歴史問題読解〜仏教文化〜

今回は2020年度のフェリス女学院中学校の社会の過去問を一部修正して社会の問題の解き方、さらに仏教文化について説明していきます。 

問題 

 東大寺に最初に大仏がつくられたのは、今からおよそ1300年前の奈良時代です。a聖武天皇は、さまざまな社会不安が続くなか、仏教の力で国が安らかになることを願い、国分寺を建てることや大仏をつくることを命令しました。またb僧の行基にも協力を命じました。聖武天皇の次の天皇の時代に大仏が完成すると、貴族や僧など1万人が参列し、盛大な式典が行われました。聖武天皇の遺品を納めた東大寺のc正倉院には、その式典で使われた品々も納められています。 

 東大寺はその後、平安時代末の源氏と平氏の合戦で平氏によっ焼きうちにされ、大半が焼けてしまいました。『( d )』によれば、大仏は頭が焼け落ち、胴体は溶けて山のようになったそうです。しかしすぐに僧が民衆から寄付を集めたり、朝廷や源頼朝の援助によって大仏はつくり直され、大仏殿も再建されました。またこのとき南大門に安置された運慶・快慶らによる( e )は、鎌倉文化の代表的な作品です。 

問1

下線部aについて、このほか聖武天皇がたびたびおこなったあることも、この時期の社会不安が背景にあったと考えられます。あることとは、どんなことですか。 

解き方

【解答】
都を移したこと。(遷都)

聖武天皇の時代の社会不安についておさえておくことがポイントです。 

聖武天皇の時代は藤原氏が台頭をし始め、長屋王の変藤原広嗣の乱など、豪族らによる政治の動乱が相継ぎました。天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで亡くなるなどの災禍にみまわれていました。そのような動乱の結果、聖武天皇の時代には恭仁京→難波京→紫香楽宮などに都を移すこととなりました。さらに仏教をあつく信仰していた聖武天皇は下線部にもあるように国分寺や大仏の建立を命じました。

問2

下線部bについて、朝廷は行基を僧の高い位につけて、大仏づくりに協力させました。それ以前は、行基は朝廷からどのように見られていましたか。

解き方

【解答】
朝廷が禁止しているのにもかかわらず、寺院の外で仏教を広めたため、敵視されていた。

奈良時代の仏教は鎮護国家の思想と大きな結びつきを持っていました。当時の仏教についておさえておきましょう。 

仏教は中国大陸からもたらされ、当時僧は遣唐使と共に唐に渡り仏教の教えを学んでいました。わが国における仏教の中心は平城京で建てられた興福寺・東大寺・西大寺と平城京外の法隆寺を含めた南都七大寺でした。それらの寺院が中心となって南都六宗と呼ばれる学問を学んでいました。そのように知識のある僧は聖武天皇にも重宝され政界でも活躍していました。 

そのような僧と違い行基は民間に教えを広めようとしていました。当時仏教は民間にまで広まっているものではなく、貴族が中心でした。また、寺院外で仏教を広めることも禁止されていました。そのため朝廷にとって行基はあまり好ましくない存在であったといえます。 

問3

下線部cについて、正倉院のように、断面が三角形の木材を組み合わせて壁をつくる建築法を何といいますか。

解き方

【解答】
校倉造

校倉造は奈良時代から平安時代初期にかけて寺院や官庁の宝庫、倉に多く使われた建築様式です。なかでも代表作といえるのが東大寺の正倉院です。他には唐招提寺の宝蔵、経蔵が有名です。奈良時代に建てられや有名な寺と共に合わせて覚えておきたいワードです。 

問4

『( d )』には、平氏一族が栄え、滅びていくさまがつづられた、鎌倉時代に成立した文学作品が入ります。その作品を答えなさい。 

解き方

【解答】
『平家物語』

日本の軍記物語であり、非常に重要です。琵琶法師の語る平曲として広く民衆にも親しまれるものとなりました。源氏と平氏の戦いを平氏側を中心に盛者必衰諸行無常の物語として描かれている、歴史的史実をもとにした物語です。 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
(日本古典文学全集『平家物語』参照)

有名な冒頭も合わせて覚えておいても良いでしょう。 

問5

下線部eについて、この合戦で活躍した源義経は、のちに兄と対立し、ある一族をたよって逃れました。この一族は何と呼ばれましたか。

解き方

【解答】
奥州藤原氏

奥州藤原氏は現在の岩手県の南西部に住む豪族でした。奥州藤原氏が全盛期の頃に建てた中尊寺金色堂鎌倉文化を象徴する建築物として有名です。 

さらに、源氏と平氏の戦いで活躍した名将源義経がなぜ兄と対立することになったのかについてもおさえておきましょう。一の谷戦いなどで大勝利をおさめた源義経を白河法皇が重宝したことがきっかけとなっています。源頼朝は白河法皇に重宝された源義経が反旗を翻すことをおそれ、先手を打つ形で源義経討伐の命を出し、孤立した源義経は奥州藤原氏のもとへと逃げます。しかし、源頼朝の兵により源義経は討たれ、奥州藤原氏も滅びてしまいました。 

問6

( e )に入る言葉を答えなさい。

解き方

【解答】
金剛力士像

鎌倉時代の文化で必ずおさえておきたい人物達です。運慶・快慶は平安時代の定朝の流れをくむ仏師で主に東大寺の再建に貢献したほか、様々な仏像を作りあげました。その一つとして有名なのが、南大門に設置された金剛力士像です。力たくましく、写実的な仏像が鎌倉時代の特徴です。 

まとめ

2020年度のフェリス女学院中学校の社会の過去問を用いながら奈良時代・鎌倉時代の仏教文化、歴史の流れを見てきました。 

仏教文化には寺院の建築様式や仏教を誰が信仰しているか誰に広まっていたのかなど政治とも密接に関わってきます。当時の流れと共に仏教文化もおさえていくと良いでしょう。 

文化の覚え方のコツは特徴的な建物や仏像などをおさえることと共に文化の担い手についても合わせて覚えていくことです。 

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