今回の記事では日本で起きた戦乱を解説していくシリーズの第2弾として,江戸から大正までの歴史に注目し,その時代背景や結果などについて説明していきます。前回の記事である安土桃山までの歴史に比べて,近代の歴史における戦乱は受験でも登場しやすいです。それゆえ少しずつでも構いませんので,合格に向けて地道に知識を身につけていきましょう。
江戸時代
さて,まずは前回扱った安土桃山時代の続きである江戸時代の説明を進めていきます。江戸時代は徳川家康の全国統一で幕を開けます。豊臣秀吉が亡くなった後,豊臣氏を支えようとする石田三成らと家康の間で権力争いが起こります。その争いを発端とし,1600年に関ヶ原の戦いが起こり,結果家康率いる東軍が三成率いる西軍に対して勝利を収めました。この関ヶ原の戦いの後,家康は征夷大将軍に命じられ江戸幕府を開きます。このように全国支配への足がかりになったことから,関ヶ原の戦いはときに天下分け目と呼ばれます。そのような呼称があるほど歴史的意義のある戦乱だったので,しっかり覚えておきましょう。
以上のようにして力を強めて行った家康ですが,その後彼は豊臣家を完全に滅ぼし,全国支配を確立させようとします。そうして起こった戦乱が大坂の陣です。この大坂の陣は2度に渡り発生し,1614年の1回目が冬の陣,1615年の2回目が夏の陣と呼ばれます。これによって家康は自らの全国支配を確固たるものにし,約250年続く江戸時代が始まりました。
この江戸時代は平和だったとはいえ,一切の戦乱が起きなかったわけではありません。そのうち覚えておきたいものの1つがシャクシャインの戦いです。松前藩が蝦夷地のアイヌの人々に不利になり,他方日本にとって大変有利な交易を行うよう圧力をかけました。その結果起きた蜂起が,アイヌの首長であるシャクシャインの戦いです。彼が率いるアイヌの軍隊は松前郡を追い詰めるのですが,シャクシャインが討たれてしまったことを機に勢いは弱まり,反抗は失敗に終わってしまいました。
そしてこの頃発生したもう1つの戦乱が島原・天草一揆です。江戸幕府は3代将軍家光のとき,信者が団結して反乱を起こすことを恐れ,キリスト教禁教令を出します。島原・天草一揆はこの禁教を不満に思った者たちによる戦乱です。島原・天草というのは九州の地方の名前を指すのですが,この一帯にはキリスト教信者がとても多く存在していました。彼らは先に述べた禁教令による弾圧と,領主による重税に苦しんでいたため,天草四郎という少年を総大将として幕府と戦いました。結果,一揆の勢力は幕府軍に甚大な被害を与えたものの最後には負けてしまい,以降鎖国と禁教が強化されることとなりました。
ここからは江戸時代後半の戦乱に移ります。江戸時代は約260年という長い期間続くのですが,上で見たような戦いが終わった後については,幕府が強大な力を持っていたため平和が続いていました。そのため以下では治安が乱れて社会が大きく変わる,つまり戦乱が相次ぐタイミングである江戸後期に話を移していきます。中期の話を知りたい方は,別シリーズの制度・法律史などを参考にしてみてください。
まずは大雑把な社会情勢の把握から進めていきましょう。江戸時代は他の時代に比べて平和だったものの百姓の抱える負担は著しく,それだけでなく後期には各地でききんと呼ばれる凶作が相次ぎます。このことに反感を覚えたことから,江戸時代後期には打ちこわしと呼ばれる米を買い占めた商人などへの襲撃や,百姓一揆と呼ばれる領主への反抗が相次ぎます。このときからかさ連判状と呼ばれる,誰が首謀者かわからないように仕組んだ署名などが用いられたのですが,そのような時代背景に基づいて以下では説明を続けていきます。
まず注目したいのが大塩の乱です。これは1837年に大阪町の奉行所の役人だった大塩平八郎が,天保という時代に起こったききんで苦しむ農民の救済を訴えたのですが,それが聞き入れられなかったことから発生した反乱のことを指します。この反乱は失敗に終わってしまったものの,元役人が反乱を起こしたという事実は幕府を揺るがし,やがて水野忠邦による天保の改革につながります。また大塩平八郎の想いは全国に広がり,これまで以上に一揆や打ちこわしが発生するようになります。
