1336年から約60年間、天皇が北朝(京都の朝廷)と南朝(吉野)に出現した動乱を南北朝の動乱といいます。今回は南北朝の動乱について説明していきたいと思います。
両統迭立
南北朝の動乱のきっかけを作ったのは後醍醐天皇です。後醍醐天皇について南北朝の動乱以前からみていきます。天皇家略図も参照してみてください。
鎌倉末期、後嵯峨上皇は後継者を指名せずに死去します。皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と、亀山上皇の流れをくむ大覚寺統に分裂しました。両統は鎌倉幕府に工作し、自分の統から次の天皇を出そうとします。それに対し鎌倉幕府は両統が交互に即位する両統迭立を推奨しました。
そして、1317年(文保元年)両統で次の天皇はどちらから出すか協議しました。(文保の和談)協議の結果即位したのが後醍醐天皇です。後宇多天皇の第二皇子であった後醍醐天皇は政治に意欲を持ち、後宇多上皇による院政を排除し、平安時代の延喜・天暦の治にならい天皇親政をはじめようとしました。
しかし、後醍醐天皇のはじめようとした政治は鎌倉幕府にとって好ましいものでがありませんでした。鎌倉幕府は後二条天皇の皇子を皇太子に定め、次の皇太子を持明院統の量仁親王に定め、後醍醐天皇は自分の皇子に皇位を譲ることができません。そのため後醍醐天皇は幕府を倒そうと考えました。
正中、元弘の変
後醍醐天皇は近臣の日野資朝、日野俊基らと倒幕計画を協議しましたが外部に漏れ日野資朝、日野俊基は幕府に逮捕されました。(正中の変)後醍醐天皇はお咎めなしでした。
失敗したものの倒幕を諦めることはなく、再度倒幕のため護良親王、宗良親王を延暦寺の座主に任じ僧兵の力を借りようと考えました。倒幕のため武士の協力を得ようと説きまわっていたものの、この計画も漏れ、幕府はとうとう後醍醐天皇の捕縛を六波羅探題に命じました。楠木正成が挙兵をしましたが楠木正成他挙兵するものはなく、楠木正成は幕府軍に敗れ姿を消しました。後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐島に流されました。(元弘の変)
建武の新政
後醍醐天皇の配流後も事態はおさまらず、畿内を中心に武士らの活動が活発になり挙兵が相次ぎました。京都に攻め入った足利尊氏や鎌倉に攻め入った新田義貞の兵に北条軍は敗北し、鎌倉幕府は滅亡になりました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は再び権力を持ち、新しい政治を行いました。この新しい政治を建武の新政といいます。鎌倉幕府の政務機関を踏襲し、新たに記録所・武者所・恩賞方・雑訴決断所などの中央機関を設置しました。
新たに天皇中心の政治をはじめた後醍醐天皇でしたが、天皇に権力が集中した結果、土地の補償など様々な業務が停滞することとなり、武士の不満は高まっていきました。各地で反乱が起き、新政府はわずか3年ほどで崩れ去ることとなります。
南北朝の動乱
各地で反乱が起き、勢力をつけてきたのは足利尊氏でした。足利尊氏討伐のために政府は新田義貞を派遣するも、新田義貞は足利尊氏に敗れてしまいます。足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定しました。これにより室町幕府が成立します。
室町幕府が成立した後の1336年(建武3年)末、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野にこもります。そして光明天皇のいる京都の朝廷を北朝とし、吉野に後醍醐天皇を南朝とした、2人の天皇がいる状態が以降60年ほど続きます。この時期を南北朝時代といいます。
足利尊氏の時代に始まった南北朝の動乱は室町幕府3代将軍足利義満の時代に終わりを迎えます。義満の頃には室町幕府の政治も安定し、1392年(明徳3年)南朝の御亀山天皇は義満の呼びかけに応じ、北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の統一を成し遂げました。
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