の坂本龍馬[v]らの仲介のもとに、薩摩藩と長州藩は、これまでの対立関係を解消し、同盟関係となりました。その背景には相次ぐ列強艦隊の砲撃や、討幕運動の高まりがありました。
慶応3年(1867年)王政復古の大号令
幕藩体制から天皇を中心とした君主制の新しい政権を樹立します。
明治元年(1868年)戊辰戦争
明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いから明治2年(1869年)の函館五稜郭の戦いまでを戊辰戦争といいます。
徳川慶喜[vi]を政権から排除し、辞官・納地を要求します。そして徳川慶喜追討のため兵を挙げました。京にいる新撰組を中心とした旧政府軍と薩長の藩士を中心とした新政府軍は鳥羽伏見で戦となり、旧政府軍は江戸へと敗走していきます。
西郷隆盛、勝海舟[vii]らとの会談の結果、江戸城は無血開城し、徳川慶喜は降伏し、会津藩と合流した旧幕府軍ですが、徐々に追い詰められ、函館五稜郭で旧政府軍が敗戦します。
明治2年(1869年)版籍奉還
戊辰戦争後、大久保利通や木戸孝允[viii]など、明治新政府を樹立した薩長出身の藩士を中心とした人々は、明治政府の礎作りに取り組み始めました。その一環として行われたのが、版籍奉還です。版籍奉還とは、天皇に版(土地)と籍(人民)を還納させる政治改革です。
明治4年(1871年)廃藩置県
版籍奉還後に行われたのが廃藩置県です。藩を廃し、県を置き、天皇の元中央集権的国家の樹立を目指そうとしました。更に大久保利通はこの年大蔵省になります。
明治6年(1873年)地租改正
地租を地価の3%と決め,地主から徴収することにした土地改革です。そして殖産興業にも力を入れ国力充実の必要を説きます。一方で西郷隆盛らなどは征韓論を唱え、政治改革による士族らの不満は高まっていました。
明治10年(1877年)西南戦争
征韓論を唱える西郷隆盛らを下野させた大久保利通でしたが、不平士族らの高まりは抑えきれず、西郷隆盛を擁して上京し武力による騒乱となりました。士族らは鎮圧され、西郷隆盛は自刃しました。
明治11年(1878年)暗殺
西南戦争を鎮圧した大久保利通でしたが、不平士族らに政治批判され、紀尾井坂で暗殺されました。
まとめ
慶応2年(1866年) |
薩長同盟 |
慶応3年(1867年) |
王政復古の大号令 |
明治元年(1868年) |
戊辰戦争 |
明治2年(1869年) |
版籍奉還 |
明治4年(1871年) |
廃藩置県 |
明治6年(1873年) |
地租改正 |
明治10年(1877年) |
西南戦争 |
明治11年(1878年) |
暗殺 |
【注】
[i] 1827〜77 幕末・維新期の政治家・軍人。維新三傑の一人。通称吉之助,号は南州。薩摩藩出身。尊王攘夷運動・討幕運動を指導し,薩長連合・王政復古の実現に努力。戊辰 (ぼしん) 戦争に参謀として参加,江戸城無血開城に尽力した。明治新政府の参与・参議となり,廃藩置県を遂行したが,1873年征韓論を唱え,敗れて下野。帰郷して鹿児島に私学校を開設したが,士族に擁立され ’77年西南戦争をおこし,敗れ城山で自刃。(旺文社『日本史事典』)
[ii] 1809〜58 江戸末期の薩摩藩主。1851年襲封。藩政改革につとめ,殖産興業・海防強化を推進。反射炉や洋式紡績工場を設置し,火薬・ガラス・電信・ガス灯などを導入して集成館・開物館を設置した。将軍継嗣問題では一橋派に属し,雄藩連合の中核となった。(旺文社『日本史事典』)
[iii] 1817〜87 幕末の政治家。薩摩藩主斉彬 (なりあきら) の異母弟。斉彬死後,久光の子忠義を藩主にたて実権を握った。1862年兵を率いて上京し,寺田屋騒動で薩摩藩尊攘派を制圧。勅使大原重徳 (しげとみ) を奉じて江戸に下り幕政改革に参与するなど,’64年まで公武合体派の中心として活動した。新政権発足後,征韓論での分裂を抑えるため一時左大臣となったが,まもなく辞任。(旺文社『日本史事典』)
[iv] [1840~1897]江戸末期の薩摩藩主。久光の長男。藩主斉彬の死後家を継ぎ、父とともに藩の近代化に尽力。維新後、率先して版籍奉還した。のち、貴族院議員。(小学館『大辞泉』)
[v] 江戸末期の尊攘派の志士。海援隊長。土佐藩出身。一九歳で江戸に出て北辰一刀流を学ぶ。文久二年(一八六二)脱藩して勝海舟の門にはいり、彼を助けて幕府神戸海軍操練所の設立に努力。のち討幕派を結集し薩長同盟を仲介、前土佐藩主山内豊信を説いて大政奉還を成功させたが、京都で刺客に暗殺された。天保六~慶応三年(一八三五‐六七)(日本国語大辞典)
[vi] 1837〜1913 江戸幕府15代将軍(在職1866〜67)水戸藩主徳川斉昭 (なりあき) の7男。一橋家を継ぎ,13代将軍家定のとき,将軍継嗣問題で紀伊藩主徳川慶福 (よしとみ) (のち家茂 (いえもち) )と将軍職を争い敗れた。安政の大獄で隠居・謹慎処分をうけたが,井伊直弼 (なおすけ) 暗殺後許され,1862年の幕政政革で将軍後見職となり家茂を補佐。’66年家茂死後将軍職を継ぎ幕政を改革したが,’67年10月14日大政奉還を上表した。鳥羽・伏見の戦いに敗れて大坂から江戸に帰り,江戸を戦禍から守るため江戸無血開城を行った。’84年華族令により公爵となった。(旺文社『日本史事典』)
[vii] 1823〜99 幕末・維新期の政治家。名は安芳 (やすよし) ,海舟は号。江戸の人で,蘭学を修め,佐久間象山に砲術を学ぶ。長崎の海軍伝習所に入り,1860年幕府の遣米使節を乗せた咸臨丸 (かんりんまる) の艦長として太平洋横断に成功。軍艦奉行・陸軍総裁を歴任し,戊辰 (ぼしん) 戦争では旧幕府側を恭順 (きようじゆん) に導き,西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を実現した。明治新政府では,参議・海軍卿・枢密院顧問官などを歴任。著書に財政経済資料を集めた『吹塵 (すいじん) 録』など多数。(旺文社『日本史事典』)
[viii] 1833〜77 幕末の尊攘派志士。明治初期の政治家。維新の三傑の一人。長州藩出身。初め桂小五郎という。吉田松陰に師事。高杉晋作らと藩論を討幕へと導き,薩長連合に成功。新政権発足後は長州閥の巨頭として,五箇条の誓文の起草,版籍奉還・廃藩置県に指導的役割を演じた。1871年岩倉遣外使節に副使として同行。帰国後征韓論では西郷派と対立,のち征台の役に反対して下野。’75年大阪会議で参議にもどったが,翌年辞任。(旺文社『日本史事典』)