このように社会の様子がどんどん変わっていく中で,江戸時代後期にはペリーをはじめとする外国船がたくさん日本にやってきます。江戸幕府は鎖国を守るために異国船打払令を出したのですが,蘭学者,つまり西洋の学問を研究していた人である渡辺崋山や高野長英をはじめとする人々がこの法律を批判するようになります。この批判に対して1839年に起こった弾圧事件を蛮社の獄と呼びます。戦乱と呼ばれるほど大きなイベントではないですが,この事件およびアヘン戦争を機に幕府の対外政策が変わっていくので,社会のターニングポイントとして頭に入れておくといいでしょう。
そして対外政策が改まり,幕府は大老であった井伊直弼を中心として外国と日米和親条約と日米修好通商条約を結び,開国を決めてしまいました。以上のように条約を結んでしまったことについては,外国勢力を追いやって頼りのない幕府でなく天皇を中心に国を作り直そうとする反対派の反発を呼びます。この反発を収めるために1858年に起こった事件が安政の大獄で,井伊直弼によって百数人の反対派が投獄され,さらには吉田松陰・橋本左内などの代表者が処刑されてしまいました。しかしこの事件をきっかけにして井伊への批判はさらに高まり,1860年に水戸藩の元藩士によって井伊は暗殺されてしまいました。この暗殺事件を桜田門外の変と呼びます。この暗殺事件によって幕府は政治を改革する必要を認識するのですが,この2つの事件は一連の流れとして覚えておくことをオススメします。
最後に見ていくのは戊辰戦争です。これは政権が朝廷に返上される大政奉還・新しい政治体制の樹立を宣言する王政復古の大号令を受けて,1868年から1869年の期間にかけて起こった戦乱を指します。政治が新しいものへと移ろうとしていく中でも旧幕府や最後の将軍慶喜の味方を勢力は健在であったため,この勢力と新政府の軍隊との間に対立が発生し,その対立が過激化して戊辰戦争は幕を開けました。この戦争に関しては,勝海舟や西郷隆盛といった人たちが活躍し江戸城が攻撃を受けることなく新政府へ引き渡されたことをはじめ,多数のエピソードが現代まで受け継がれているので興味のある方は調べてみるといいでしょう。この戊辰戦争は最終的に旧幕府軍が敗れることで決着がつき,国内は新政府によって統一され,明治時代が始まるのでした。
明治時代
ここからは明治時代について確認していきます。明治時代に突入すると,政府は天皇中心の政治の方針を発表し,西洋をお手本とした様々な改革を推し進めていきます。その内容は多岐にわたるのですが,そちらについては別シリーズである制度・法律史の記事を参考にしていただくとして,それらの改革によって日本は大きく姿を変えていきます。しかし政府の要職は特定の藩出身の人間によって固められていて,そのように政治参加の権利が奪われていたことと,農民は重い税金に,元武士である士族は特権を奪われたことに反感を抱いていました。以上のように不満を抱いた者のうち,明治時代初期には士族による反乱が相次ぎます。その中の1つが1877年に起こった西南戦争です。この戦争は政府を追いやられた西郷隆盛を押し立てて始まったものになります。西郷は政府において,積極的に外国と関わっていこう(=征韓論),という主張をしていたのですが,この立場が強い国づくりを優先すべきだ(=内治優先論)とする意見の前に敗れてしまったことで,彼は政府を去っていました。そんな彼を中心に起こったこの西南戦争は,士族が起こした反乱としては最大のものでしたが,徴兵令によって組織された政府軍の前に沈められてしまうのでした。この戦争を機に,武力での抵抗が意味をもたないということが理解され,政府への批判は言論が中心になっていきます。
