日本人なら知っておきたい文学作品!日本最初の勅選国史『日本書紀』を徹底解説

『日本書紀』は日本で最初に作られた勅選国史です。完成したのは720年(養老4年)元明天皇の御代、撰者は舎人新王[i]を中心に太安万侶[ii]などの文人達です。全30巻からなり神代から持統天皇(〜691年)までを天皇を中心に編年体[iii]の形式で記述されています。

日本で最初に作られた勅選国史とありますが、そもそも勅選国史とは何でしょうか。まず、勅選とは天皇の命によって編纂されたという意味です。天皇が命じたものには“勅”の漢字が使われます。“勅”には「天皇の命令。また、それを伝える文書」(『三省堂 大辞林 第三版』)という意味があります。“勅”を使った言葉には、以下のようなものがあります。

勅使:天皇の意思を直接に伝えるために派遣される使い。

勅令:国王・天子の命令。

勅書:天皇の命令である勅を書いた文書。天子の御書状。勅状。

(『三省堂 大辞林 第三版』)

次に、国史は一国の歴史を記した公的な歴史書のことをいいます。では国史が天皇によって作られた背景には何があるのでしょうか。『日本書紀』が作られた奈良時代から遡り、大和時代。律令国家として成長していく中で、朝廷の中で国家意識が高まっていきました。そして中国の王朝にならって国史編纂事業を始めたのが天武天皇です。天武天皇が始めた国史編纂事業は奈良時代になってやっと形になります。『日本書紀』以前712年(和銅5年)に同じく神代から国の成り立ち、伝承をまとめた『古事記』が完成していますが、『古事記』は勅選ではなく、歴史書としてもあまり扱われていません。

また『日本書紀』以後も国史編纂事業は行われ、その後『続日本書紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と平安時代にまで渡り、編纂されていきます。『日本書紀』〜『日本三代実録』までの6つの歴史書を総称して“六国史”とよびます。それぞれの完成時期、収載年代、主な編者は以下の図の通りである。

書名 収載年代 完成年 主な編者
日本書紀 神代〜持統天皇

(〜697)

720年 舎人親王ら
『続日本書紀』 文武〜桓武天皇

(697〜791年)

797年 菅野真道、

藤原継縄ら

『日本後紀』 桓武〜淳和天皇

(792〜833年)

840年 藤原緒嗣ら
『続日本後紀』 仁明天皇

(833〜850年)

869年 藤原良房、

春澄善縄ら

『日本文徳天皇実録』 文徳天皇

(850〜858年)

879年 藤原基経、

菅原是善ら

『日本三代実録』 清和〜光孝天皇

(858〜887年)

901年 藤原時平ら

先ほども説明した通り、『日本書紀』が編纂された背景には律令国家として天皇を中心とした中央集権国家を確立していこうという機運がありました。『古事記』よりは歴史書としての意味合いが大きいとされる『日本書紀』ではありますが、天照大神と天皇家を結びつけ、皇位継承を描くことで統治者としての天皇家を正当化する性格があります。そのため批判的に考察する研究もあります。

『日本書紀』が編纂された背景を説明しましたが、その背景には国内だけでなく国外の中国の影響も多分にありました。歴史書を編纂する際に中国の歴史書を参考にし、『日本書紀』の本文中にも中国の古典やその当時の法令を元に修飾したと思われる記述もあります。中国だけでなく、朝鮮半島の『百済記』も用いられています。また、書き下した文体で書かれている『古事記』とは異なり『日本書紀』は漢文で書かれています。これは中国でも読めるよう意図しているためです。

これまで『日本書紀』とは何か、編纂された背景について述べてきましたが、今度はその内容について触れていきたいと思います。全30巻のうち、1〜2巻は神話を中心とした「神代紀」となっており、3巻「神武紀」以降は年月順に天皇の事績を30巻「持統紀」まで記述されています。神話から年中行事まで様々な内容が記されている中で、この記事では30巻「持統紀」に記載のある“大嘗祭”について取り上げたいと思います。