そして言論による批判が繰り広げられる中で,やがて議院を開いて国民が政治参加できるようにするべきだと唱える自由民権運動が展開されるようになります。政府はこの運動を弾圧していくのですが,政府の弾圧を受け運動はさらに激化し,武力衝突につながってしまうのでした。その一例として覚えておきたいものが,1884年に起きた秩父事件です。西南戦争後,埼玉県の秩父では物価の下落によって生活が困窮する人が大勢現れました。この状況を打破するため秩父国民党という組織がつくられ,借金の帳消しなどを求めるのですが訴えは聞き入れられず,そのことを背景として発生した暴動がこの秩父事件になります。この蜂起は警察や軍隊によって押さえられてしまうのですが,その規模と衝撃から受験で登場してもおかしくないでしょう。
以上のような自由民権運動は,過激な事件へとつながることもあったものの,帝国議会や選挙の開催という形で実を結び,それと同時に日本は殖産興業などの成功により強い国家へと成り上がっていきます。ここで日本は,海外に進出してアメリカやイギリスに並ぶほど強い国家になろうと動き始めます。そのような姿勢によって起きたものが,1894年から1895年にかけての日清戦争です。日清戦争のきっかけは朝鮮で起こった,反キリスト教団体を中心に起こった反乱である甲午農民戦争を収めようと,日本・清がともに兵を派遣したことにあります。日本は日清戦争で有利に戦いを進め,清を破って下関条約を結びました。その内容は賠償金の支払い,土地の割譲などであり,日本はこれにより資本主義体制を確立し,世界に強さを見せつけることになるのでした。
続いて発生するのが1904年から1905年にかけての日露戦争です。日清戦争で清が破れると,ロシアは勢力拡大を狙って中国へ兵を進めるようになるのですが,日本はロシアの兵力により日清戦争で勝ち取った朝鮮半島に対する権益が脅かされることを次第に恐れていきます。このロシアの動きを食い止めるため日本はイギリスと日英同盟を結び,その後ろ盾をもってロシアと交渉を行うのですが失敗し,1904年2月に中国東北部の旅順という場所で本格的な戦争が始まってしまうのでした。日本は苦戦しながらも勝利を重ねるのですが,日本・ロシアともに戦争を続けるほどの力がなくなってしまい,アメリカの仲介でポーツマス条約を結ぶことで戦争は終わります。しかしこの条約で日本が得たものは鉄道の利権や土地の割譲などでしかなく,賠償金を得ることはできませんでした。このことが国内に広まると,戦争に耐えてきた国民の怒りが収められなくなり,条約破棄を訴える国民のうち暴徒化したものが,日比谷公園付近にある,官邸や政府の味方をするような新聞社,さらには条約を仲介したアメリカと繋がりのある米国公使館や教会に火を放ちます。この暴動が日比谷焼き討ち事件です。このような国民の間に起こった不満とセットで,日露戦争は頭に入れておくといいでしょう。
大正時代
最後に大正時代に移ります。といってもこの大正時代は1912年から1926年までの短い期間しかなく,そこまでイベントが頻発したわけではないのですが,いくつか覚えておきたいものをピックアップしてご紹介していきます。この大正時代の期間,世界では第一次世界大戦が発生します。日本はこの大戦に対して大きく関与したわけではないのですが,日英同盟とドイツへの制裁を理由に,ドイツが占領していた中国の地域を攻撃しました。
そんな世界における更なる進出を目論む日本でしたが,国内では大正デモクラシーと呼ばれる運動が盛んになっていきました。その中には労働争議や小作争議といった不利な立場にある人々の地位向上を図るものもあり,政治の場面では普通選挙法が制定され国民の政治参加がより容易になる一方,治安維持法が同時に作られたことにより国家や天皇に伊を唱える人々は弾圧されてしまうのでした。
以上の歴史は戦乱・戦争といった文脈のものではないので重要な用語などは特にないのですが,第3弾の戦前〜戦後編を読むにあたって必要となる知識ですので,ぜひ頭に入れておきましょう。
終わりに
この記事ではここまで江戸時代から大正時代までにかけての戦乱の歴史を追っていきました。近代と呼ばれるこの時代に発生した戦乱は,その構造も背景もなかなか覚えづらいものばかりです。そのため以下のおすすめ記事や参考書籍を使いながらさらなる対策を進めていきましょう。本記事がこの後の学習のお役に立てば幸いです。
(ライター:大舘)