そもそも“大嘗祭”とは

  天皇が即位したのち、最初に挙行する大規模な新嘗祭のこと。「おおにえのまつり」、また単に大嘗ともいい、即位儀とともに即位儀礼を構成する。近世以前には大嘗会ともよばれたが、これは節会に重きをおいた呼称である。律令時代における毎年秋の新嘗祭との相違は、新嘗祭が十一月下の卯・辰の日の二日間の行事で、常設の神嘉殿を祭場とするのに対し、大嘗祭は卯の日から午の日まで四日間の行事であり、大嘗宮を臨時に造営して祭場とする
(『国史大辞典』)

ものです。古来日本では収穫でとれた穀物を神に捧げ、感謝する新嘗祭が毎年行われ、なかでも天皇が即位した最初の新嘗祭を大嘗祭といい、大規模なお祭りを行っていました。皆さんも記憶に新しいかもしれませんが、2019年11月に令和になって初めての新嘗祭、すなわち大嘗祭が行われました。大嘗祭で神に捧げる穀物は悠紀国・主基国[iv]からそれぞれ卜定で決められた地方から捧げられます。今年行われた大嘗祭では、日本古来の占い方法である“亀卜”[v]で栃木県と京都府が選ばれました。大嘗祭のために大嘗宮が建設され、天照大神に穀物を捧げ祭事が行われました。

  

では“大嘗祭”はいつから始まった祭祀なのでしょうか。正確な時期は分かっておらず、様々な論があります。『日本書紀』の本文中において、30巻「持統紀」に

  持統天皇5年11月戊辰朔条(691)

大嘗。神祇伯中臣朝臣大島読二天神寿詞一。

(『日本書紀』)

という記述があり、明確に“大嘗祭”について記してあります。しかし、29巻「天武紀」にも

  天武天皇2年12月丙戌(5日)条(673)

侍二-奉大嘗一。中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二国郡司。亦以下人夫等。悉賜レ禄。因以郡司等各賜二爵一級一。

(『天武記』)

大嘗”の記述があります。更に平城京跡では758年斎行の、淳仁天皇の大嘗宮遺構が採掘され、更にそれ以前の8世紀前半の元正天皇・聖武天皇の大嘗宮遺構も採掘されています。よって『日本書紀』に記述がある年代よりも前から行われていたことが研究から分かってきています。『日本書紀』よりも2年前になる718年(養老2年)に発令された(施行は757年)「養老律令」[vi]の第六 神祇令 全20条にも大嘗祭についての記述があります。

  神祇令大嘗条

凡大嘗者。毎レ世一年。国司行レ事。以外毎レ年所司行レ事。
(『養老律令』)

作られた背景の関係で、歴史書としては懐疑的に考察する余地のある『日本書紀』ではありますが、朝廷や天皇家に関する儀式や祭祀、更にはそのような儀式にまつわる伝承や神話等に現在にも繋がる日本の文化を知る資料としての価値は高いと考えられています。歴史学だけでなく、考古学、民俗学の視点からみても貴重な資料といえるでしょう。

最後に『日本書紀』について簡単な問題をいくつか出したいと思います。

  1.  『日本書紀』の撰者を一人答えなさい。
  2. 『日本書紀』が完成したのは何天皇の御代ですか。
  3. 『日本書紀』から『日本三代実録』までの6つの歴史書を総称して何といいますか。
  4. 『日本書紀』の収載年代は神代から何天皇までですか。
  5. 『日本書紀』の記述形式は何ですか。

→次回は古事記について解説します!

(註)

  • [i] 天武天皇の皇子。知太政官事。母は天智天皇の皇女新田部皇女。勅により日本書紀を編纂。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ii] 奈良時代の文人。民部卿。元明天皇の勅により稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録、古事記三巻を撰進。日本書紀の編纂にもあたったという。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iii] 歴史記述の一形式。年代の順を追って記述するもの。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iv] 新穀を奉る地方を悠紀国と主基国と言い、「悠紀」とは「最も神聖で清浄である」、「主基」とは「次」という意味があります。現在では新潟、長野、静岡の線で、国内を東西に二分して、その三県を含む東側を「悠紀の地方」、それより西側を「主基の地方」と定める。東京都神社庁
  • [v] 亀の甲を焼き、その生じた割れ目の模様で吉凶を判断した古代の占い。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vi] 718年(養老2)、藤原不比等らが、大宝律令を若干修正して編纂(へんさん)した律・令各一〇巻。757年より施行。律の大半は散逸。令は大部分が現存の「令義解(りようのぎげ)」の本文に残る。『三省堂 大辞林 第三版』

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